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神のご計画(No.40)

     「おこぼれ」に感謝する信仰




                                   私たちに必要な糧を今日与えて下さい。
                                            【マタイ福音書6章11節】


神の「恵み」にあずかる
 「こぼれもの」に対して、「おこぼれ」と呼ぶ表現、実に日本語の美しい用い方の一例です。英語にも「give」という動詞がありますが、これは単に「与える」という意味ばかりではなく、聖書的には神からの恵みや賜物を「戴く」という、非常に丁寧な表現です。また私たち被造物は、主なる神の「ご性質」が、人格的に備わっていますので、他者に何かを差し上げたい時に、この「give」という感情が、自動的に働きます。そして戴いた側はこの時、謙遜語として「あずかる」という、かしこまった表現をします。


 「あずかる」とは、漢字で「与る」と書きます。と言うことは、「与」という漢字には①あたえ、②あずがるという、二つの意味を持っていることが分かります。今回の「主の祈り」で、イエス・キリストが用いた「今日」という表現は、決して「日々」ではなく、あくまで「今日」という意味です。ですから直訳すると、「今日必要とする食物を(今日も)与えて下さい!」となります。つまり「明日」の為の祈りではなく、あくまで「今日」生きる為に必要な、神の「恵み」を戴く祈りです。


 2019年に始まった世界的パンデミックは、元々は①新型ウィルスの蔓延でした。その結果、世界中で猛威を振るい、多くの人々を「恐怖」の暗闇下に置きました。しかし、それも終焉の時を迎えつつあります。では次に何が来るのでしょうか?現に襲いかかっているパンデミックは、②エネルギー資源の、人為的封鎖による物価高騰です。そして最終的に来るもの、それが③食糧危機というパンデミックです。


 しかしイエス・キリストは、明確に言及されています。「人はパンのみにて生きるに非ず。」と。明日の糧もままならぬ、当時の貧しいイスラエルの民に対して、イエス・キリストは今回の「主の祈り」を通して、一番大事な「生きる術」を教えられました。「あなた方が今日必要なものを、真実の神は知っておられる故、あなた方は絶えず祈り求めなさい。」と。


 「今日」生きることに、自由を得た(あずかった)者は、必ず「明日」を心配しなくなります。「今日」を生かす創造主が、明日も生きる保証を、確実に与えて(用意して)下さるからです。そういう意味で、聖霊様は私たちに対して、強く警告しておられます。「明日」の為に働くこと自体は、決して「罪」ではありませんが、私たちの意識の中に「明日が心配だから、一生懸命に働く!」などの思いがあるのであれば、それは霊的な奴隷状態を現わしている!と。


 しかし「今日」必要なものは、創造主が「真実の神」として、私たちに必ず与えて下さいます!「今日」与えて下さる神の「恵み」に感謝して、日々の務めに勤しむ時、私たちは「真の自由」を得るのです。「明日」の為に・・・・という意識は、全てサタンの「誤魔化し」です。


「分け」「与える」ことで奇跡が起きる!
 では、如何にしたら「今日」の恵みを感謝できるのでしょうか?それはイエス・キリストによる、「五千人の給食」の奇跡にヒントがあります。アンデレが探して、ようやく見つけて来た、僅かな「パン」と「魚」を見て、イエス・キリストは彼の行動を褒めました。「アンデレよ、よくやった。これで十分だ!」と。他の弟子たちはいぶかります。「十分ですって?何の足しにもならないではないか!」と。


 イエス・キリストは僅かな「パン」と「魚」を、天上に高く掲げて祈りました。「父なる神よ、今まさに空腹にある彼らを、あなたの天の恵みで満たして下さい!創造主なる神の祝福の御業を、私の手を通して現わして下さい!」と。そして弟子たちに対して、その僅かな「パン」と「魚」を、次々と手渡します。すると何が起きたのでしょうか?常識で考えたら、「今あるもの」を分けた時点で、イエス・キリストの手元には何もなくなります。しかし、この時は違いました。イエス・キリストが、弟子たちに分け与えれば与える程、なくならないのです。そしてイエス・キリストは、弟子たちに命じます。「あなた方も、ただ分けて与えるだけで良い!何も考えないで、目の前に居る人々に対して、次々と分け与えなさい!」と。


 すると、ただ「分け」「与える」だけで、神の国が地上に現れ出ました。そして何と「余りもの」までが、結果的に用意されました。つまり「神の国」が、地上に現れ出る時には、必ず「益(プラス)」が生じるのです。だからと言ってそれは、「明日」の分ではありません。それは弟子たちを含め、「神の国」の実現を見た人々の、信仰をプラス(飛躍)させるために、証拠として残されたのです。


飼い主の「おこぼれ」を食する信仰
 もう一つの事例として、主なる神が与える、天の「おこぼれ」に満足する信仰者、その代表的な人物を紹介します。マタイ福音書15章に登場する、フェニキアの婦人(カナン人の母親)です。彼女はイスラエル人から見て「異邦人」でした。彼らから歴史的に嫌われていることを、当然知っていたうえで、彼女はイエスの元に訪ねて来ました。娘の「病い」を癒して戴くために。


 そんな彼女に対して、イエス・キリストは次のように語りました。「私が来たのは、失われた羊(イスラエル人)の救いの為であって、異邦人の為には召されていないと思う!」と。それに対して彼女は、「その通りです。先生のおっしゃることは、ごもっともです。しかし先生、私たちは次のことわざを知っています。子犬でも、主人(飼い主)の食卓から落ちる、パン屑にあずかることが出来ます。」と、すかさず押し返します。


 自民族のことを「子犬」と自覚し、イエス・キリストのことを「飼い主」と喩えた、彼女の信仰告白に対して、イエス・キリストは度肝を抜かれました。一人の異邦人の母親が発した信仰告白に、神の「救い」の福音があります。「パン屑」とは、文字通り「落ちたもの(屑)」ですが、語源としては「残り物」のことです。それはルツが拾い続けた、「落ち穂」と同じものです。


 ボアズもそうでしたが、真の「主人(飼い主)」は、「残り物」を分け与えるべく、故意に落とし(こぼし)ます。それを「子犬」は熟知しているが故に、主人の近くで待機しているのです。彼女も自分を「子犬」と自覚することで、真の「飼い主(イエス・キリスト)」が、必ず「恵み」を分け与えて下さる、唯一の「救い主」である!と告白する(先取する)ことで、神の「おこぼれ」に期待したと言えます。


 そうです!主なる神が、「祝福」に富んだ方である!ことを、戴く側は信仰を通して知っています。しかし「その時」に、戴く側は決してガツガツするのではなく、あくまで今日の「恵み」に感謝できれば、それで満足する!という謙虚さが必要となります。私たちは決して、「明日」の為に働く奴隷ではありません!今日の「恵み」を感謝するた為に召し出された、「神の子」であり、真の「自由人」です。


 いずれ来るであろう食糧危機の時に、私たちは「反キリスト」の与える、受給資格認証コード(666)を、皮膚の一部に刻印することが無きように!絶対に「世」の奴隷となってはなりません。覚えて下さい!私たちには、真実の「飼い主」が発する、福音(良き訪れ)があります。私たちは「神の子」として、更に強く召し出され、溢れる程の聖霊様の「油注ぎ」を受けて、如何なる「悪しき者」にも、膝を屈めることの無い、天上からの「炎」によって前進できますように!


 私たちはイエス・キリストから、無代価で「救い」の恵みを戴いた者です。神の「おこぼれ」にあずかった者として、あなたが神のデリバラー(給食配膳者)として、更に召し出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年11月7日のメッセ-ジ)


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