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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.9)

                ベト・エルに再び住みなさい!




神はヤコブに言われた。「さあ、ベト・エルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に・・・・あなたのために現れた神のための祭壇を造りなさい。」ヤコブは、家族の者や、一緒にいた全ての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。・・・・」・・・・ヤコブはやがて・・・・ベト・エルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベトエルと名付けた。・・・・神は再びヤコブに現れて・・・・言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」・・・・そしてヤコブは、神が自分と語られた場所をベト・エルと名付けた。
                                                                          【創世記35章1~15節】


「全て」を捨て去る
 ヤコブが取引した、二つの誓願の「祈り」のうち、今回は二つ目の祈りに対する、神の豊かな「報い(取扱い)」に関することです。彼は「主よ、あなたが無事に私を、父イサクの家に連れて帰ることが出来ましたなら、私は生涯あなたに従い仕えます!」と、非常に浅はかな「願い」を、神に申し出ました。この結果彼は、その後大変な「試練」を、何度も経験することになります。


 今回の記事から学ぶべき第一のポイント、それは人間的な「まとわり付く衣(しがらみ等)」の全てを、私たちが捨て去る(聖絶する)よう、神は何度も取扱われることがある!という点です。遂にラバンの元を、立ち去る(脱出する)ことが出来た彼ですが、未々「肉の自我(自分という衣)」を、脱ぎ捨てることが出来ませんでした。


 そして遂に彼は、神の使いと「格闘」するという、大いなる「取扱い」を受けます。この時にも、彼は「私は絶対負けない!」と、最後まで降参しなかったのですが、最終的に神の使いは、彼の腿つがいを打ち、彼は打ち負かされます。しかしその格闘中、神の使いは決して怒りの形相で、ヤコブと相対することはなく、むしろ石の枕で出会った時の、「主ご自身」と同様の臨在(御顔)をもって、「あなたの名はイスラエルである!」と、謎めいた言葉を告げました。


 その瞬間ヤコブは、「私は神と、直接顔と顔を突き合わせてしまった以上、もはや生きることが出来ない!」と、両手を挙げて降参します。まるで固い岩の塊が、粉々に打ち砕かれるように。そして全てが、即ハッピーエンド!であればよいのですが、この後も彼は、ある問題がまとわり付きます。


 それは自分の息子や娘たちが、異邦人の若者たちと交流することで、異邦の神々を装飾品として身に着けるなどの、汚れた慣習に染まるようになったことです。そして、挙句の果ては娘の一人が、異邦人の男子によって、性的に凌辱されるという、親として耐えられない事件を被り、さすがの彼も精神的にズタズタにされます。「私たちはここでは、もう無理だ!」と。


ベト・エルに再び住みなさい!
 その時に語られた神の言葉が、今回の「さー、ベト・エルに上り、そこに住みなさい・・・・」(36章1節)という有名な御言葉です。すると彼は「主よ、ボロボロに果てた私のような者が、ベト・エルに上り、あなたのために祭壇を築くことなど出来ましょうか!」と思いました。これが新しいヤコブの始まりとなります。


 今回の彼は、喩えて言うならポンコツどころか、もはや動かない廃棄自動車の如くに、聖霊様を通して取扱われました。その彼に対して、主なる神が再び語られたのです。「あなたがするのではない!あなたを連れ帰るのは、この私主であるから、ただ信じて帰りなさい。そして、そこに住み続けなさい!」と。


 この時の彼は、未だ分かりませんでした。その帰る真の目的地を。彼は当初、「そこ」を父イサクの居る故郷と、肉なるイメージで捉えていました。しかし主なる神が命じた「そこ」とは、ベト・エルのことでした。真の帰還場所に気付いた(教えられた)ヤコブは、「そうだ!あの石の枕において、主ご自身と聖なる誓いを交わした所に、私たちは帰るべきだ!」と悟り、聖霊様の指示のもと、ある三つの「身支度」を為します。


 今回の記事から学ぶべき第二のポイント、それはヤコブが実の父の元(故郷)に帰るのではなく、主なる神の御住まい(神の家)、即ち「ベト・エル」に帰るよう取扱われた、この聖霊様の導きに関して、私たちも知る必要があるという点です。


 ところで私たちが、「新型コロナウイルス」によって気付かされたことは、私たち「人」が、「見えざるもの」に対して、如何に弱い存在であるか!という点です。特に「言葉」という見えない情報に対して、私たちはすぐに恐れます。何故なら、私たちが現実的に見えないということで、勝手に肉なる「イメージ」を膨らまるからです。見えない「イメージ」に関して、私たちが注意しなければならないことは、「恐れ」の霊に満たされない(支配されない)ことです!


 とかく人は、イメージとして「何」を恐れて、毎日を生きているでしょうのか?その殆どが、「先(明日、来月、来年、将来等)」のことを心配して、あれこれと恐れる「弱さ」があります。「良い方向」で考えるのではなく、より良い「安定(安心保障)」のために、「もしもの時」という、「恐れ」の霊を呼び込んでいます。


 さて、いよいよ「ベト・エル」への帰還(出立)の時に当たり、ヤコブは聖霊様の指示により、三つの霊的身支度を実行しました。第一に①まとわり付く全ての偶像を捨て去ること。第二に②今までの汚れを一新すべく、徹底的に身を清めること。第三に③異教徒から得た(購入した)衣類、装飾品の全てを処分し、もともとの質素かつ清潔な衣服を着用すること、この三点です。


「新しい名」を呼ばわる神
 そして遂にヤコブ一族は、ベト・エルに帰還しました。その時主なる神は、ヤコブに対して直々「イスラエルよ!」と呼びかけられました。新しい名前で呼ばれた本人は、びっくりしたことでしょう。「え!私はヤコブだったはずですけど・・・・でも本当に、その名の通りの者かも知れない」と。


 「イスラエル」とは三つのヘブライ語の言葉、「イー(あなたは)」「スラー(~と戦う)」「エル(神)」から成り立っています。即ち「神と真剣に戦う者」、これが彼の新しい名前です。彼は、この新しい名前で呼ばれた時、自分が如何に愚かな次元で、肉なる戦いを為していたかに気付きました。そして本来自分が真剣に相対する(良い意味で霊的に戦う)方は、「主なる神」ご自身以外にない!ことを、改めて知ることになります。


 そうです!神との「戦い」を通して初めて知ったヤコブは、その後「はい!イスラエルはここにおります。」と、純粋(素直)に聞き従う「通り良き管」として、益々聖められることになります。神と戦う自分(イスラエル)に対して、主なる神は常に見守りながら、ベト・エルへと連れ上り、そこに再び住まわして下さることで、彼は遂に自分の霊の只中に、「ベト・エル(神の宮)」を見出したのです。


 私たちの人生を支配し、見えざる敵(新型コロナウイルス)から守り、様々な「デマ(偽りの言葉)」からも、決して騙されることのない、確固たる信仰を確立して下さる方が、「エル・ベトエル(あなたの中にある、神の宮を住まいとされる神)」です!私たちの信じる神は、私たちの霊の只中に住み続けて下さり、私たちの全てを大いなる祝福の中で、常に守り導く最高のお方(至高者)です。


 ヤコブはこの時点で、「全て」を神に明け渡しました。私たちは肉なる次元に対して、戦いを挑むようには召されていません。悪しき勢力が、私たちを「神の宮」から引き離そうとする、また「この世」の麗しさをもって、様々に「神の宮」を汚そうとするなど、そのような霊の次元において、神に対して相対する(激しく訴え出る)よう、私たちは召されているのです。


 私たちにとって見えざる敵は、確かに怖い存在です。しかし心配しないで下さい!あなたの神の宮の「鴨居(霊の戸口)」は、イエス・キリストの貴い「血潮」をもって、豊かに塗り聖められているからです。あなたが、「ベト・エルに再び住み続けなさい!」と語られたヤコブの如くに、常に自分の進む(歩む)先に、主イエス・キリストの臨在を据え置く、純粋な信仰者として聖められるよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年3月1日のメッセ-ジ)


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