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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

終末のエクレシア(No.16)

          スマート・エクレシア




だから、聖霊がこう言われる通りです。「今日、あなた達が神の声を聞くなら・・・・心を頑なにしてはならない。・・・・」・・・・あなた方の内誰一人、罪に惑わされて頑なにならないよう、「今日」という日の内に、日々励まし合いなさい。―私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―・・・・一体誰に対し、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることが出来なかったのは、不信仰のせいであったことが私たちに分かるのです。
                                         【ヘブル書3章7~19節】


スマートな「体(神の宮)」
 今回のタイトルに使用した「スマート」とは、三次元(物理)的状態(有様)のことではなく、霊的な姿勢を指している言葉です。私たちの霊的な「体(神の宮)」が、果たしてスマートであるか否か、これが非常に重要となります。つまり神から見て、私たちエクレシアが、霊的に柔軟な姿勢で、神の御前に悔いた、砕かれた状態に造り変えられているか否か、ということです。


 「神の宮」であるエクレシアが、神の御目に見て「聖め」られていないのであれば、エジプトを脱出したにも関わらず、真実の神の御心よりも、世的なことを追い求めた、イスラエルの民同様に、霊的には「頑な」な信仰姿勢です!


 主なる神は、一人一人のキリスト者の「体(神の宮)」を、霊的に聖めて用いる訳ですが、その時に私たちが相も変わらず、「罪」の次元に陥っているのであれば、主なる神はご自身の「栄光」を現されません。私たちが神の「言葉」、「御心」、「方向性(正しい導き)」などを現すべく、流し易い(使い勝手の良い)、通り良き「管」として用いるには、やはりスマートでなければなりません。


 私たちが今回の記事から、先ず霊的に知る(気付く)べきポイントは、「悪魔サタンに騙されてはならない!」という点です。彼は私たちに対して、あたかも自分が神の「御心」に沿っている、即ち「私たちが、常に正しい歩みをしている!」と錯覚させます。ところが神にとっては、それが「スマートではない!」と映る訳です。それ故に神は「私はとにかく、今のあなたでは働きにくい。私はあなたを通して、もっと栄光ある神の宮として建て上げたい!」と、強く激しく臨んで下さいます。


 覚えて戴きたいことは、「神の宮」は決して人間的な組織、即ちピラミッド型ではありません!むしろ逆のイメージであり、聖いサークル(円形)の如きものです。しかもそれは、堅い殻に覆われたサークルではなく、求める者には「無代価で得る」ことの出来る、スマート性を持ち併せているものです。と言うことは、他者が「あなた(私)」を見た時に、「イエス・キリストがまさしく、あなたの只中におられます!」と告白できる、それ程の神の「栄光」溢れる状態に、私たちが霊的にスマートな状態へと、更に造り変えられる必要があります。ですから私たちは、心を頑なにしてはなりません!


神の「安息」に入る
 住宅メーカーの営業戦略の一つとして、モデルハウスを展示して、お客様に実際に体験して戴く方法があります。この時に「モデルハウス」に求められる、様々な条件がある訳ですが、例えば主婦の目線に立てば、「キッチンが使い易いこと」など、様々な要件が出て来ます。平均的な要件として①外観のデザインが見栄え良いこと、②リラクゼーション(快適さ)を備えていること、③使い勝手が良いこと、④完成(仕上がり)度が良いこと、これらが挙げられます。その中でも一番に、多くのお客様が求める(具体的に要求する)点は、住み(暮らし)やすい快適性があるか否か、つまり見えざる「安らぎ」ではないでしょうか。


 人が住んだ場合に、真実の「安らぎ」と「憩い」の空間があるか、これは非常に重要なポイントとなり、「神の宮」であるならば、尚更霊的なリラクゼーションが、最大に求められるのではないでしょうか!別の言葉で言うなら、神の「安息」です。神の「安息」とは、神の提供する「平安」の中に、自分自身の全てを「restする(休む)」ことです。神の「憩い」の場(ハウス)に宿り、神との「交わり」に入ること、これが神の「安息」です。


 主なる神は、ご自分の「安息」を惜しみなく、求める者に対して常に与えています。ところがイスラエルの民(第一世代)は、霊的に頑なになり、神が約束として与えた、シオン(安息のフィールド)に入ることが出来ませんでした。ですから神の「安息」を拒む時に、自分の「息」に頼らざるを得ないなど、霊的に窒息した状態になります。しかし神の「安息」に生きる者は、永遠に続く神の「祝福」の領域へと、無代価で入ることが出来ます。


 その時に必要となる私たちの霊的姿勢、それがスマートであること、つまり素直に信じて受け取ることです。これを霊的「誠実さ(Royality)」と言います。またスマートの中には、悔いて砕かれた「謙虚な姿勢」も必要となります。


不信仰にならず、信じて受け取りなさい!
 さてキリスト者が、①神の安息、②霊的誠実さ、③謙虚な姿勢を忘れて、身勝手な生き方を貫く時に、最終的にはモーセの兄アロンと、彼を霊的に焚きつけた、愚かな一部のイスラエルの民同様に、偶像礼拝の最終形(金の子牛)を、聖なる高台に据えて、反キリストの奴隷と成り下がることを、決して忘れないで下さい!


 神の「安息」を拒むこと、これが霊的頑なさの土台です。「頑固さ」と「頑なさ」は、似通った言葉ですが、それぞれに意味合いが異なります。「頑なさ」とは、他人の言葉を最初から受け入れない態度(姿勢)です。それに対して「頑固さ」とは、自分の言葉(考え、思い)そのものを、固く守り通すべく、他人の意見を最終的に拒絶することです。


 イスラエルの民は、神の「恵み」を戴きながら、日々前進することが出来ました。しかし彼らは計算しました。先の不安がよぎったからです。「このまま終わり(ゴール)無き、旅路を続けていたら、食糧が尽きてしまう!」と。そしてモーセに文句を言いました。「明日の保障をくれ!」と。神に対して「主よ、私たちに必要な糧を、今日もお与え下さい!」と、謙虚に祈り求めることなく、自分を守るために「神の人」を脅しました。


 自分の「息」に頼る者は、一時は自分なりの「信念」をもって、何とか生きることが出来ますが、それでもいつしか「不安」が生じるのです。「先(明日)」に対する不安です。ところが神の「息」、即ち神の「安息」を、謙虚に祈り求める者の場合は、最初から神の「安息」の中に、自分の全てを「rest(安んじる、休息する)」為、神の「永遠性」を信じることが出来ます。


 そいう意味で、私たちが神の「安息」を、純粋に祈り求めないのであれば、私たちの「罪」意識が、「霊」の中で更に増殖することを忘れないで下さい。つまり霊的「頑なさ」が、悪しき方向性で培われて行くのです。「お金(金銭)」に関わること、これは自分の「手の業」です。それに対して「命」に関わることは、神の「御手の業」です。


 結論になりますが、私たちが神の「御心」の領域に入るべく、最初の重要となる「入口」が、実はスマートであるか否か?ということです。以外に思われるかも知れませんが、神の「御心」の領域には、如何なる「隔て(壁)」も無い、最高の柔軟性を持ち併せています。つまり主なる神は、完全に聖なる方、スマートな主です!その方が、常に命じられること、それが「私の安息を、今(今日)受け取りなさい!」です。


 私たちが霊的に悔いた、砕かれた姿勢で、神の「安息」を受け取らない限り、いくら素晴らしい「働き(ミッション)」をしたり、数々の「奇跡」をもって、多くの魂を導いたとしても、「終末の時」には淘汰されます。「毒麦」か「良き麦」に・・・・。あなたが仮に、真実の神の「安息」が欲しいのであれば、目の前に現れる「死」を恐れないで下さい!サタンは必ず、あなたに「この世」の安息を見せるからです。


 聖霊様は常に、霊的警告をもって強く促します。「今日示される、神の安息を受け取りなさい!」と。私たちが「確信」と、希望に満ちた「誇り」を持ち続ける限り、私たち自信が聖霊様を通して、スマートな神の「御体」の一部として、豊かに形造られて行くのです。ですから私たちは「今日」、頑なになってはなりません!神の「安息」を、素直に信じて受け取る者は、無代価で神の「命の水」を得ることが出来るからです。


 どうか神の「安息」のみが、常にあなたを導き、霊的な勝利を日々得ながら、神の「安息」の中 、更に留まり続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年5月8日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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