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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.36)

      あなたは何処に立つ者ですか?




主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めて下さる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地の諸々の柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。
                                             【Ⅰサムエル記2章7~8節】


二つの「立ち位置」
 私たちの「立ち位置」は、選択肢として二つあります。私たちは第一の「立ち位置」を選択し、つまり「神が用意して下さる贖いのフィールド、即ち御国に立っています!」と、信仰的に告白します。それに対して第二の「立ち位置」は、詩篇の作者が表現する、「悪しき者」が選択する場、つまり「この世」のフィールドです。ハンナの場合は、今回の記事に見られるように、不動の信仰という「立ち位置」、つまり神の「真理の御座」に、堅く据えられていることが伺えます。


 例えば今の時代は、非常に不安定と言えます。どっちに立てば良いのか、全く分からない(定めることが出来ない)、そんな状況下にあります。情報そのものが「フェイク」ばかりで、何を信じて良いのか分かりません。そんな中「何となく~かも知れない」などと、自分の「知恵」に頼ったり、自分なりの判断を重ねながら、日々生きてはいますが、不安定さは解消されません。


 しかし私たちが覚えるべき、最も重要とすべき信仰の「立ち位置」は、「エデンの園」にあります!「エデンの園」は、①何の為に創造されたのか?そして「エデンの園」は、②誰に「相続権」として与えられたのか?この二つの奥義を、私たちは常に覚えるべきです。ご存じのように創造主なる神は、ご自分に似せた最愛の被造物、即ち「最初の人(アダム)」を、わざわざ「エデンの園」に住まわせた、つまり彼の「立ち位置」として、「エデンの園」に堅く据えました。


 また主なる神は、アダム(エバ)を「エデンの園」を管理する、つまり霊的に司る「祭司」として、彼らに管理権(霊的に治める働き)を委ねました。その結果、「エデンの園」から「命の水」が、大海に至る程の豊かな「流れ」となって、神の「祝福」が全地を行き廻ることになります。そうです!本来ならば、神の「祝福」に至る、「エデンの園」の方程式(永遠の法則)が、万物を豊かに祝福する計画でした。


 ところが「悪しき者」の首領、悪魔サタンが、彼らの「霊」の只中に、罪の因子(呪いの種)を蒔いた結果、「エデンの園」の方程式は、一旦閉じられることになります。にも関わらず、主なる神は彼らを通して、罪に満ちた呪われた大地を回復すべく、新たな次の「贖い」の計画を始められました。しかし立つべき「場所(立ち位置)」を、私たちが違えてしまったら、如何なることが起きるのでしょうか?


 私たちも、アダム(エバ)の子孫ですから、罪の因子に苦しむ卑しき身分です。しかし覚えて下さい!彼らは罪を犯した、最初の被造物であったにも関わらず、父なる神は彼らに対して、「贖いのしるし」として、聖なる衣を着せて下さいました。その目的は、たとえ罪が満ちた世界にあって、呪われた大地を歩んでいたとしても、主なる神は彼らを「贖いの座」に就かせるべく、彼らが祭壇上に生贄(小羊の命)を捧げる限り、永遠の交わりをもって祝福する為です。


 そうです!創造主なる神はアダムの子孫に対して、偉大なる「エデンの園」の遺産を継承(相続)させる!という、神の祝福の「契約(約束)」は、今も尚有効であるという、素晴らしい「証明(神の事実)」が残されているのです。但しそれには一つの条件、即ち「信仰」が必要です。この神の「真理」を①信じて、②覚え(礼拝し)続けるという、全き信仰が無ければ、私たちは受け継ぐことが出来ません。


「立ち位置」を違える時・・・・
 立つべき場所を、私たちが違える時に起きることは、先ず最初に①罪の虜に陥ります。悪魔サタンは私たちに対して、常に持ってくるものがあります。それが「過去の亡霊」です。「あなた達が神に背を向け、神の言葉に疑いを持って、善悪の木の実を食べた結果、あなた達は今苦しんでいるでしょう。あなた達の自業自得です。もはやあなた達は、神から祝福される身分じゃないから、私の言葉を頼って、私に付いて来なさい!過去は変えられません。」などと、サタンは常に「過去」に焦点を当てながら、「恐れ」と「不安」を呼び覚まします。


 その結果次に起きることは、②自分の「過去」のトラウマ(傷)等が刺激されて、心理的スイッチが入ります。それと同時に③全ての「今(現実)」が、恐怖の世界に様変わりし、先(将来)に進めなくなります。しかし私たちが、立つべき場所を違えずに、本来立つべきポジション、つまり主なる神の「贖い(救い)」にすがって、神が用意する「聖なる衣」を着続ける限り、私たちの「先」には、神の平安が満ち溢れているのです。


 そうです!神の「贖い」のポジションに、いつも立ち続ける者は、ハンナの如き不動の「信仰者」です。「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めて下さる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。」(7~8節)の言葉に見られる、ハンナの信仰表明の中に、「貧しい」という言い回しがありますが、実際の言葉としては二種類で、第一に「暫く何とか生活して行ける程度の貧しさ(poor)」、第二に「明日の命(生活面)の危険が伴う程の困窮(needy)」です。


 ハンナの言葉を直訳すると、「主なる神は、ある人々を貧しい状態(poor)、ある人々を富んだ状態(rich)として容認している。また主なる神は、ある人々を卑しい身分の者、ある人々を強大な力を持つ、高貴な身分の者として容認している。主なる神は、貧乏だと思っている人々を、塵の如き状態から高き次元へと持ち上げて(lift)下さり、明日の保証が無い生活困窮者を、最悪の状況(アクタ)から復活させて下さる(raise)!」となります。


 ハンナ何故、人々の置かれた「貧しさ」の状態を、二種類に分けて表現したのでしょうか?人の持つ「秤(はかり、ものさし)」は、アダム(エバ)の罪故に「二元論」の罠、例えば「持たざる者」と「持つ者」、「富める者」と「富まざる者」など、「現実」という数量的状態を比較する為、正常な判断がブレます。神が与えるものは全て、等しい祝福の次元にありますが、「他のもの」の方が、何となく素晴らしく見える(思わせる)のは、全てサタンによるトリックです。


 このサタンの「罠」に陥ってしまうと、求めるべき「方向性」が違ってきます。「相手は金持ち、自分は貧乏」、また「相手は素晴らしい学歴、自分は低学歴」などの次元で、自分を貶める者は常に「卑しい」状況にあります。しかし、私たちが一番に覚えるべきポジション(座)、それが正しい「立ち位置」です。


 ハンナは何故、サタンの「罠」に陥らず、正しい「立ち位置」に立つ者へと、霊的に回復されたのでしょうか?それは「主なる神は、常に与えて下さる方である!」という、素晴らしい「神の事実」を、彼女は信仰で受け留めたからです。何と初子サムエルを捧げた結果、ハンナ夫婦には更なる息子・娘が、神の祝福として授けられました。


心の貧しい者は幸いである!
 イエス・キリストが、公に福音宣教を開始された、有名な「舟上の垂訓」の冒頭にある、「心の貧しい(spiritual poor)人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ福音書5章3節)の御言葉に、私たちは信仰の原点(立ち位置)として、今一度立ち返る必要があります。特に私たちが生きている、今の矛盾だらけの世界に於いても、この「神の言葉」をしっかり握って、信仰の「証し」を発信すべきです。


 この御言葉は詳訳すると、「本当の幸い(祝福)を得ている人とは、心が常に飢え渇いた状態にある人々である!何故ならば、彼らにこそ天の国の次元が開かれているからである。」(私訳)となり、イエス・キリストが感嘆した表現で、正しい「立ち位置」にある者を、霊的に定義した御言葉です。イエス・キリストが用いられた「心の貧しい(spiritual poor)」とは、謙虚な姿勢で「霊」が神の次元を求めて、常に飢え渇き続けることです。


 ハンナの場合は、最大の「幸福」に関して、「高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。」(8節)と表明していますが、直訳すると「王女たちとの親しい交わりを、最も困窮している人たちにも用意し、彼らを栄光ある宮殿に置いて下さる。」となります。そうです!プリンセス(王女)が彼らの「友」となり、王宮という高貴な場所に、立ち入りが許される程の身分になること、これが最大の「幸福」です。つまり主なる神が、全ての主権を握って下る限り、如何なる不幸、貧しさ、最低レベルの生活にあったとしても、彼らを正しい神の次元(立ち位置)へと、必ず回復し引き上げて下さるのです。


 さて、今日の世界の中において、二つの出来事が進行中です。先ず①目の前の「現実世界」は、最大の「恐怖」をチラつかせながら、戦争、巨大地震、食糧危機、物価高騰、異常気象等、益々混沌とした世界が拡大しています。次に二番目の出来事は、②神ご自身が進めておられる次元、即ち目に見えざる「神の事実」が、いずれ来たる時に完成することです!


 私たちが本来立つべき、正しい「立ち位置」を違えてしまいますと、「神の事実」が見えなくなり、むしろ現実世界に溺れることで、神の偉大なる祝福の御業が、益々薄れて行きます。私たちは「神のもの」であり、神に属する者です。そして神が与えて下さるものは全て、私たちが不足を一切感じることの無い程、尽きることの無い「命の水」の如くに、豊かに満ち溢れ、そして流れ続けるものです。


 そうです!「神の国」は、私たちのものです。新しい「天」と「地」は、心の貧しい者たちに、豊かに受け継がれながら、完成へと目指しています。ハンナは霊的な幸福の「雛形」を、メッセージとして伝えています。私たちが目の前の「現実世界」を求めて、手放そうとしないのであれば、一時的な「幸福」は得られることでしょう。しかし彼女が、初子サムエルを手放すべく、見えざる「神の事実」に捧げ尽くした時に、神の偉大なる御業が、栄光の訪れと共に完成したのです。


 仮に私たちの心の中に、「焦り」や「苛立ち」、そして過去の「トラウマ」等、霊的な「不幸」と錯覚し、様々に苦しんでいるのであれば、聖霊様の「助け」を求めて、直ぐにも手放して下さい。「貧乏」という言葉は、確かにネガティブなイメージを作り上げます。しかし現実の「貧しさ」が、心の貧しい霊的な次元へと、神が聖めて下さるのであれば、必ず良き経験となります。真実の神が与える次元は、決して三次元的「貧乏」ではなく、高貴な立ち位置「王宮(神の国)」です。そしてプリンセスの「友」、つまり私たちも王族の一員として、神との親しい「交わり」の中に入る、破格の特権を与えられているのです。


 これが私たちの「先」にある望みとして、「霊の眼」で見えていないのであれば、私たちは「立ち位置」を違えています。「お金」がチラつきますか?「老後のこと」がチラつきますか?「先(将来)」が心配ですか?それらを心配することは、間違ってはいませんが、私たちが追い求めるべきものは、先ず「神の国」と「神の義」です!そうすればそれに加えて、全てが与えられます。


 私たちは「神の国」に招かれた、大いなる特権を得た「神の子」です。ハンナは、この信仰を常に表明しながら、絶えず前進し続けました。あなたもハンナ同様に、「神の王国」を常に求める、賢い乙女(神の王族)として、絶えず前進し続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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