バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.30)

「過ち」を繰り返さぬ為に




この人(モーセ)が・・・・四十年の間、荒れ野でも・・・・人々を導き出しました。この人が荒れ野の集会において・・・・天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造ったのはその頃で・・・・自分たちの手で造ったものを祭って楽しんでいました。・・・・それは預言者の書にこう書いてある通りです。「イスラエルの家よ、・・・・お前たちは・・・・モレクの神輿や・・・・ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、私はお前たちをバビロンの彼方へ移住させる。」
【使徒行伝7章36~43節】


「過去」から学び、どう生かすのか?
 私たち人間は、「過去」における数々の失敗を、歴史的教訓として学んだにも関わらず、同じ失敗を繰り返すところがあります。特に今の「終わりの時代」にあっては、霊的イスラエルの民である、私たちキリスト者の全てが、過去の「失敗(過ち)」を繰り返さぬべく、来たる霊的「戦い」に向け「いざ出陣!」と、身を慎んで備えるべきところでしょうが、世界的な「災い」と、迫り来る世界大戦の如き「戦争」の足音に、逆に震え慄くキリスト者も増加しています。


 しかしステパノが、今回の御言葉を通して、今に生きる私たちキリスト者に対して、激しくメッセ-ジを投げかけている理由は、アダム(エバ)の子孫である以上、私たちも「過ち(罪)」を繰り返す、その可能性が「いつでも有り得る!」と、神の御前に謙虚に生きる為です。そうです!私たちは「今」主なる神から恵みを賜っても、「数分後」には(戴いたことを)すぐ忘れて、別のものを求めるなど、神ではなく「他のもの」を追い求める、霊的に姦淫し易い「罪の性質」があります。


 ステパノは明確に、私たちが過去の「過ち」を、現在及び将来において、再び繰り返さぬ為に、私たちが今置かれている霊的ポジションを、いつも謙虚に受け留めながら、「助け主」聖霊様の導きに、素直に聞き従うこと、即ち①私たちの一歩「先」を行かれる、主イエス・キリストの「足跡」を確認し、②主イエス・キリストに全てを委ね、③主イエス・キリストから差し伸べられた、その御手を私たちは掴んで行くなど、信仰の「一歩」が重要であることを訴えています。


「荒れ野」における学び
 ステパノのメッセ-ジには、主なる神は各時代ごとに、「神の民」であるイスラエルに対して、先見者を遣わしている、例えば信仰の父アブラハム、前もってエジプトに遣わされたヨセフ、またその後エジプトの圧政下から開放すべく、モーセを選び召し出して、偉大なる民族大脱出を図るなど、その神の歴史が記されています。そこで今回私たちが学ぶべき、第一の重要ポイントは、私たちもモーセ同様に、霊的な「荒れ野(砂漠)」を通過させられること、そしてそれには正しい「理由(意味付け)」があります。


 ステパノはその理由を「天使と私たちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、私たちに伝えてくれた」(38節)と述べていますが、第一に①モーセは「仲介者」として、即ち主なる神と民の間を取り持つ、代弁者(取りなし手、和解の使者)というポジション、次に②「神の言葉」を命を懸けて受け取る者、即ち「大祭司」としての雛型(立ち位置)、そしてこの二つの霊的ポジションをもって、③今通過させられている「荒れ野」において、創造主なる神の「偉大さ」を学び、あまねく知らしめる(伝える)為です。


 「けれども、先祖たちはこの人に従おうとはせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い・・・・若い雄牛の像を造った」(39~41節)、つまりイスラエルの民は「荒れ野」において、神から遣わされた「先見者」モーセを侮り、その語る「言葉」と「指導」に対して、ことごとく反抗しました。その理由が「荒れ野」における、神の偉大なる「導き」を尊ぶのではなく、逆に「エジプト(この世)」を懐かしく思って、再び慕い求め始めたからです。


 彼らの犯した「過ち」は、具体的に四つあります。第一に①従うことを拒絶しました。第二に②先見者の指示を後回しにしました。第三に③過去(エジプト)を振り返って、そこに戻ることを求めました。最終的に④唯一の創造主ではなく、自らが鋳造した「偶像(金の小牛)」に、膝を屈めて礼拝したことです。その結果、彼らは「約束の地」に辿り着くこと無く、「荒れ野」にて死に絶えました。


 ところで今に生きる私たちも、彼ら(イスラエルの第一世代)同様に、霊的に死に絶える存在なのでしょうか?否、今の新約の時代においては、イエス・キリストが和解の「先見者(救い主)」として、既に遣わされています!イエス・キリストは、私たちが「過ち」を繰り返したとしても、真の「助け手」なる聖霊様を遣わして下さり、私たちの「歩み」を正すべく、「荒れ野」において訓練し、かつ聖別して下さいます。そして私たちが最後の一歩、つまり御国へと凱旋する「その時」まで、丁寧に付き添って下さいます。


「過ち」を繰り返さぬ為に・・・・
 では、私たちが「過ち」を繰り返さぬ為には、どうすべきでしょうか?具体的には、一つ一つの「過ち」に対して、①どう受け留めて(自らのミスや失敗を真摯に認めて)、次に②どうしたらそれを防ぐことが出来るか?を熟考(分析)し、最終的に③「過ち」を犯す手前で、それを回避する「手立て(対策)」を構築することです。しかし、これらの三本柱では足りません。人は「過ち」を忘れる!という、愚かな習性があるからです。


 不信仰に走った彼らは、最終的に「金の小牛」を造り上げ、それを担いで歩くことを実践しました。これは全て、近隣の諸民族が為していた、偶像礼拝のシンボルであり、特にモレク神やライファン神などは、「牡牛」の顔(頭部)を造形化しています。これはサタン礼拝(悪魔崇拝)の象徴です。実は、この悪魔崇拝の儀式は、今も尚盛んになりつつあり、歴史的に継続して行われています。


 ここで覚えて戴きたいことは、私たちが悪魔崇拝を為すことはありませんが、私たちの霊的生活の「流れ」の中に、神の「促し」や「取扱い」があるにも関わらず、それを隅(脇)において、自分の肉の「計画」や「判断」を優先して行きますと、いつしかそれが「金の小牛」になるのです。しかし次々と迫り来る「試練」において、主なる神は私たちに対して、唯一崇めるべき方(救い主)、「イエス・キリスト」を示して下さいます。


 キリストの花嫁である、エクレシアを監督される方は、今の「先見者」聖霊様であり、そのエクレシアの長(頭)は、牧師という「人」ではなく、神の御子イエス・キリストです!イエス・キリストが、エクレシアの大幹(主権者)として、ここ(神の選びの地)に打ち立てられている以上、私たちはイエス・キリストの「枝(パーツ)」です。


 私たちが「過ち」を繰り返さぬ、最終的かつ最善の方法は、次の御言葉に要約されます。「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠も無く思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節(ふし)と節(ふし)、筋(すじ)と筋(すじ)とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ書2章18~19節)


 この御言葉に示されているように、私たちが大幹なる主イエス・キリストに、しっかりと結び合わされている限り、神の御体の監督である聖霊様を通して、私たちの中にある不要な部分は、その都度霊的に剪定され、大幹の元でバランス良く成長し、「小枝」から「大枝」として形造られて行きます。


 仮に私たちが、肉(魂)的に信仰を働かせて行きますと、例えば様々な「幻」を見たり、預言的な「しるし」などに、次第に精神(感情)的に倒錯するなどの、霊的な「罠」に陥る可能性があります。この種の思考(判断)は、悪魔サタンがもたらす「思い上がり(高慢)」です。一番大切(正常)な思考(判断)は、「自分が常に、しっかりと大幹につながっていなければ、枝に過ぎぬ自分は何も為し得ぬ!」という、真実の謙遜です。


 つまり「主人(大幹)」を超えて(離れて)は、「しもべ(枝)」として成り立たない(存在しえない)ことを、常に意識する信仰姿勢が大事です。そうです!私たちが「過ち」を繰り返さぬ為に必要なことは、一にも二にも主導権を聖霊様に委ねつつ、主なる神が毎日与えて下さる「命の言葉」を、自分の「命」に優るものとして、激しく慕い求めて行くことです。


 どうぞあなたが、今置かれているポジションを、聖霊様を通して何度も示して戴き、「主よ、私の先にあるものは何でしょうか?仮に人間的なものであるならば、それらは全て偶像です。私が一番に慕い求めるものは、主イエス・キリストよ、あなたの麗しい御顔と、その唇から語られる命の言葉です!」と、心から祈り求めて行くことの出来る、賢い乙女として聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年10月29日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する