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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

特別メッセージ

          あなたのマラを癒す主




彼ら(イスラエルの民)は・・・・荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラ(苦い)に着いたが、そこの水は苦くて飲むことが出来なかった。民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で・・・・試みて、言われた。「・・・・全ての掟を守るならば、私がエジプトに下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である」彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉の畔に彼らは宿営した。
                          【出エジプト記15章22~27節】


「三日間」しかもたない信仰
 主なる神が、私たちキリスト者を試される時、そこには二つの「目的」があります。その目的とは①正しい「道筋(神の掟と法)」を教え示し、②教え示された私たちが、その「正しい道(唯一の真理)」に従って歩む為です。今回のメッセージは、主なる神が「終わりの時」に、重要な霊的ガイダンスとして、私たちにも投げかけているものです。今日、多くの人々が霊的に彷徨っているからです。「どの道に行けば、安心して生活できる、正しい道(エリム)が本当にあるのか?」などと。


 ご存じのようにイスラエルの民が、今回「マラ」に到着した時系列は、主なる神による「葦の海」の大奇跡劇から、僅か三日後の事でした。その「三日間」の時の経過を通して、彼らの信仰状態は、どう悪化したのでしょうか?はっきり申し上げて、殆どのキリスト者が彼ら同様に、良き状態が「三日」ももたないことです。そうです!私たちは、たとえ奇跡を体験して、霊的に信仰が恵まれたとしても、新たな「壁(困難、トラブル、事件等)」にぶつかった時に、つまり目の前にある「現実(三次元的事実)」を見て、「不安」と「恐れ」の次元に、いとも簡単に支配されるのです。


霊的「マラ」の病い
 このように私たちは、「マラ」という現実を見た時に、自分の「霊」の中に依然として巣食う、悪しき霊的「汚れ」の次元が働き始めます。「マラ」とは苦い泉を意味します。そうです!私たちの「霊」には、アダム(エバ)が犯した罪故に、苦い泉が脈々と存在していて、それ故に「霊」が病んでいるのです。この霊的「マラ」の病いは、私たちが自分の「肉」の意思をもって、様々な私的な事柄(肉の泉)を掘り出そうとするなど、悪しき「肉の次元」に由来します。


 今回の記事から、私たちが正しく学ぶべき重要ポイントは、「先(明日、来月、将来など)」に対する人間的な「手の業」は、主なる神の聖なる次元から見て、全てが「マラ」である!という点です。例えば私たちが、「先(明日、来月、将来など)」の次元を心配して、自分の「手の業」を駆り立てながら、あれこれと動き始める時、私たちの歩む「先」には、唯一の真理に至る、イエス・キリストが見えていません。


 この人間的「手の業」は、霊的に「肉の次元」の根源である、様々な悪しき「汚れ」を産みます。再度強調しますが、創造主なる神から見て、神のご性質である「聖さ」に反する次元は、全て「汚れ」として映ります。私たちが常に覚えるべき点は、創造主なる神の「安息」に生きることを、いつも最優先事項として追い求めながら、神の「祝福(恵み)」を謙虚に戴くこと、これが神が「良し!」とされる、神の「聖さ」に生きる次元です。ですから神の「安息」から逸脱して、自分の「手の業」を頼みとして生きることの全てが、霊的「マラ」の病いです!


 この霊的「マラ」の病いが、サタンによって更に悪化すると、全能なる主の定めた「法」と「秩序」にではなく、サタンが助長する「自己(私的なこと)」を霊的に建て上げ、引いては異教の神々に膝を屈めるなど、悪魔の奴隷と化します。サタンは神の「聖さ」を誤魔化し、最終的には人の前から完全に消し去ること、これがサタンの「計画」です。


「エリム」は必ず先に用意されている!
 ところが主なる神の場合は、イスラエルの民がマラを前にして、不平不満を述べることを承知の上で、三日間の旅程の後に、「エリム」を事前に用意していたのです。覚えて戴きたいことは、彼らは「先」が見えていなかっただけです。確かに私たちの歩む「先々」において、私たちが不安を覚えるような、幾多の三次元的な「マラ」が見えるでしょう。


 しかし真実なる神は、たとえ現実がどうであれ、私たちを「孤児」とはせず、貧しい者には神の「祝福(天の富)」を、病める者には神の「癒し」を与えることで、私たちの「先」にエリムを必ず用意して下さいます。ですから、私たちは霊的「マラ」の病い全てを、イエス・キリストの十字架の「血潮」によって、完全に癒して戴く必要があります。それによって私たちは、神の「エリム(安息の場)」を目指すように、常に導かれているのです。何故なら神の「エリム」が、信仰を通して必ず「先」に用意されているからです。


 神の用意する「安息」の領域は、あなたの前に常に用意されていることを、信仰を通して受け取りましょう!特に「終わりの時代」にあって、私たちがサタンの仕掛ける霊的な「罠」に陥らない為にも、私たちは霊的な「飢え渇き」を、私たちの「先」に進むイエス・キリストに、絶えず求めて参りましょう!主なる神はモーセに対して、二つの条件を提示しました。第一の条件は、①神の「ご命令」に対して、完全に聞き従うことです。第二の条件が、②聖なることを求め、神の「掟」を守り通すことです。この二つの条件を、私たちが謙虚に受け取ることによって、聖霊様が私たちの「汚れ」をことごとく排除し、「霊」の中に溜まるマラを、完全に掻き出しながら聖めて下います。


 「私はあなたを癒す主である。」(26節)は、指導者モーセだけに宣言されたものではなく、イスラエルの12部族全員に対して、神の「約束」の成就として保証した言葉です。私たちの中にある、霊的「マラ」の病いの全てを癒し、マラによって被った苦々しい霊的な「傷」を、完全に癒すことの出来る方は、唯一の「救い主」なるイエス・キリストであり、十字架上で捧げられた、御子の貴い「血潮」によって、私たちは完全に聖められるのです!


 そうです!イエス・キリストの「血潮」は、私たちを完全に「聖なる者」とし、私たちを聖なる「安息の領域」へと、力強く導くことの出来る「証印」となります。私たちの人生は、このマラが常に戦いを挑んで来ます。ですから私たちは、「癒し主」イエス・キリストに、信仰をもって祈るのです。「私の人生に付きまとうマラよ、私の先にあるのはエリム(祝福の泉)だけである。イエス・キリストは私に対して、必ず安息の領域を示して下さり、かつ与えて下さる!」と。


 彼らが「エリム」に辿り着いた時、そこには「12の泉(オアシス)」と、「70本のなつめやし」が存在していました。そうです!イスラエルの12部族に対して、彼らが十分に「渇き」を潤すことの出来る、一つ一つの「泉」が用意されていたのです。そして「70本のなつめやし」は、世界的飢饉に直面した時に、エジプトを目指したヤコブ一族の総数が、まさしく「70人」でした。と言うことは、私たちも霊的なヤコブ一族として、大幹イエス・キリストに繋がる、霊的な「70本の枝」の一つとして、この「終わり時代」に召し出されているのではないでしょうか!


 ですから、私たちは更に信仰をもって、神が先に用意して下さる、「エリム」に向かって前進しようではありませんか!イエス・キリストの御名によって、高らかに宣言しましょう!「私の信じる神は、私のマラを完全に癒して下さいます!安息の領域に入ることの出来る、信仰を回復して下さい!」と。神が与えて下さる「エリム」こそが、私たちの信仰の目標であり、神の「祝福」を更に拡大することの出来る、神の「安息」の法(掟)です!


 あなたの信仰の歩む先々に、「エリムの祝福」が豊かに用意され、あなたの信仰の祈りの応答として、聖霊様が「命の水」を更に、あなたの「霊の泉」から湧き上がらして下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年5月21日のメッセ-ジ)


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