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終末のエクレシア(No.15)

                  試される信仰




十二人の一人で・・・・トマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒に居なかった。・・・・さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒に居た。戸口はみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、・・・・トマスに言われた。「・・・・私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」・・・・これらの事が書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じる為であり、また、信じてイエスの名により命を受ける為である。
                                          【ヨハネ福音書20章20~31節】


トマスの「弱さ」
 今回の記事に登場する、イエス・キリストの弟子トマスは、私たちキリスト者の持つ、霊的な「弱さ」の雛型です。私たちもトマス同様、様々な「弱点(弱さ)」があります。トマスの「不信仰」は、私たちの「弱さ」の象徴です。


 彼らの師イエス・キリストが、十字架上で処刑される際に、最後まで師に付き従ったのは、十一人中僅か一人(最年少のヨハネ)だけでした。十人全員がローマ兵を恐れて、蜘蛛の子が散る如くに、身を潜めるべく逃亡したのです。トマスもその一人でした。


 彼らが望んでいた世の「現実」は、師イエス・キリストが、いずれ革命家(政治的リーダー)として台頭し、天の軍勢を動員して、ローマ帝国を祖国から蹴散らすことでした。ところがイエス・キリストは、彼らが望む次元とは真逆の「福音」を宣べ伝え、そして不当に逮捕され、十字架上で処刑されました。


 トマスは、イエス・キリストが処刑されたことを、後々になって伝え聞きました。その時彼は、深い悲しみを覚えると同時に、自己嫌悪感に襲われます。「自分のせいで師は殺された。助けようともせずに・・・・」などと。ところがある日、弟子たちから別の「知らせ」を聞きました。「俺たちは、復活のイエス様にお会いした!」と。すると彼は愕然とします。「復活した?そんな事あり得ない!」と。


見える「現実」と見えざる「神の事実」
 さて、あなたは「今の時」の現実を見て、どのように思われますか?三年にも渡る、長期の見えざる「恐怖」が、世界中の人々の「霊」を縛っています。そんな最中、一体「真実」は、何処にあるのでしょうか?また私たちキリスト者は、どのように生きて行くべきでしょうか?


 さて誰かが、今のあなたを見るとします。その時に①確信と②希望に満ちた誇りが、あなたの中に果たして見えるでしょうか?殆どの人が「いゃー、そんな状況には私は至っていません!どちらかと言えば、疲れているように見えるのでは・・・・。」などと答えるでしょう。確かに①確信と②希望に満ちた誇りは、三次元的に見えるものではありませんが、あなたの「霊」の中に、①確信と②希望に満ちた誇りがあるのであれば、それは必ず見えるようになります。あなたが語る①言葉と②行動と③生き様を通して。


 私たちが何をするにおいても、見えざる「神の事実」の中で、主なる神から戴く「恵み」や「賜物」を通して、私たちの①言葉と②行動と③生き様が、光輝く程に豊かに解き放たれている様を見て、人は五感全体でキャッチするのです。トマスの人生は、最初から「不信仰」に満ちた、疑い深い性格の持ち主ではありませんでした。彼は他の弟子同様に、イエス・キリストに出会ってから、自分の人生が一変しました。しかし師を裏切った!という事実は、決して消し去ることが出来ません。


 私たちは「見える事実」と、「見えざる事実」の狭間の中で、双方を取捨選択しながら生きています。ご存じのように、アダム(エバ)の犯した罪の結果、私たちは見えざる「神の事実」よりも、見える「現実」、特に自分の中にある「罪」という、悪しき事実に捉われる「弱さ」があります。しかし自分の罪を含め、「現実」を超越した霊的次元の中において、主なる神が全ての事を相働かせて下さる限り、神は「赦し」の次元、「救い」の次元へと、私たちを確実に導いて下さいます。


 トマスは、自分の「罪」の事実が、師イエス・キリストを「死」に至らしめた!という、サタンの霊的罠(自分を責め立てる意識)に陥っていました。それ故に、他の弟子が証言する、イエス・キリストの「復活」の証言は、ただの「フェイク(偽りの知らせ)」としか捉えませんでした。


試される信仰
 しかし八日の後に、そのようなトマスの元を、自分の肉の努力ではなく、神の一方的な「憐み」故に、復活したイエス・キリストが訪れて下さいます。最初トマスは、イエス・キリストの姿を見て、「幽霊だ!」と錯覚しました。しかしイエス・キリストは、そんなトマスに対して、次のように語りました。「トマスよ、見てごらん!これが私の今の有りのままの姿形である。」と。そして両手の平を差し出し、また上着をめくって、脇腹をさらしました。決してトマスの手を取り、強引に両手や脇腹の傷跡に、タッチさせることは為さらずに。


 イエス・キリストは、驚愕しながらも、ご自分の傷跡を見続けるトマスに対して、続けて福音を発します。「見ないで信じる人は、幸いである。」と。トマスの霊的「立ち位置」は、私たちの「弱さ」の雛型です。彼は他の弟子と比べて、復活後のイエス・キリストに出会った順番としては、いわゆる「遅刻組」の一人です。また彼は、他の弟子たちと同様に、十字架の死から逃げた者です。私たちも、彼ら同様に「弱い」人間です。肉の次元では、「私は生きるにしても死ぬにしても、イエス様に従って行きます!」と表明しながらも、霊の次元においては、罪がある故に「至聖所(死のフィールド)」に入ることを躊躇します。


 しかしイエス・キリストは、復活の言葉をもって、トマスに対して語られました。つまりトマスの信仰が弱かろうが、イエス・キリストを信じて、復活の御体を求める(信仰で確認する、親しく交わる)よう、彼を復活の次元へと招待したのです。聖書には、その時のトマスの反応が記されていませんが、師との新たな「交わり」が開始されたことにより、恐らく彼は号泣したことでしょう。


 覚えて戴きたいことは、私たちキリスト者はいずれ、「良き麦」と「毒麦」に選り分けられます。そうです!聖霊様を通して、霊的に淘汰されるのです。「毒麦」は、人に必ず害を与えますが、「良き麦」は小粒であっても、人に何らかの「益(恵み)」をもたらします。私たちキリスト者も同様に、「終末の時」に霊的な結実、つまり信仰が試されることになります。


 しかし覚えて下さい!信仰が試されることは、逆に聖霊様も「弱い」私たちを、必ず助け出して下さることにつながるのです。主なる神は、トマス同様に私たちの「弱さ」を、ご存じの上で取扱って下さいます。復活のイエス・キリストを通して、私たちの「弱さ」の全てを贖い、「祈りの器」或いは「賢い花嫁」として仕立てる為です!私たちが肉の次元で、劇的に変わるのではなく、復活のイエス・キリストが、私たちの「弱さ」の中に、大いなる復活の「現れ」として、豊かに働かれる時に、多くの人々の「慰め」となり、共に御国へと帰ることの出来る、素晴らしい「希望」を与える為です!


 今回の記事の著者ヨハネは、末文(30~31節)において「これらの事が書かれたのは、①あなた方がイエスは神の子メシアであると信じる為であり、②信じてイエスの名による命を受ける為である。」と述べているように、イエス・キリストは、ご自分を裏切ったり、離れ去った弟子たち全員を、わざわざ捜し訪ねて、トマス同様に復活の御体をもって、ご自身との新しい「交わり(契約)」を再開しました。


 トマスに現れて下さったイエス・キリストは、実は今に生きる私たち「終末のエクレシア」に対しても、31節と同じ目的(目標)をもって、強く働きかけています。第一の目標は、私たちはイエス・キリストが「神の子」、「救い主(メシア)」であることを、更に純粋に(命を懸けて)信じるようになることです。第二の目標は、イエス・キリストの「御名」を信じる、天よりの信仰を受け取るだけで、新しい「永遠の命」を、無代価で得ることが出来ることです。この二つの目標(福音)を、多くの人々が知る時、人々は「終末のエクレシア」を①見る、②確認するのです。あなたの中にある①確信と②希望に満ちた誇りを通して。


 霊的に新しく造り変えられた弟子たちの如くに、私たちが大胆に「最後の収穫」に出かけて行く時に、何が起きるのでしょうか?聖霊様を通して、単純な「福音」を語るだけで、多くの人々が「真実」を求めて集まって来ます。「あなた方の中には、恐れ知らずの大胆さ、そして素晴らしい言葉の力が見える。私にもその言葉を下さい。私たちも、あなた方のように力強く生きることの出来る、その大胆な力を下さい。具体的にそれは何ですか?」と。


 私たちは即答します。「イエス・キリストを信じなさい!そうすればあなたも、あなたの家族も救われます!」と。トマスは、その後「祈りの器」へと造り変えられました。私たちが今後為すべきことは、トマスの如くに熱心に祈り求めることです。イエス・キリストの「救い(復活の福音)」が、私たちの①言葉と②行動と③生き様の中に、豊かに現れ出る為に!


 是非あなたが、更なる①確信と②希望に満ちた誇りを、聖霊様を通して戴くことが出来ますように。あなたは「神の宮」、生ける真の「エクレシア」です!イエス・キリストとの、麗しい聖なる「交わり」が、激しく飢え渇き求める、あなたの信仰生活の中に、豊かに溢れ流れ出ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年5月1日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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