バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.32)

        二種類の「イチジクの実」




主が私に示された。見よ、主の神殿の前に、イチジクを盛った二つの籠が置いてあった。・・・一つの籠には、初なりのイチジクのような、非常に良いイチジクがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないイチジクが入っていた。主は私に言われた。「エレミヤよ、何が見えるか。」・・・・その時、主の言葉が私に臨んだ。「イスラエルの神、主はこう言われる。この所からカルデア人の国に送ったユダの捕囚の民を・・・・この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。・・・・彼らは真心をもって私の元へ帰って来る。・・・・この国に留まっている者、エジプトの国に住み着いた者を・・・・私が追いやるあらゆる所で、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。・・・・私が・・・・与えた土地から滅ぼし尽くす。」
                                       【エレミヤ書24章1~10節】


二種類の「グループ」
 私たちはイエス・キリストの、次の御言葉を熟知しています。「私はブドウの木、あなた方はその枝である。」(ヨハネ福音書15章5節)このように、イエス・キリストは福音書の中で、様々な「喩え」を語っていますが、フルーツの「喩え」は、かなり頻繁に語っています。「イチジク」に関しても、イエス・キリストは様々に喩えていますが、今回エレミヤが預言する「イチジク」の喩えは、南のユダ国が遂に、敵国バビロンへと捕囚された、その後に語られたものです。


 実は「バビロン捕囚事件」は、ユダ国の全国民が捕囚の憂き目に遭った訳ではなく、①捕囚されたグループと、②荒れ果てた国土に留まったグループ、この二種類に分けられます。①の王はエコンヤ、②の王はエコンヤの叔父に当たるゼデキヤですが、「生き方」が実に対照的でした。捕囚された①のグループは、王族と高官(優秀な行政官)、卓越した職人たちの家族でした。彼らは、強制的に連行されたというより、バビロン側の「人材囲い込み」政策に、召し出される形式で、自発的に祖国を離れました。つまり、それまでの「生き方」を変え、神の「ご計画」通りに、敵国に根付くことを選択しました。


 しかし②のグループの場合は、元々バビロンに屈服した訳ではなく、徹底的にバビロンに抵抗するなど、「生き方」を変えることはありませんでした。彼らは祖国を離れる①のグループに対して、馬鹿にしたように嘲笑しました。「お前たちは裏切者であり、敵に媚びを売る馬鹿者だ!お前たちの命は、もはや風前の灯火であり長くはない。」と。ところが①のグループは、ある事を知っていました。「たとえ恥を受け、敵の領土において罵られようが、神の御心が成ることを信じさえすれば、生き永らえて神の栄光を受け取る!」と。


二つの籠の「喩え」
 今回もエレミヤは、主なる神から質問されます。「何が見えるか?」と。彼は見たままの光景を、素直に描写しました。「主よ、二つの籠が見えます。一つ目の籠には、甘く熟したイチジクの実が、豊かに盛られています。しかし二つ目の籠には、見るからに食べられそうにも無い、貧弱な小粒のイチジクの実が見えます。」と。


 すると主なる神は、次のような啓示(預言)を、エレミヤに示されました。「エレミヤよ、実はこの二種類のイチジクの実には、ある重要な奥義が秘められている。」と。今回のメッセージにおける重要ポイント、それは如何なるフルーツであっても、その第一の存在意義は、①麗しく実ってこそ意味がある!という点です。続いて第二に、②食べられる状態になって、その価値が発揮されることです。つまりフルーツの価値は、美味しい状態になってこそ、他の生物たちの口に入る訳で、美味しくない状態では、汚物の如きモノに過ぎません。


 実はイチジクも同様ですが、美味しいフルーツ(果実)を栽培するには、次の処理を必ず経る必要があります。それは人の手によるもの、つまり「手入れ」です。聖書に喩えとして登場する「イチジクの木」は、イスラエルのことを指します。そしてその結ぶ「実」とは、神に従う霊的度合(状態)を表します。そしてエレミヤに示された、今回の二種類のイチジクの実が入った籠の「喩え」は、神の「ご計画」に対する、イスラエルの状態(態度)を表しています。即ち、神の「ご計画」に従った①グループと、あくまで自分の「計画」に固執し、自国に残り続けた②グループ、この二種類のことです。


 エレミヤが実際に見たシーンは、先ず第一に「丸々と熟したイチジク」で、第二に「とても食べられそうにない小粒のイチジク」でした。第一のイチジクの籠の「喩え」は、神自らがカルデア(バビロン)の地に送った(遣わした)、①グループの人々です。そうです!神の「計画」に準じて、彼ら(①グループ)は他のフィールド(畑)に、あえて植え直された、つまり移植された訳です。これが神の霊的「手入れ」です。それに対して第二の籠には、頑なな②グループの「行く末」が、象徴的に映し出されました。彼らは生ける「命の水」を求めるのではなく、エジプトの水を慕い求めました。これは主なる神にとって、一番に忌み嫌う霊的状態です。


 イエス・キリストは、実らないイチジクの「喩え」に関して、ルカ福音書13章で「切り倒してしまいなさい!」と述べています。エレミヤの働きは、ある面「庭師」の如くに、主人に対して「イチジク」が実を結ぶまで、様々に手入れしたり、肥やしの処理に工夫を凝らすことで、主人の決断を遅らせたことでしょう。この「喩え」の中には、エレミヤが見たシーンと同様に、主なる神の「メッセージ」を、真剣に受け留めるべき、重要な教訓があります。


神の「手入れ」
 実は、①のグループは結実に至るよう、神による霊的「手入れ」が施されました。それは木としての「剪定(刈り込み)」です。他の果樹と同様に、先ず今年青々と葉が生い茂った枝は、必ず切り取らなければなりません。そして第二に、翌年の春に咲いた多くの花に関して、「摘花」という処置を必ず施します。そうすることで、沢山の小粒の実が成ることよりも、甘くて大きな実を、程良く成長させることが可能となる訳です。


 この神の霊的剪定は、具体的には私たちが体験する、様々な出来事の中における、主なる神の取扱いを意味しています。それは失敗したり、困難な目に遭ったり、「苦しみ」や「悲しみ」を伴うなど、嫌な体験を強いられることも含みます。しかし、実は「その時」こそが、神が私たちに近付いておられる、「絶好の時」です!「その時」に私たちが、例えば「神よ、私は間違っておりません!私は今の生き方を貫きますから、困った時は助けて下さい!」などと、頑なに神の取扱いを拒むのであれば、小粒の「食べられない実」を結ぶ、②のグループになります。


 主なる神は、必ず一人一人に対して、霊的剪定を施されます。「その時」に私たちは、神が私たちに対して用意する、素晴らしい生き方として、また神の栄光を現す器として、神の「刈り込み」を感謝して受け取る必要があります。そうすれば、豊かな実を結ぶ者として、新たに造り変えられて行くのです。たとえ「今の時」が、バビロンの如き大変な状況にあっても、それは霊的に捕囚されている訳ではなく、逆に神から遣わされている、つまり霊的に移植されていることに、私たちは信仰の目を向けるべきです。


 私たちの「信仰」の歩みは、大変な試練を通過させられる時が殆どです。しかし①グループの如くに、たとえ他国において恥を受け、苦渋の道を歩かざるを得なくとも、神の「ご計画」に忠実に従う限り、神が必ず偉大なる御業をもって、結実に至る人生を回復して下さる、このことを信仰で受け取って下さい!主なる神は「今の時」に、私たちをねんごろに愛し、必ず霊的に建て直して下さるからです。


 そうです!私たちは数年後には、神の偉大なる特権を戴いた大使、しかも如何なる「病い」にも倒れない、健全なるイチジクの木として、「この世(バビロン)」に遣わされることになります。是非私たちは、神の霊的「取扱い(剪定)」を受け取って参りましょう!そうすれば、神による霊的「大収穫」の時に、多くの人が食するこの出来る程、私たちがイエス・キリストの「実」として、神の「籠」に盛られることになります!


 日本から世界へと、神のイチジクのリバイバルが、必ず霊的豊作として開始されますように。どうかあなたが、更に聖霊様の導きによって、神の「ご計画」に従いながら、霊的剪定(取扱い)の恵みを、喜んで受け取ることの出来る、「賢い乙女」として整えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年9月12日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する