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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.41)

「肉の剣」を捨て、「御霊の剣」を取りなさい!




私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦したように。
                                          【マタイ福音書6章12節】


二つの「剣」
 私たちは二つの剣から、一つのみを取る(選択する)自由があります。先ず第一の剣、それは「肉の剣」です。これは罪がもたらすものであり、血肉の戦いに用いる「武器」です。これを私たちは、実は常時大事にしています。しかし主なる神は、この第一の剣を捨てて、第二の「御霊の剣」を取るよう、今回の「主の祈り」から、強く促しておられます。私たちが「御霊の剣」を、聖霊様から賜物として戴く時に、実は「神の国」の麗しい次元が、豊かに切り開かれることになることを、是非覚えて下さい。


 私たちは今回の「主の祈り」を、何度となく口で唱え、信仰で告白していますが、肉の思いでは「うーん、祈りはすれど、あの腹立たしい●●に関しては、とてもじゃないが赦すことが出来ない!」などと、全面的な「赦し」を祈り求めることが出来ません。今回の祈りは、そのような「人」を赦すか否か?という次元ではなく、私たちが「罪」の罠に陥らない為にも、「主の祈り」が重要な告白であり、何よりも信仰告白する際には、聖霊様が与えて下さる、「御霊の剣」をもって、今回の「祈り」を宣言すること、これが一番に重要となります。


 「人」を赦すことは、はっきり申し上げて、ご自身の「命」を生贄として捧げけられた、主イエス・キリストだけが為し得る次元です。私たちは、この「神の事実」を知っておりますから、この「神の事実」の中に、自分の信仰の全てを明け渡し、肉の努力ではなく、聖霊様が歩まして下さる、信仰の領域に一歩踏み出すだけで、私たちは神の偉大なる御業を通して、神の「赦し」の次元へと、常に導かれているのです。


神の「forgive」
 前回の御言葉のキーワードは「give」でしたが、今回のキーワードは「forgive」です。この言葉は「~に免じて与える」という意味です。ですから「forgive」とは、単なる「赦し(赦免、恩赦)」の次元ではなく、私たちが「罪」の罠に陥らないよう、先に信仰行動として取るべき、重要な霊的「武具」、つまり霊的次元の行動を指します。そうすることで初めて、私たちは血肉の戦いを放棄し、霊的な戦いにおいて勝利できます。


 今回の「主の祈り」にある「負い目」とは、私たちが思い描く「罪(負債)」ではありません。「負い目」とは「wrong」と言い、一般的な基準に照らし合わせて、①正しくないこと、②(人が持つ判断や意見上の)間違い、③行動及び考えが不適切なこと、④法律的に悪いこと、➄過ち(過失)を意味します。このように、イエス・キリストが示される「負い目」は、人間同士の「関わり」において、様々な「言葉」のやり取りが、ストレートでなくなっている為に、自ずと発生する現象、例えば「相手の言葉を変に解釈したり、相手を変に見る(疑う)こと」などが、この「wrong」という悪しき次元です。


 それ故にイエス・キリストは、信仰の祈りとして「私たちが他者に対して、様々に誤った判断をしたり、誤った言葉で傷つけたりするなど、その過ちをforgiveして下さるよう、あなたに願い求める如くに、主なる神よ、私自身の中にある様々な過ちを、あなたがforgiveして下さいますように!」と、模範的に宣言されました。


 覚えて戴きたい点は、私たちは「肉の力」では、この「forgive」の信仰行動を、絶対に為し得ないことです。しかしイエス・キリストの、今回の「主の祈り」においては、罪無き父なる神の「御子」ですから、ご自分の「命の生贄」を通して、この「forgive」の信仰行動を、前もって宣言することが出来ました。


「肉の剣」を納め、「御霊の剣」を取りなさい!
 さて「今の時」は、例えば自分の「間違い」にも気付かない程に、霊的な「悪しき力」の縛りがあります。コミュニケーションにおける、言葉の「食い違い(齟齬)」や、閉鎖的な人間関係によって、イエス・キリストが預言しているように、まさしく「愛」が冷めている危機的な時代です。そうなると、更に「肉の剣」を取る人々が増加します。


 しかし覚えて戴きたいことは、私たちも彼ら同様に、「肉の剣」を大事にする次元に立つ限り、いずれは「罪」の虜になる!という点です。私たちが取るべき霊的武器は、聖霊様が与えて下さる「御霊の剣」です。ご自身の「命」を奉じてまで、悪魔サタンに立ち向かって、今も尚戦っていて下さる、イエス・キリストの生き様、特に今回の「主の祈り」に、私たちは見倣う必要があります。


イエスがまだ話しておられると・・・・ユダがやって来た。・・・・大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。・・・・ユダはすぐイエスに近寄り・・・・接吻した。・・・・すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。その時、イエスと一緒に居た者の一人が・・・・剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取るならば、剣で滅びる。・・・・」
                                          【マタイ福音書26章47~52節】


 私たちがイスカリオテのユダ同様に、血肉の「思い」から師(主)である、イエス・キリストの「御心」に反するなど、「肉の剣」を持ち続ける限り、そこには血肉による「流血」しか生じません。しかし神の御子イエス・キリストの場合は、麗しい「神の国」の御業をもって、大乱闘を治めました。切り落とされた敵の「耳」を拾って、本来あるべき元の位置に戻し、瞬時に癒されたのです。そして一言「剣を納めなさい!さもなければ、あなた方は肉の剣で滅びることになる。」と語られました。


 その瞬間、弟子たちばかりでなく敵の集団も、手にする剣を納めたのです。人が手にする「肉の剣」は、一時的な「勝利」による、安心(平和)を造り出したとしても、霊的に全てを解放する力はありません。「肉の剣」は実際の武器ばかりでなく、三次元にある人の持つ、「肉の言葉」のやり取りをも指しています。そうです!言葉のやり取りから戦争が始まること、これが人の持つ愚かな歴史です。


 しかしイエス・キリストは、十字架上から宣言しました。「あなた方の持つ、罪の負債を完済するべく、私の命の犠牲に免じて、父なる神よ、あなたの愛をもって、彼らの負債の全てを納めて下さい!」と。これがイエス・キリストの祈る、神の「forgive」です。このように、イエス・キリストの「戦い」は、決して「肉の戦い」の次元にはありません。それは「御霊の剣」によって、罪に支配された人々を、完全に贖い出す為のものであり、まさしく神の「命の言葉」こそが、神の「救い」を為し得る「御霊の剣」です!


 ですから、私たちは毎日(日々)、この「御霊の剣」を戴きましょう!そして「御霊の剣」を使うのです。「信仰の大盾」をもって、サタンに立ち向かうのです。人を建て上げ、人を癒し、人との間に真実の「平和」を造り出すもの、それが「御霊の剣」です。あなたが、高らかに神の「御名」を讃え、潔い信仰をもって、最後の「霊的戦い」に出陣することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年11月14日のメッセ-ジ)


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