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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

終末のエクレシア(No.17)

信じて、疑わずに、受け取りなさい!




・・・・信じる私たちは、この安息にあずかることが出来るのです。・・・・神の業は天地万物の時以来、既に出来上がっていたのです。何故なら・・・・七日目のことについて、「神は七日目に全ての業を終えて休まれた」と言われているからです。・・・・神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、私たちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。・・・・
                                            【ヘブル書4章1~11節】


神の「安息」のイメージ
 自分の信じる「信念」に頼りながら、生きることは簡単ですが、主なる神が与えて下さる、神の「安息」を受け取ることは、はっきり申し上げて、上よりの「信仰」が無ければ、決して為し得ません!しかし私たちが、謙虚に神の「安息」を戴き、信仰を働かせる時、即ち恐れずに前進する時に、柔和なキリスト者へと造り変えられるのです。


 さて、あなたは神の「安息」に関して、如何なるイメージを抱いていますか?私たちが神の「安息」に関して、正しいイメージを持つことで始めて、私たちの「信仰」の歩み、及び成長につながるのです。基本的なイメージとしては、神がご自身の「手の業」を休まれた、つまり「一息(安息の時)」を設定したことです。それと同時に大切なイメージは、①主なる神は何故休まれ、②この「安息日」の掟を、被造物である最初の人(アダム)に、わざわざ教え示されたのか?ということです。


 この「安息日」の掟に関して、私たちが霊的に覚えるべき、重要な方向性があります。それは「神が命じられたから、私たちは守らなければならない!」という、受身的なイメージを払拭することです。つまり私たち被造物は、神によって創造されたからと言って、創造主の命じるプログラムに、忠実に従う(働く)ロボットではありません。


 主なる神が、私たち被造物を造られた目的は、分かり易く言えば「(私たちが)可愛い!」、「愛おしくてたまらない!」からです。その最初の人(アダム)に対して、神は手取り足取り、父親が子に教えるように、神の「安息」の大切さを教え示されました。「可愛さ」と「愛おしさ」という、熱情の愛をもって、主なる神はアダムに対して、「親しい交わり」の時を持ちました。これが「安息日」の原点(出発点)です!


マルタとマリアの「信仰行動」の違い
 「親」と「子」が純粋に求め合う、素直(シンプル)な関係というものは、一言で言えば「無条件の愛」の関係です。新約聖書に登場する「姉妹」の中で、一番にクローズアップされる人物は、やはり姉マルタと妹マリアです。この二人に共通することは、どちらも神を愛して止まない、純粋な乙女であることです。どちらかが優れている訳でもなく、ラビ(イエス・キリスト)に対する「思い」は、二人共に非常に美しく聖いものです。


 この二人の姉妹の元を、イエス・キリストが訪問された時、彼女たちはそれぞれ、如何なる行動に移ったのでしょうか?姉マルタは早速、イエス・キリストに喜んで戴くべく、接待・調理等の準備にかかりました。恐らく妹マリアも、姉と共に一生懸命に手伝ったことでしょう。


 さて、一段落着いた後が、非常に重要となります。マルタは、「イエス様の為に何かして差し上げたい!」、「イエス様に喜んでもらうには、もっと美味しいものを!」などの思いから、一生懸命に「動き回る」ことを継続しました。しかし妹マリアの場合は、イエス様との「交わり」に心躍らせ、為すべきことを終えたら、すぐにラビの前に座しました。そしてラビの語る、様々な「教え」に耳を傾けつつ、自らも「思い」の全てを語りました。


 マルタの信仰行動は、自分の「手の業」をもって、イエス・キリストに対して、自分を与える行為を指します。しかし彼女の信仰行動には、サタンが巧妙に仕掛ける、霊的「罠」があります。それに対してマリアの場合は、自分の「手の業」を、あえてストップしてまで、イエス・キリストの「言葉」を、積極的に戴こうとする信仰行動です。一見彼女の行動は、マルタと比べて「我がまま」に見えますが、イエス・キリストはマリアの行動を、「良し」とされたのです。例えば「安息日」の掟も、自分の「手の業」をもって、律法的に守り通すことは出来ますが、だからと言って神の「安息」の中に、完全に入っている訳ではありません。


 実は神の「安息」を戴くには、「信仰」という霊的ステップが、非常に重要となります。具体的に言えば、神の「安息」は①信じて、②疑わずに(恐れずに)③受け取る(神の領域に入る)こと、この三つの基本行動が大事です。今回の出来事において、イエス・キリストは二人に対して、重要な霊的行動を教え示しました。即ち「神の国」と、「神の義」を求めることにおいて一番重要なことは、神の「安息」が豊かに満ち溢れるよう、神の「言葉」を①信じて②疑わずに③受け取ることである!という点です。


「新しい契約」のリズム
 ところで、イエス・キリストによる「新しい契約」には、あるリズムがあります。勿論「古い契約」にもリズムがありました。リズムとは「拍(拍子)」と言い、それは時間や生体などの、周期的な「動き」を指します。実は信仰にも、主なる神が定めたリズム(拍)があります。「古い契約」のリズムは、六日間は自分の「手の業」、つまり労働という「動き」を為しても、七日目には「手の業」を休める、「動き」を停止することです。では、イエス・キリストが示した、「新しい契約」のリズムは、聖書の何処を探しても、具体的な記述がありません。しかしイエス・キリストは、ご自身の「復活」の御業を通して、新しいリズムを提示しました。週の「初めの日(復活の日)」が、神の「安息」である!と。


 「古い契約」のリズムは、私たち大人にとって、非常に理解しやすいリズムです。何故なら、一日目から六日目まで労働に明け暮れ、当然最後の七日目に、疲れた体を「休む」からです。ところが「新しい契約」のリズムの場合は、最初の日を「安息日」とする為、その奥義が理解できません。しかし覚えて下さい!イエス・キリストは、この「安息日」に復活された、つまり全てを完成した日が、新しいリズムの始まりです。そうです!私たちが神の「安息」を、①信じて②疑わずに③受け取るだけで、「世のリズム(しがらみ、慣習等)」から解放されるのです。


 妹マリアの如くに、私たちが主なる神との「交わり(礼拝)」を、週の最初の「リズム」として優先する限り、その一週間が豊かに祝福されます!彼女は謙虚に、神の「御心」を戴くべく、イエス・キリストの「言葉」に聞き従うことを、先ず第一としました。つまり自分の「手の業」を、後回しにする(停止する)ことを、あえて選択したのです。


 イエス・キリストが教え示す、「新しい契約」のリズムは、週の初めを「復活の日」と定めたように、先ずは神の「安息」が現れ出る、「主の日」を優先し第一とすること、そして残りの六日間は、自分の「手の業」に勤しむことで、神が必ず「益(祝福)」を用意して下さる!という、言わば信仰を働かせるための、「新しいリズム」でもあります。


 さてあなたは、週の始まりである「主の日」の朝に、先ず何をしていらっしゃいますか?主なる神との「交わり」を意識して、マグダラのマリアの如くに、イエス・キリストの「臨在」を求めて、一生懸命に探し求めていますか?あなたが「主の日」に、先ずは神の「安息」を受け取る限り、それは残りの六日間、神の「安息」を手に持った状態で、神と共に歩む(勤しむ)ことになるのです。しかし自分の「手の業」をもって、一週間を完成しようとする限り、それは全てが徒労に終わります。


 立ち止まって「一息」つく人と、自分の力で走り続ける人とでは、肉体ばかりでなく、精神的にも霊的にも、大いなる差が出てくるように、神の「安息」を戴きながら、霊的な「休息の時」である、神との「交わり」を優先しましょう!神の「安息」にあずかる民は、必ず「約束の地」へと到達できるからです。


 インマヌエルの神は、私たちの「先」を行かれ、私たちの為に「勝利の道」を、既に整えて下さいます。主イエス・キリストとの親しい「交わり」が、あなたの純粋な「信仰」を通して、満ち溢れる程に豊かに現わされる、神の「安息」の時として、新しく始まる週に完成されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年5月15日メッセージ)


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