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神のご計画(No.33)

    「移植された樹」として生きる




家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。私が、あなた達を捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなた達にも平安があるのだから。
                                         【エレミヤ書29章5~7節】


祝福の「祈り」
 愛する天の父なる神よ、世界各地で様々な出来事が起きています。予想もしない出来事が、次々と起きている為に、多くの民が霊的に疲弊し、希望無き時代の中で、ひたすら苦しみながら生きています。しかし私たちには、真実の希望があることを感謝します。あなたが与えて下さる希望は、将来に対する麗しい平安を保証し、約束されたものが真実であることを、必ず私たちに対して証明して下さるからです。


 たとえ私たちが、何処に置かれたとしても、何処に遣わされたとしても、また植えられたとしても、神の栄光を豊かに現すために、私たちを豊かに取扱って下さることを感謝します。私たちが遣わされる「その場」に於いて、どうか主の平安のみを、常に求めることが出来ますように!


 私的な「不安」や「恐れ」の次元にではなく、神の豊かな平安が確実にあること、また遣わされる「その場」に、神の麗しい栄光が現れ出ることを信じながら、霊と真による礼拝を、常に捧げることが出来ますよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


「移植される」という経験 
 ある面私たちは、様々な「場」に置かれるなど、霊的に移植される経験を踏みます。エジプトを脱出した、イスラエルの民同様に、私たちキリスト者としての人生は、移植から移植の連続と言えます。しかし主なる神は、私たちの行く先々において、決して根絶やしされること無く、豊かな繁栄を保証して下さいます。イスラエルの民に与えた民族的使命は、常に「産めよ、増えよ、地に満ちよ!」です。これは単に、民族的な人口数の増加を意味する命令ではありません。


 はっきり申し上げて、民族的に生まれ育った地から、他の土地に移植されるという経験は、体験したくない酷な出来事です。果たして新しい地に根付くかどうか、全く分からないのに、他の地に移植される訳ですから、それは苦痛を伴うものになります。「果たして、うまく行くだろうか?」、「枯れてしまうのではないだろうか?」などと、不安だけが付きまといます。


 しかし主なる神が、移植という霊的な手続き(取扱い)を為される時には、必ず正しい意味があります。先ず「ある所(A)」から、「ある所(B)」に移植することは、「ある所(A)」に於ける、神の「ご計画」が終了したことを意味します。そして「ある所(B)」に於いて、神の次なる「ご計画」が始動することを、前もって導き知らせることを意味します。私たちが目の前の「現実」を、正しく捉えることが出来ないのは、「現実」には見えない、「神の事実」を掴む信仰が、霊的に失なわれているからです。


 覚えて戴きたいことは、私たちが「神の平安を確立する為に!」という、明確なゴールを見失わなければ、私たちは神の「ご計画」通りに、必ず増え拡がる祝福にあずかることです!主なる神が始められれる次元は、必ず明確なゴールを用意しています。それが「結実の時」です。そうです!大収穫の時に間に合う程の、聖霊様の素晴らしい取扱いが、いよいよ近づいています。世界中の隅々に至るまで、神の「福音」が宣べ伝えられた後に、イエス・キリストが再臨されるのです。


二つの「勅令」
 エレミヤは、バビロンに捕囚されて行く、第一のグループに対して、「励まし」となる霊的メッセージ(書簡)を送りました。「たとえ他国の地にあっても、(生きるべき道を)模索してはならない。真実の神は、必ずあなた方に対して、偉大なる祝福と繁栄を用意している。それ故に、今まで通りの生活をして、神との交わりを絶やすこと無く、常に前進して行きなさい。そうすれば、神は大いなる民族的拡大を、その地に於いても現して下さる。だから今は、神の平安を求め続けなさい!」と。


 「今の時」にあって、私たちキリスト者に命じられている、神の二つの「勅令(大命令)」を、私たちも正しく聞き取る必要があります。これは神の「ご計画」の、二本柱(大黒柱)と言えるものです。第一の「勅令」は、①何処においても神の臨在(存在)を、必ず求め(確認し)なさい!ということです。今の時代は、特に多くの人々が苦難の中にあります。良き展望が、全く得られそうにない、大変な状況下にあっても、私たちキリスト者は、先ず神の臨在(存在)を求める(確認する)のです。「人」を見るのではなく、「神」が私を「ここ」に置いている(遣わしている)、そのような神の「臨在」の視点から、自分の「立ち位置」を確認することが、何よりも重要となります。


 続いて第二の「勅令」は、②「産めよ、増えよ、地に満ちよ!」です。私たちが、霊的に移植される理由は、創造主なる神に対する、霊的な実を多く結ぶ為です。移植された以上は、必ず豊かな「実」が増えることで、最終的には地に満ち溢れる程になります。何が満ちるのでしょうか?それは神の「平安」です。ヨシュアとカレブだけが敵地(カナン)に侵入し、神の「平安」を求めるべく、その地の麗しい「産物(実り)」を、神による収穫の「結実」として持って来ました。そうです!神の「平安」が、必ず前(先)に用意されることを、彼らは確信したからこそ、カナンの地においても、「産めよ、増えよ、地に満ちよ!」の結実を、実際に収穫したのです。


 私たちが、様々な苦しみの経験を強いられたり、望みもしない逆境の如き地に遣わされる、その一番の理由は、私たちが次のポジションへと、霊的に移植される為であり、その準備段階として、今の「経験」や「状況」等が用意されているのです。自分としては「もうこの地で頑張ります!」と思っていても、神の「ご計画」としては、次々と「新しい地」が用意されます。ですから私たちは、自分の望む「地」に留まってはなりません!留まる者は、一時は良くても、必ず最終的には滅びます。ここが信仰の分岐点となります。神が私たちを、「この世」から選び召し出した、即ち霊的に移植した目的は、神の祝福という結実を、常に用意するためです。私たちは神の「ご計画」の中で、「結実の人生」を歩まされていると言えます。


キリスト者の「結実」
 では私たちキリスト者にとって、「結実」とは何を意味するのでしょうか?エレミヤは、今回の記事の中で、次のように述べています。「私が、あなた達を捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなた達にも平安があるのだから。」(7節)この御言葉の中に、私たちキリスト者の「結実(ゴール)」が描かれています。神の「平安」があってこそ、私たちの生きる「目標」や「生き甲斐」など、私たちが結実して行く上での、正しい理由(意味)があります。


 具体的には、先ず①遣わされる様々な「場」において、主なる神の「臨在」を認め、神による「結実」を正しく求めさえすれば、必ず神の平安が訪れます。私たちが「神の国」と「神の義」を、第一に求めるだけで、他に加えて「必要なもの」が添えられるのです。続いて②遣わされた「場」の為に祈るのです。それは私たちの関わる、様々な「場(フィールド)」において、主なる神の麗しい「ご計画」があることを信じて、神が自分を遣わしている事実を、前もって祝福し祈ることです。


 私たちの「現実」には、時折「大変な場」に置かれることがあります。しかし、それも一つの経験として、神は「良し!」とされるのです。何故なら、その「大変な場」にあっても、私たちが汚されること無く、逆に聖められ守られているからです。「全て」を委ねる信仰で、その「大変な場」を祝福し祈る時に、不思議なことに私たちは、神の高き「次元(平安)」へと、霊的に引き抜かれていることに気付きます。


 そうです!私たちが神の「臨在」と、神の「平安」を求め続ける限り、聖霊様を通して「移植」の手続きが開始するのです。私たちの主イエス・キリストは、常に私たちと共におられる、インマヌエルの神です。父なる神の「平安」を必ず、私たちに対して現わして下さる方です。あなたの居る場を、真実の神の「恵み」で満たしたいからです。


思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。【ガラテヤ書6章7~9節】


 私たちが霊的に移植される、その最終的なゴールは、主なる神ご自身が「御心」のままに、確実に進めて下さっています。その時に、遣わされる各フィールドにおいて、「信仰の種」を蒔き続ける者は、必ず神の豊かな「祝福」を刈り取ります。物凄い程の霊的大収穫の時が、いよいよ間近に迫っている「今の時」に、私たちは如何なる地を選び取りますか?「産めよ、増えよ、地に満ちよ!」と、神が最終ゴールは示して下さる時に、私たちが仮に霊的「バビロン(この世)」へと、遣わされる(移植される)経験を経たとしても、私たちは決して恐れる必要はありません!真実の神が共におられるからです。


 どうか遣わされる場において、あなたが①神の「臨在」を、先ずは認めることが出来ますように。そして②神の「御思い」に、全ての意識を集中することが出来ますように。最終的に③神の「ご計画」を信じて、素直に従うことが出来ますように。そうすれば神の「平安」と「祝福」が、あなたの居る全ての地に、豊かな「実り」として満ち溢れるでしょう。あなたが、神の大いなる大収穫の時に、卓越した神の「働き人(職人)」として、神の「実り」を束ねながら、御国に凱旋できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年9月19日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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