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終末のエクレシア(No.9)

   「偶然」が「必然」を引き起こす




モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。誰か厚意を示して下さる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「私の娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。
                                                       【ルツ記2章2~3節】


「偶然」と「必然」の関係
 今回の記事にある、「たまたま(3節)」(新共同訳)の表記は、新改訳聖書では「はからずも」と訳されていますが、これは「偶然性」を意味する概念です。今回のメッセージは、「偶然」と「必然」という、相反する概念について、ルツの取った不思議、かつ大胆な信仰行動から、学んで参りたいと思います。


 今回ルツが取った行動の次元は、あくまで偶然のことです。彼女が意図的に予定していたことではなく、自分が居ても立っていられない「思い」に立ち、たまたま行動に移っただけです。あまりにも義母(ナオミ)の様子が、塞ぎ込んで苛立っているなど、極端に変貌していましたので、ルツとしては複雑な心境にありました。仮に自分が、義母同様に否定的な「思い」に立っていたら、二人とも干からびて死んでしまう!ということで、ルツは今回の如き、大胆な行動に移りました。


 今回の記録にある、「モアブの女ルツ」(2節)という表記は、イスラエル民族から見て、民族的に毛嫌いする程の「外人」、つまり異邦人の立場(身分)を意味する表現です。私たちの生きる「今の時代」は、何となく民族と民族が対立し合うなど、新たなナショナリズムが台頭していると言えるのではないでしょうか。


 その異邦人の「嫁」、しかも寡婦(やもめ)となったルツが、突拍子もない行動に移ったことを、義母ナオミの予測するところでは無かったと推測できます。それ程に今回の出来事は、「たまたま」でした。今回覚えるべき、重要ポイントは二点です。私たちは「物事」を、「表(肯定的現実)」と「裏(否定的現実)」という、二つの側面だけで捉えようとします。


 私たちが「現実(今の事実)」を、否定的に捉えてしまうと、「真実」を求めようとする、正しい動きが必ず停止します。しかし信仰を働かせて、ルツの如くに「神の次元」で捉える者は、三次元的な事実には無い、見えざる「神の事実」を掴むことに、全ての動きを集中します。そうです!①「偶然」の出来事の中に隠されている、「神の事実」を拾い集める信仰を、私たちも賜物として戴く必要がある、これが第一の重要ポイントです。


 「今の事実」は、主なる神が「全て」を働かせて、御心のままに支配し(治め)ています。ところが私たちの思考は、8~9割方ネガティブな「捉え方」をします。それ故に、自分にとって都合の悪い状況に遭遇した場合に、正しい「思考力」が失われます。しかしルツ及び信仰者は、嫌な現実を見たとしても、「否!もしかしたら・・・・」などと、神の「御心」の中にある、自分の正しい「立ち位置」を、必死に探り求めながら、神の見えざる「必然」を求めて、「ある時」は大胆な行動に移ります。


 ルツは、神の「必然」を信じて、全てを委ね切った行動に移ります。その行動とは、卑しき身分の者が、収穫時期の大農家の畑に赴き、収穫された後の「残り物」を拾うこと、つまり「落穂拾い」をすることです。普通でしたら、同じ民族が「落穂拾い」をすることは、律法において認められた権利ですが、異邦人に関しては、逆に追い出されるか、袋叩きに遭う可能性があります。


 今回のルツの行動の場合は、神の「必然」が働いて、全てを支配していましたから、如何なるトラブルも起きませんでした。今、世界中で様々な異変が起きています。もし私たちが、三次元的な「現実」を見て、直ぐに恐れたり、ネガティブに捉えてしまうと、正しい方向性を見失います。しかしルツの如くに、今の「現実」を見て恐れるのではなく、神の見えざる「豊かな事実」が、その先に隠され(用意され)ているのではないか?と、大胆に前進して行く者には、神の「必然性」が先に用意されます。


 主なる神は「良き神」です!ならば良き「結果(実り)」を、必ずあなたに用意して下さいます。私たちの「歩み」には、その途中段階において、必ず「?」と思えることが多々ありますが、最終的に「あー、あの時の出来事は、たまたまだったかも知れないが、今の自分を見た時に、あの出来事があって良かった。」などと、肯定的に捉えることがあります。その時は、確かに苦しくて、大変な経験を強いられた訳ですが、信仰的に捉えた時に、全てが「益」である!と確信できること、これが私たちの信仰にとって、大事なポイントとなります。


神の「必然」に従ったルツの信仰
 さて、②ルツは何処(どの時点)で、そのような「信仰」の賜物を戴いたのでしょうか?これが第二の重要ポイントです。ルツの人生において、最大の転機となった時点は、恐らく義母から、人間的アドバイスを受けた時です。つまりナオミが、若きやもめルツに対して、「自分の人生を、もう一度やり直すべく、(故郷の地に)帰りなさい!」と促された時です。彼女は一瞬、義母の勧めを受け入れようと思いましたが、ある「事実」だけが、ルツの脳裏から離れませんでした。


 その「事実」とは、言っている本人自身が、度重なる不幸な境遇にあっても、決して捨てていないものがある!という点でした。つまり全能の神、創造主なる神、真実の神に対する信仰です。実はルツ自身も、ナオミの生き様を通して、神に対する「信仰」を掴んでいました。しかもそれは、ナオミ以上の「信仰」の賜物でした。


 ルツの「信仰」は、人の「偶然」を、神の「必然」と捉えるなど、非常に優れた霊的品性(特質)が備わっていました。例えば義母ナオミの人生は、はたから見ると「不幸な星の元に産まれた女性」としか映りません。しかしルツは、如何なる「現実」を見ても、決して前進することを放棄しない、ナオミの信仰を見るにつけ、どれ程「励まし」を得たことでしょう。即ちナオミの信仰は、「真実の神」を信頼する限り、必ず先には「真実」が待っている!という、見えざる「神の事実」に対する確信でした。


 ルツの持つ「信仰」の霊的特質は、実は今の「終末の時代」に生きる、私たちエクレシアにとっても、無くてはならないものです。今後予想される、様々な「災い」や「艱難」を考慮しますと、彼女自身の「信仰行動」が、一つの「霊的雛形」であることに気付きます。私たちは今後、恐らく様々な「試練」を経る中で、霊的に練り聖められて行きます。「その時」に、悪魔サタンは霊的反作用として、多くのキリスト者を自分の奴隷とすべく、ネガティブな次元に誘導し、(前進することを)完全に諦めるよう、例えば「もう帰りなさい!」、「もう戦う必要はありません!」などと勧めて来るでしょう。



 しかし聖霊様は、「終末のエクレシア」に対して、小さな声をもって励まします。「否、現実を見ないように!その先にある神の必然、即ち神は必ずあなた方に対して、マイナスではなく、益(プラス)となるよう相働かせながら、今の私を通して、ご計画を進めて下さいます。」と。ナオミは不思議なことに、ルツが「落穂拾い」に行くことに、反対の意思を表しませんでした。


 異邦人ルツが、他人の「畑」に行くことは、はっきり申し上げて、無謀かつ危険な行動であり、そこは彼女にとって「死の領域」にも成り兼ねません。それは喩えて言うならば、戦争に出陣したことの無い、未熟な若き兵士が、敵地に向けて突撃するようなものです。そうです!勇ましい「信仰」が無ければ、絶対に出来ない行動です。


 ルツは、ある「畑」に到着した時に、人間的な「段取り」や、「駆け引き(交渉)」を一切しませんでした。実際に彼女が為した最初の行動は、そこで働いている農夫たちの後を歩いただけです。つまり「歩く」という行為を通して、神が続いて起こされる「必然」を、「落穂拾い」で確認しようとした訳です。ルツの立ち位置は、「収穫」の働きに携わる、農夫たちの「しんがり」です。彼女の行動を咎める者は皆無でした。


 彼女の行動は、ある意味「大胆さ」が無ければ、決して為し得ないことです。このルツの信仰行動は、ある面「確信」が無ければ、信仰の行動に移ることが出来ない次元です。しかも希望に満ちた「誇り」が、ルツにはありました。彼女の「確信」とは、偶然(たまたま)の出来事に遭遇したとしても、その中には神が前もって、彼女の為に必要なものを用意し、現実は依然として何もなくとも、「神の事実」としては、必ず先にある!という全き確信です。つまり神の「必然」を信じることです。


 私たちの思う「たまたま(偶然)」は、不可能な現実を見た時に「あーもう駄目だ!」などと、否定的概念に直ぐに捉われるが故に、それを正しい次元で見ることが出来ません。これが「罪」の持つプライドです。しかしルツの場合は、義母ナオミが許可を与えたこと自体が、神の「ご計画」の次元にあって、既に「良き事」が必ず先にある!と捉えるなど、神の「必然」を掴み取る信仰が備わっていたのです。


出かけて拾うエクレシア
 「終末のエクレシア」が、今後どうなって行くのか、聖書には具体的な記述はありません。しかし、はっきりと記された事実としては、私たちキリスト者は「出て行かなければならない!」という点です。何処に出かけるのですか?世界中の「隅々」にです。それは神が用意される、あなたに対する「たまたま」の場です。いつも通りに、私たちは出かけて行き、そしてそこを歩く(そこで落穂を拾う)のです。そうすれば、そこに神の「必然」を見出し、大収穫の一端を担うことになります。


 そうです!私たちはルツの如くに、ただ「出かける」だけで、「喜び」の束を拾うことになります。その為には、私たちが「確信」と、希望に満ちた「誇り」を持ち続けるという、上よりの「信仰」の賜物を戴く必要があります。そして私たちは、遂に「真実の神は、必ず良き事を起こされる。そして全てを相働かせて、必ず益として下さる。その神が、私の前を進んで下さる限り、私は何を恐れようか。」と宣言するのです!


 あなたが、「賢い乙女」としての品性、また優れた誇りをもって、花婿なるイエス・キリストを、喜んでお迎えすることが出来るよう、更に美しく整えられますように。また聖霊なる神が、更に様々な「畑」へと、あなたを遣わして下さるよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年2月13日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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