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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.10)

                       生贄として被る試練




ヨセフがやって来ると、兄たちは・・・・彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。・・・・ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それよりも、あのイシュマエル人に売ろうではないか。・・・・」・・・・ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ・・・・売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。
                                                  【創世記37章23~28節】


波乱万丈なヨセフの「人生」
 今回の記事には、ヤコブが溺愛したヨセフに関する、彼の人生最大の「危機」が描かれています。彼は、兄たちの共謀により暗殺されるという、非常事態の中にあった訳ですが、不思議な神の「守り」と「導き」により、ミディアン商隊に奴隷として売られます。その結果彼の「命(人生)」は、文字通り「(死から)逃れる道」が備えられました。


 このようにヨセフの人生には、その後も「危機(マイナス)」の状況が何度も訪れる訳ですが、今回の記事には別の意味での、素晴らしい霊的奥儀が示されています。それは主なる神の為されることは、私たちの人知を遥かに優る次元の中で、「その時」には耐えられないような出来事であっても、必ず「神の時」が訪れて、「逃れの道」を用意し、最終的に「益(プラス)」として下さる!という点です。


 ヨセフにとっては、今回の兄たちの突然の変貌ぶり(仕打ち)は、彼の理解を超える、到底受け入れ難きものでした。彼は普段から、兄たちと対立していた訳ではありません。ところが兄たちにとって、ヨセフの気に食わぬ点が一つありました。それは、父親(ヤコブ)から一番に愛されている!という、人間的「妬み」から発する、積もり積もった「怒り」でした。


「生贄」という神の取扱い
 今回の記事から学ぶべき重要なポイント、それはヨセフの人生に対する神の取扱いは、彼が次々と被る「苦難」と「悲しみ」、また予想しない「試練」を受けるなど、そのような中においても主なる神は、ヨセフの「思い」を遥かに超える次元の中で、次の段階へと成長させるべく、様々に取扱う訳ですが、最終的には神の示す預言的人生を、必ず彼の人生に実現する(神の事実として起こす)!という点です。


 ヨセフの人生を紐解く上で、「生きた生贄」という第一のキーワードをもって読み進めますと、実は私たちの人生に被る様々な出来事も、浅はかな三次元的思考で理解できないことでも、神の真摯な取扱いの次元からは、ヨセフ同様のプロセスを通して、実は私たちも神の示す預言的人生が、人生の各節目において、必ず用意されていることが分かります。


 私たちが「生贄」を捧げる行程(プロセス)を、実際に見たとしたら、「とんでもない!こんなに酷い儀式とは!」と叫び、そのおぞましい行為に、目を向けられないと思います。「生きた生贄」には、①対象物として「選ぶ(選ばれる)」という、最初のプロセスが伴います。選ぶ側も勇気が要りますが、選ばれる側としては「え!自分じゃなくても良いのでは?」などと、必ず受け入れ難きものです。


 また「選ばれる」ことは、群れ(共同体)の中から「切り離される」ことを意味します。これが今回ヨセフに起きた出来事です。自分が思い描いていた、家族の中での将来像が崩れ去り、慕っていた兄たちから突然に裏切られ、遠い外国の地へと「奴隷」として売られました。


 「生贄」の第二のプロセスは、②「殺される」という、想像を絶する目的(意味)が伴います。そうです!「生贄」とは、生きたままでは済まされず、「殺す」過程で血を流さなければ意味を成しません。私たちは、ヨセフのような犠牲的「試練」を、簡単に受け入れることは出来ません。何故なら、いつかは「殺される」かも知れない!という、肉体的「恐怖」が付きまとうからです。


 「生贄」の第三のプロセスは、③「(パーツごとに)切り裂かれる」という、最大の耐え難き最終処理が伴います。先ず頭部と四肢を切り、続いて真ん中の腹部を切り開きます。切り開かれた腹部の中から、内臓の全てを切り取り、各部位を綺麗に洗浄して盆に盛ります。その後に各パーツを「生贄」として祭壇上に置き、ようやく全焼という神の「点火」に移行する訳です。


 この三つのプロセスに関しては、私たちは常に覚えておく必要があります。何故なら、この三つのプロセスは、霊的に言えば私たちキリスト者が、イエス・キリストの「花嫁」として、霊的に整われて行く上で、逃れることの出来ないものだからです。


 私たちは「え!そんな経験をするくらいだったら、花嫁として選ばれなくても結構です。」と言いたくなりますが、主なる神の「取扱い」の最終目的は、私たちを「殺(廃棄)処分」することではなく、「新しいあなた(私)」を創造し、真の礼拝者へと造りかえることにあります。


「主役」の交代劇
 ヨセフに対する、神の「取扱い」の第二のキーワードは、「離される(分離して取って置かれる)」ことです。私たちは、アダム(エバ)の犯した「罪」の結果、ある「大事なもの」を所有しています。その「大事なもの」とは、「自分の命(生きがい、人生)」のことです。これを主なる神が、「あなたから離す(奪う)!」と命じたら、即ち「あなたの命の所有権は、この私にあるから、それを私に託しなさい!」と言われた場合、霊的な次元において「はい主よ、あなたに全てを捧げます!」と返答できても、魂の根底にある私の声としては、例えば「だけど・・・・」などと、完全に捧げ切っていない、「自分(私)」があるのではないでしょうか。


 しかし最終的にヨセフは、神の「取扱い」を受けることで、当初は「私が・・・・する」などの行動・意思が、彼の場合は顕著に現れていたのですが、次第にそれらのものが「主なる神が(自分を)・・・・へと導く」と考えるなど、霊的に「主役」の交代劇が起きています。


 つまり主なる神が、自分の人生を如何様にも支配し、正しい方向へと取扱って下さることに、聖霊様を通して気付かされます。彼は自分の人生を「マイナスだらけだ!」と思っていた訳ですが、結果に関して言えば「常にプラスである!」など、自分の人知を超えた次元で、必ず逆転劇が起きていたのです。


 特に今回の記事に関して言えば、兄たちの当初の人間的計画では、ヨセフの「血の生贄」、つまり殺処分(彼の死)を望んでいました。ところが主なる神の、不思議な介入(導きとご計画)により、ミディアン人の手に渡されることになります。即ちヨセフの人生は、常に神の御手にあり、如何なる「人の計画」も、神の絶えざる「守り」と「導き」には、介入することが出来ません。


 そうです!私たちは、たとえ自分が「ポンコツ」に見えたとしても、神の御目には「貴いあなた(私)」として見られ、「熱情の愛」をもって、豊かに守り導く真実なる方、それが主なる神です。「私を創造して下さった神は、必ず自分を祝福の次元へと導き、本当の最高の人生を与えるべく、様々に働きかけて下さる!」と、このように「主役」は自分ではなく、常に「真実な方(神)」である!と告白しましょう!


 全ての事を相働かせて「益(プラス)」として下さり、「先にあるもの」を、「今必要なもの」として用意して下さる神が、あなたの人生を豊かに支配して下さり、変わらざる「恵み」をもって、常に守り導き祝福して下さいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年3月8日のメッセ-ジ)



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