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Terminal Sound(No.38)

K・バルナバ

花婿の「最後通告(ラスト・サウンド)」

 


 

私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて、戸口を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私は自分の座に共に座らせよう。私が勝利を得て、私の父と共にその玉座に着いたのと同じように。

          【ヨハネ黙示録3章19~21節】

 

花婿の発する「サウンド」

 リーダーの発するサウンドが、何を意図しているのか、その真意を正しく聞き取ることが、私たち聞き手には求められます。何故ならば、私たちは時折、進むべき「道(方向性)」を、リーダーの語る言葉如何によって、いとも簡単に誤る可能性があるからです。

 

 ではイエス・キリストの場合は、今回の預言書の中において、如何なる「最後通告」を、地上に生きる私たちキリスト者に対して、また今後救われるであろう、多くの魂に対して、大いなるサウンドとして発しているのか?その真意を汲み取ることが、今の「終わりの時」には、尚更重要となります。

 

 ところでイエス・キリストは、何の為に再臨されるのでしょうか?それは賢い乙女たち(キリストの花嫁)に向けて、「あなた方は今まで、よくぞ忍耐して待っていてくれたね!さー、私と共に御国に帰ろう。」と、歓喜の笑顔で語るなど、それはフィナーレの始まりを告げる為です。その前に、実は聞き逃してはならない、大切な「兆し(しるし)」があります。その「しるし」とは、思いがけない時に、真実の花婿イエス・キリストが、愛する真の花嫁を迎えるべく、偉大なる「サウンド」を用意することです。

 

 その際に、それが①「いつ」発せられるのか?、また②「どのようにして」現われ出るのか?そして③「何」の為に発せられるのか?この三つのポイントを、正しく知ることが重要となります。実は全てのサウンドには、その「兆し」となるタイミングがあります。即ち予備的なサウンドが、必ず用意されています。

 

 イエス・キリストの「福音」もそうですが、この予備的なサウンドは、「叱ったり、鍛えたり」(19節)の表現にあるように、先ず「愛する者」を叱咤します。この「愛する者」とは、あからさまに聖霊を冒涜する者以外の、全ての人々を指します。続いて「鍛える」とは、真の羊飼いとして、たとえ一頭であっても、羊が誤った道に入って、崖から落ちてしまわないよう、羊飼いは「自分の声」を、羊たちが明確に聞き分けられるよう、常に特殊な「サウンド」を発することで、羊を召集したりする際の訓練を課します。

 

 詩篇23篇4節に記されているように、主なる神(羊飼い)の「鞭」と「杖」は、いわゆる「懲罰を与えるもの」ではなく、危険な場所・時間帯に、羊たちが立ち入らないよう、鞭をもって「危険音(シグナル・サウンド)」を発することを意味します。人の歩む「道のり」には、躓きや転倒を引き起こす、様々な危険因子があるように、この世には罪を引き起こす、様々な誘惑や罠が、サタンによって仕掛けられています。だからこそ聖書は、主なる神の発する「サウンド」をもって、常に「正しい道」へと導くべく、御言葉(命の言葉)で霊的に鍛えたり、またある時は「悪しき道」に迷い込まないよう、懲らしめのサウンドを発して下さいます。

 

花婿の「ラスト・サウンド」

 では「終わりの時代」に発せられる、イエス・キリストの「ラスト・サウンド」は、如何なるものでしょうか?前提として覚えて戴きたいことは、イエス・キリストは思いがけない時に、突然に帰って来られる!という点です。「思いがけない時」とは、いつでしょうか?それは、私たちが想定(推測)できる時ではなく、逆説になりますが、私たちが「油断した時」です。私たちがイエス・キリストにではなく、「この世」の事に明け暮れる(欲する)時、それが「油断する時」になるのです。

 

 イエス・キリストが明言する「私は帰って(戻って)来る」とは、具体的に「いつ」を示唆する表現ではなく、「必ず帰還(再臨)する!」という、ある種の「約束(契約)」を宣言するものです。ならば私たちは、それを「いつ?」という、「人の時」で計るのではなく、 「必ず帰って来る」ことを素直に信じて、ただ「待てば良い」のです。その為には当然、「帰って来られた時」の為に、準備する(備える)ことが肝心です。

 

 そしてイエス・キリストが帰って来られる際には、どのような「行動(有り様)」を為されるのか?それが「あなたの霊の戸口に立つ!」ことです。と言うことは、私たちの花婿なる方、主イエス・キリストは、聖霊様の働きを通して、常に私たちの側近くに居て下さるのです。その時にイエス・キリストは、私たちの「霊の扉」を、必ずノックして下さいます。そして聖霊様は、おごそかに命じます。「いよいよ、その時が来ているから、備えを確実に行いなさい。あなたのしみや傷、汚れの全てが聖められているか、しっかりと点検しなさい!祈りの炎を絶やすことが、決して無いように。」と。

 

 あなたにとって、イエス・キリストの発せられる、様々な「サウンド」や「御教え」が、何にも優る「麗しいもの」になっていますか?私たちが「他のもの(世のもの)」を、追い求めている時が「油断」になるのです。その時に、イエス・キリストが来られても、気付かない者(愚かな乙女)が、結局は取り残されることになります。イエス・キリストの「来臨の時」は、たった一度限りの「訪れ」である!、このことを常に肝に銘じて下さい。

 

 結論になりますが、イエス・キリストは私たちと共に、「食卓」を囲みながら、如何なるサウンドを発して下さるのでしょうか?それは待ちに待った花婿のセリフ、「よくぞ忍耐して、私の帰りを待っていてくれたね!さー、私と共に婚礼の席に着こう!」です。だからこそ花嫁(賢い乙女)も、聖霊様と同様に、喜びの声を上げて言うのです。「花婿なる主イエス・キリストよ、早く来て下さい!」と。

 

 私たちは常に、この真実の花婿なる方 、主イエス・キリストと親しく交わる、真のエクレシアとして、この「終わりの時代」に遣わされています。と同時に、遂に「その時」には、イエス・キリストと共に、御国の婚礼(大宴会)の席に、凱旋しながら帰還する「神のVIP」でもあります。

 

 故に私たちは、朝から夜に至るまで、救い主イエス・キリストの御名を称えながら、日々花婿のラスト・サウンド(福音)を、多くの人々に届けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2025年11月30日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・神の定めた時(10/7掲載予定)

 

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Terminal Sound(No.37)

K・バルナバ

     「証人」としてのサウンド

 

 

 

リストラに、足の不自由な男が座っていた。・・・・この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、癒されるのに相応しい信仰があるのを認め、「自分の足で真っすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩き出した。群衆は・・・・声を張り上げ・・・・「神々が人間の姿をとって・・・・お降りになった」・・・・と言った。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び・・・・パウロを「ヘルメス」と呼んだ。・・・・バルナバとパウロは・・・・服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。「皆さん・・・・私たちも、あなた方と同じ人間に過ぎません。・・・・神は・・・・恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さつているのです・・・・」

          【使徒行伝14章8~17節】

 

キリストの「メッセンジャー(証人)」

私たちは「終わりの時代」に、如何なる(身分の)者として、大いなる神のサウンドを発するべきでしょうか?その身分とは、「キリストの証人(代弁者)」です。然り!イエス・キリストが御国に帰還している間、私たちがキリストのメッセンジャーなのです。それ故に、私たちは大声でキリストの「福音」を、多くの人々に叫ぶ務めがあります。

 

偶像の神々が満ちる日本国にあって、私たちが「キリストの証人」として語る時、そこには当然の如くに迫害(霊的衝突)が起きます。しかし彼らは、悪魔サタンに騙され、霊的に縛られているのであって、真の敵ではありません。その中には必ず、神の「救い」にあずかる者が存在します。

 

覚えて戴きたいことは、敵が用意する反キリスト(偽メシヤ)は、いきなり登場する訳ではありません。彼が国際舞台に登壇する前には、地上の楽園(ユートピア)を、バビロンに建て上げるべく、様々な国際リーダーたちが「一つ」にまとまります。その時に反キリストとなる指導者が、いきなり頭角を現わすのではなく、徐々に国際的な首脳級会議に参加しつつ、その麗しい弁舌をもって、偽りのサウンド(世的な福音)を語ることで、多くの政治的リーダーたちを魅了して行きます。

 

「何」を証言するのか?

今回の記事に見られる出来事は、ある意味で日本にも起きる、預言的啓示の一つですが、ここで重要となる第一のポイン、それはイエス・キリストが「福音」の真髄として、人々に語ったメッセージの中心が、「神の国(王国)」に関することである!という点です。イエス・キリストは、地上の「国家」レベルに関することを、人々に語ったのではなく、実際に「神の国」が地上に来る(もたらされる)時には、如何なる事が起きるのか?そして「神の国」の規模は、地上の国家権力(勢力、覇権)には無いもの、つまり「世の次元」よりも、遥かに優った次元の中で、豊かに拡大して行くなど、見えざる霊的次元に存在することを証言しました。

 

ですから私たちを、イエス・キリストの「証人(証言者)」として、聖霊様が仕立てるのであれば、私たちもイエス・キリストと同様の、「神の国」に関するメッセンジャー、つまり自らも「神の国」の次元に生きる(体験する)、一人の「発信者」であるべきです。然り!私たちも、イエス・キリストと同じように、例えば「この一輪の花を見なさい!歴史上の最大の知恵者であり、最高の繁栄を築いた君主ソロモン王は、この一輪の花が装う、天の自然な美に比べたら、何の魅力も無い程である。」と、大胆に「神の国」の証言を、大声で発する(叫ぶ)べきです。

 

仮にあなたが、日々「神の国」の次元を見出したいのであれば、イエス・キリストが勧めているように、「一羽の小鳥が、どう生きているのか?」を観察し、霊的にじっくりと学ぶ必要があります。小鳥は私たちが憂う次元、例えば「何か美味しいものを食べること」、」「あれこれと着飾ること」、「もっと良い家(屋敷)に住むこと」など、三次元レベルの世界で、あくせくして生きることをしません。小鳥は自然の本能に従って、食べる時は食べ、寝る時になったら眠り、子育てする時は身を犠牲にするなど、自然の流れに沿って生きています。つまり私たちのように、例えば「先(明日、来年、将来、老後等)」を案じる生き方をしません。

 

リストラの最初の「メッセンジャー」

リストラの地で、イエス・キリストの「福音」を、大声で大胆に語るパウロのサウンドを、じっくりと聞いていた足の不自由な者は、最初は只の傍観者でした。しかし「神の国」の次元に生き始めた、パウロの①「先」を案じず、②「死」を恐れず、③死んでも「神の国」にあって、イエス・キリストと共に、必ず復活する!という、彼自身の「生きた証言」に、次第に信仰が芽生えてきました。

 

そしてパウロは、自分の語る証言を聞く、彼の真剣なまなざしを見て、確信をもって大声で命じました。「自分の足でしつかりと立ち、イエス・キリストの御名によって歩き出しなさい!」と。すると彼は「アーメン、信じます!」と叫ぶや否や、何と力強く立ちあがり、自分で歩き始めたのです。

 

その後、足の不自由な者の語る大いなる「メッセージ(証言)」によって、リストラに暮らす人々、しかも偶像崇拝を好む市民の中から、パウロのことを勘違いして、「ヘルメス(現人神)様!」、バルナバのことを「ゼウス様!」と叫んで、彼らを伏し拝む人が続出しました。これを見たパウロは激怒して、「馬鹿なことをするな!我々は只の人の過ぎない。偶像という空しい神々を捨て、悪しき罪を悔い改めて、真の神、イエス・キリストに立ち返りなさい!」と、力強くメッセージしました。

 

 続いてパウロは「神は天から常に恵みの雨を降らせて、秋には実りの収穫を用意して下さる。それ故に、真の創造主を信じる者には、必ず真実の幸ある人生が待っている!」(17節)と、更にリストラの人々に力説しました。今後サタンは、私たち日本人キリスト者に対して、牙をむいて様々に問いかけるでしょう。「地上の王国の繁栄を求めて生きるのか、それとも神の国を求めて、みすぼらしく弱いまま生きるのか?」と。

 

 しかし覚えて下さい!私たちキリスト者の大いなる身分は、先ずイエス・キリストの「花嫁」であり、次に「神の兵士」として、真の敵サタンと霊的に戦う、聖霊様直属の「エクレシア部隊」です。だからこそ悪魔サタンは、今まで以上に「世の富」や、「地上の平和」をもって、霊的な罠を仕掛け攻撃して来ます。

 

「神の国」を第一とする生き方

 結論になりますが、イエス・キリストはルカ福音書12章21節で、次のように明言されています。「自分自身の為に、富を蓄えて築き上げる者は、神の御目には決して豊かに見えず、逆に一番貧しい者として映っている。」(直訳)と。続けてイエス・キリストは、多くの聴衆に対して「そのような世的な物を、優先的に求める生き方ではなく、神の国を求める生き方を第一としなさい。」と。

 

 そうです!「神の国」を、全てに優る第一のものとして、真摯に求めて生きる者に対して、主イエス・キリストは必ず、天の国より「祝福(恵み)」を与えて下さいます。ならば私たちは、どう生きるべきでしょうか?勿論、日々の糧を得るべく労働に従事します。しかしその労働は、「先(明日の事)」の為に働く次元のものではなく、いつ如何なる時にも、イエス・キリストの「証人」として、パウロやペテロの如くに、霊的に不自由な(世に縛られた)者の「救い」の為に働くべく、あなた(私)が「現場」に居る(①遣わされて、②語る時が用意されている)のです!

 

 そういう訳ですから、私たちはイエス・キリストに、全てを委ねながら、「神の国」の到来を待ち望みましょう!大いなることが、この日本にも起こるべく、その時が用意されています。今こそ!福音を大胆に語る、大いなるサウンドが、あなた(私)の唇に用意されています。聖霊様の大号令のもと、信仰のサウンドを発する時が、いよいよ近付いているからです。あなたが日々、主イエス・キリストと共に歩み、聖霊様の「助け」を戴きながら、力強く「証言」を語り前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2025年11月23日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・Terminal Sound(9/27掲載予定)

 



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神の定めた今(No.8)

K・バルナバ

     信仰者と共に始まる今

 

 

 

イエスは、「さあ、それを汲んで宴会の世話役の所へ持って行きなさい。」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった・・・・

          【ヨハネ福音書2章8~9節】

 

共に「事業(御業)」を進められる!

今回の記事には、神の定めた「今」が、遂にクライマックスの時を迎える、素晴らしい「出来事(奇跡の時)」が描かれています。さて、カナの婚礼の「奇跡」が起きる、その前後には、如何なる事が起きていたのでしょうか?目に見える「現実」だけを見ていたら、その隠された「神の事実」は解明できません。「神の国」の次元が、使用人たちの運んだ「水」に働き始めます。彼らの単純な信仰行動の中に、「神の国」の麗しい御業が、同時に動き始めたと言えます。

 

今回の記事から示される、覚えて戴きたい第一の重要ポイント、それは「神の国」が働き始める上で、主なる神は信じる私たちと、「共に事を為される!」という点です。然り!信仰の大小がどうであれ、弱き私たちと共に、聖霊様は事を進められます。この時に鍵となる、「神の国」が現れ出るタイミング、それが神の定めた「今」です。この「神の今」を知る者は、「人の時」がどうであれ、「神が御言葉を発せられたら、必ずその通りに成る!」と受け留め、信じて行動に移ります。

 

使用人たちは、イエス・キリストの言葉(ご指示)を、ただ単純に受け留め、指示通りに行動しただけです。聖書には彼らの単純な行動、その後の出来事が詳しく描かれています。「彼らは世話役の所に水を持って行き(8節)、その間に水が、まさに今この時に、ワインに変わった(9節)」(英語訳)のです。神の奇跡が起きる、その時系列を整理すると、①彼らが水をワイン容器(瓶)に満たし、次に②その容器を世話役の所にまで、運搬する過程で「神の今」が働き、③水が上等のワインに変わった、この三つの「神の時」の見えてきます。

 

使用人たちがワイン容器を運搬する、その一連の動作を見て、主なる神は聖霊様にゴーサインを出し、聖霊様が「水」を、上等の「ワイン」に造り変えました。造り変えたのが、具体的に如何なる時間帯だったのか?それを考える必要はありません。主なる神が「今!」と定められたら、全体的な「神の時」の流れから見ても、それは瞬時な「神の事実」の始まりです!使用人たちが世話役に対して、運んだワイン容器を差し出した時、容器の中で何が起きていたのか?知る由もありません。

 

「彼ら」という御国の単位

覚えて戴きたい事実は、イエス・キリストが為した奇跡は、決して手品(マジック)ではなく、また理科(化学)の実験でもありません。これは主なる神が為した、一方的な奇跡ではなく、マリヤの勧めにより、イエス・キリストの御言葉(指示)を信じて、その通りに実行した、つまり使用人たちとの共同作業の結果とも言えます。この「カナの婚礼」で起きた奇跡は、ある面で私たちの持つ、成功的価値観を覆します。即ち神は「一人の優れた器」ではなく、「複数の普通の(シンプルな)器」を用いて、共に「神の国」を建て上げて下さること、これが今回の記事から学ぶ、第二の重要ポイントです。

 

「新しい契約」の始まりに当たり、「カナの婚礼」における聖霊様の働きは、「一人の器」を用いるのではなく、「様々な器」がイエス・キリストの元に融合されて、一つとして共に働く(仕え合う)など、「神の国」の雛型を象徴しています。何度も繰り返しますが、イエス・キリストは「彼ら(マリヤ、使用人たち)」を用いられたのです。彼らに共通することは、神(主人、上役)の「御心」に対して、直ぐに順応することの出来る、柔軟な信仰(忠誠心)を持ち併せていた点です。

 

それ故に、私たちにも希望があります。私たちは「一人」で、何となく「自分には何の力(能力)も無い。この私に何ができようか!」などと、悲観的になる者(みすぼらしい器)と映ります。しかし聖霊様は、そんな「弱いあなた(私)」を、イエス・キリストの元に「一つ」として召喚される時、私たちは天から「新しい力」、即ち聖霊様の「賜物」を与えられ、そして「私たち(彼ら)」を通して、「神の国」を拡大し祝福して下さるのです!そうです!私たちという単位が、神によって召集された「神の民(兵士)」、即ち真のエクレシアです。覚えて下さい!聖霊様が計画しておられる、「終わりの時代」の霊的大収穫には、「一人」という優れた(秀でた)器ではなく、「彼ら」という複数の、名も無き「キリストの証人たち」を必要とされます。

 

上等なワインが必ず用意される!

今回の記事から示される、最後の重要ポイントは、聖霊様が私たちにも啓示されること、即ち「(それは)いつなのか(①水がワインに変わり、②神のしるしが現れ出て、③神の大いなる御業が起きるのか)?」という点です。この「いつか?」という次元は、人が計る「何年何月の何時何分」という、「人の時」ではありません。「神の時」は、何年かかっても、直ぐに来ても良いように、遜って祈り待ち続けることが大事であり、神の時が「今!」起きても、決して動揺すること無く、彼らのように瞬時に対応(順応)できること、これが何にも増して必要とされる、エクレシア(真の乙女たち)の姿勢です。

 

ですから、主なる神が「今!」と定められた(命じられた)以上、それは既に起きている(始められている)!こととして、瞬時に信仰行動に移ることが、終末のキリスト者に求められる、最大の霊的特徴と言えます。その結果イエス・キリストが、「最高のもの(上等なワイン)」をもって、私たちを常に満たされるのです。

 

神が起こす「奇跡」、それは世の人々が好んで賭ける、おみくじや宝くじの如き、「当たり」か「はずれ」の二択ではありません。信仰の創始者が命じられたら、それは「必ずその通りに成る!」という、100%の確率で成功(完成)に至るものです。主なる神の偉大なる「御業」を見るまで、「真のエクレシア」は前進し続けます。「命の水」を霊の只中に満たし続け、聖霊様が用意して下さる、「喜びのワイン」を人々に届ける為です。

 

私たちは決して「一人」ではありません!イエス・キリストが共に働かれる、真のエクレシア(私たち)です。あなたが、神の偉大なる「御救い」の事業に、「有用な器」として用いられ、聖霊様の働きに間に合うべく、豊かに取扱われながら、神が定める「今」の中で、日々前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2026年2月8日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・Terminal Sound(9/17掲載予定)


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