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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.20)

「他人事」を「自分事」とする謙虚さ




バヒロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
                                                 【ダニエル書3章12節】


霊的「過信」の危険性
 私たちキリスト者は時折、ダニエルと三人の友人の如くに、「主よ、私は死を恐れることなく、最後の時まで信仰を守り通し、大胆に神の言葉を伝え続けます!」などと、力強い宣言をすることがあります。しかしこの時、私たちは次の重要な二つの点を見落としています。先ず第一に私たちは、神の一方的な「贖い(救い)」を戴いていなければ、神の「憐み」と「恵み」に、未だにあずかれないことです。


 第二にサタンが、様々な「欺き」と「脅し」をもって、私たちの「霊」を四六時中、霊的に攻撃し続けている時に、仮に「私は救われているから、誤った方向(道)に逸れること無く、義人として生きることが出来ているから大丈夫である!」などと、過信している(霊的にうぬぼれている)のであれば、それこそがサタンの「罠」であり、霊的に騙されやすい危険性がある!という点です。即ち「自分は大丈夫!」と言い切れる者は、一人もいない!ということを、私たちは謙虚に受け留めるべきです。


 ところで聖書は、神の「真実の愛」を伝える、最高の「霊的指南書」であると同時に、人の犯す様々な罪の「事例集」でもあります。つまり罪の持つ、「反面教師」の如き事実が、赤裸々に記載され、かつ偽ることなく描写されています。そうです!人は他の生物と違って、如何に愚かな存在であり、悪しき次元に唆されて、霊的な「過ち」を繰り返します。


 聖書は、その名の通りに「聖なる書物」ですが、何故そのように、人の持つ悪しき部分を、詳細に書き連ねているのでしょうか?私たちは騙されてはなりません!悪魔サタンは、私たちが聖書のある個所を読む時に、「この記事の内容は、あなたとは何の関係も無いことであり、これは他の者に示す為の内容です。」などと、あたかも善人の如き「聖い存在」として、あなたを高く持ち上げ、逆に他者を「汚れた存在」に貶めるなど、誤った聖書理解に誘導することがあります。


 アダム(エバ)が罪を犯した時点で、サタンは私たちの「霊」の中に、霊的な「汚れ」の因子(種)を植え付けました。しかし人は、それを「汚れ」と認識することが出来ません。聖書だけが、人の持つ罪の「汚れ」故に、人が様々な悪しき「失敗(過ち)」を繰り返すことを、正しく教え示すことが出来るのです!


 その理由は、後に続く私たちに対して、神が霊的な「教訓」を教え示すことで、私たちが神の「御救い」を、常に仰ぎ求め続けることが、如何に重要な生き方であるのかを、私たちが謙虚に知るためです。今回の記事の主役である、ダニエルの三人の友人たちにも、人の持つ「死」に対する恐怖と、「先」に対する不安は、当然の如くにありました。しかし彼らの「霊」の中には、揺ぎ無き信仰によって歩む、神の「聖さ」が満ちていました。


「失敗」から学ぶ謙虚さ
 実はイスラエル民族の持つ、歴史を通じて脈々と流れる不動の信仰背景には、自分たちが愚かにも繰り返し、犯してきた霊的姦淫の罪、つまり罪の「失敗」から学ぶ、謙虚な姿勢があります。彼らは幼少の頃より、聖書をそのまま記憶するばかりでなく、神の「掟」を先ず一番に優先し、それに従順しなかった場合の「実例」を、聖書の中から霊的教訓として、常に学び続けることで、互いに危機意識を共有したのです。


 ご存じのように、「道路交通法」に基づく道路標識は、その殆どが車両等を取扱う際の、制限(抑制)的なルールです。例えば、見通しの良い一般道路において、速度が何故「50km/h」の標識になっているのでしょうか?逆に言えば、「60km/h」や「70km/h」の標識が、何故見当たらないのでしょうか?その数字の意味することは、50km/hの速度を維持して、51,52,53…km/hなどと、絶対にその数字を超えないよう、「50km/h」の速度を遵守しなさい!という、絶対命令を意味するのではなく、簡単に言えば「この区間は50km/h前後の速度で、注意して走行しなさい!」という、あくまで制限的なルール(勧め)です。ですから速度が「30km/h区間」に入れば、「50から30へと速度を落とす程に、注意して走行しなければ、交通事故の確率が上がる区間」を、その標識がシグナルとして表しているのです。


 同様に、私たちが聖書から様々に学ぶ、最大の霊的教訓(必修課程)は、「私たちも、主なる神の偉大なる恵み(恩寵)が無ければ、イスラエルの民と何ら変わらぬ、失敗者の一人である!」という危機意識を忘れないことです。ですから私たちは、イスラエルの民の失敗を、常に「自分事」とする謙虚さを持ち、その「失敗」を「成功」へと導いて下さる、聖霊様の「助け」に聞き従うこと、これが一番に重要となります。


 覚えて戴きたい、主なる神の最大の「掟」とは、簡単に言えば①「創造主なる神が用意する、真実の愛の中に常に留まること!」です。そして②被造物である私たちは「創造主なる神が、私(あなた)を創造したこと、この神の事実を常に忘れない(憶えて生きる)!」ことです。また③「主なる神が与える祝福は、その全てが聖い次元にあり、この神の聖さの中に、私たちが留まり続ける限り、私たちは聖い者とされ、常に満ち足りる!」こと、この三点です。


 ダニエルと三人の友人たちは、バビロン帝国の様々な「法」を、当然の如くに熟知し、かつ遵守していました。しかし彼らは、外面的に遵守していても、「霊」の只中においては、創造主なる神の「掟」に対してのみ、自分たちの「命」を懸けて従い通しました。ですから今回制定された、「金の像」を礼拝する法律が、たとえ王が命じたとしても、彼らにとって創造主以外の神々(偶像含む)を拝むことは、霊的な「死」を意味することを、自分たち民族の「歴史」から学んでいました。またこの法律が、ガルデヤ人のエリートたちが抱いた、イスラエル人の高官達に対する霊的な「妬み」と、自分たちの地位を奪われるのでは?と危惧するなど、カルデヤ権力を保持しようとする、「恐怖心」から生じていることも察知していました。


 そうです!私たちキリスト者も、この世の「君(首長、社長、施設長、校長など)」を恐れることが、決してあってはなりません。もし仮に、少しでも恐れて保身の道を選ぶとしたら、それこそ「世の奴隷」となります。私たちは、「この世」に生きている(生計を立てている)以上、「この世」の法(慣習、伝統、社是、会社ルールなど)に対して、様々に調整し(調子を合せ)ながら生きようとします。しかし、これは創造主から見て、全てが「汚れ」と映るのです!


 ダニエルの三人の友人たちが、自分の「命」と引き換えにしてまで、神の「掟」を守り通すことが出来た、その最大の原因は、イスラエルの民の「失敗」を、いつも学んで生きていたからです。彼らは「失敗者」になるぐらいなら、「死」を選ぶことを厭わない!それ程の覚悟で生きていました。ですから「死」を前にした時、「あ、遂に来たな!」と、逆に「その時」を、一つも焦ること無く待っていました。覚えて戴きたいことは、あの大祭司アロンも、「失敗者」の一人だったことです。彼は「この世」と妥協したが故に、「金の小牛」を造ることに協力しました。


新しい「掟」に基づく聖なる生き方
 では、私たちが「失敗者」にならない、その保証があるのでしょうか?然り!あります。それがイエス・キリストによる、新しい「掟」に基づく、十字架の「贖い」の契約を、謙虚に受け取ることです。


主の箱は、七ヶ月の間ペリシテの地にあった。ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。「主の箱を・・・・どのようにして・・・・元の所に送り返したらよいのか、教えて下さい。」彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すに当っては・・・・必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない。そうすれば、あなた達は癒され、神の手があなた達を離れなかった理由も理解できよう。」【Ⅰサムエル記6章1~3節】


 主なる神は、イスラエル民族の宿敵であるペリシテ人が、「契約の箱」をイスラエルに返却するに当たり、「賠償の生贄」を添えることを通して、様々な「災い」の難から解放し、更には肉体上の様々な奇病から、瞬時に癒して下さる、つまり神の「憐み」を及ぼし、かつ祝福して下さることを、彼ら異邦人にも、約束の保証として授けられました。


 異邦人の犯した「失敗」の事例においても、主なる神が「憐み」を示すのであれば、私たちキリスト者が、様々な「失敗」を繰り返したとしても、私たちが「賠償の生贄」を添える、即ちイエス・キリストの、貴い十字架上の「生贄」を信じる(霊的に捧げる)ことで、私たちが二度と悪しき領域に入ることが無きよう、父なる神が私たちの「失敗」を贖って下さり、かつ全ての罪の「病い」を、完全に癒して下さいます。


 主なる神が「良し!」とされる次元は、永遠の「聖さ」の中に、私たちが常に留まり続けることであり、逆に忌み嫌われる悪しき次元が、サタンの誘惑によって受け取る、永遠の「汚れ」です。イエス・キリストは、創造主なる神の「秩序」を破壊するサタンに対して、いよいよ「鉄槌」をもって打ち砕く、「その時」が近付いています。ですから私たちは、ダニエルの三人の友人たちの如くに、神の「安息」の中に常に留まり、揺るぎ無き信仰を確立する必要があります。


こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて戴き、何が神の御心であるか、何が善いことで神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。【ローマ書12章1~2節】


 私たちが神の「掟」である、聖なる霊的ガイドラインを逸脱して、「この世」に調子を合せて行きますと、私たちの「霊」は必ず蝕まれ、キリストの「体」に備わる、麗しい品性を損なう(霊的に患う)ことになります。しかし私たちが、イエス・キリストを霊的生贄、即ち「賠償の生贄」として捧げる時に、主なる神は必ず癒して下さいます。ですから私たちは、イスラエルの「失敗」を、自分事として謙虚に受け留め、自分の中にある霊的「汚れ」の全てを、イエス・キリストの十字架の御元に捧げて下さい!


 あなたの悔いた砕かれた「真実の礼拝」を通して、神の麗しい永遠の「聖さ」が、更に豊かに注がれて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年6月11日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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