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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.27)

       神の「ご計画」の心臓部




主は私にこう言われた。「行って、ユダの王たちが出入りする民の子らの門や、エルサレムの全ての門に立ち、彼らに言うがよい。・・・・主はこう言われる。あなた達は、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また安息日に、荷をあなた達の家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。・・・・主は言われる。もし、あなた達が私に聞き従い、・・・・安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば・・・・この都には、とこしえに人が住むであろう。・・・・もし、あなた達が聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入るならば、私はエルサレムの門に火を放つ。その火はエルサレムの城郭を焼き尽くし、消えることはないであろう。
                                             【エレミヤ書17章19~27節】


「安息日」の奥義
 神の「ご計画」は、私たちの想像を遥かに超える次元の中において、今も尚神ご自身が創造の御業を、「開始した時」から「完成の時」に至るまで、着々と押し進められている訳ですが、その計画の心臓部となる、一番肝心となる「教え(戒め)」を抜きにしては、何の意味も為さなくなります。


 特に「安息日」の教え(戒め)は、イスラエルの民が毎回聞いてるものです。主なる神が、しつこく命じれる理由は、それが何にも増して重要なことだからです。主なる神が、何故「安息日」という、特別な時を定められたのでしょうか?私たちは「安息日」を、神が創造の御業を終えて、ようやく休まれた日、即ち神の「休日」と捉えています。


 エレミヤに今回語られた、主なる神の「教え(戒め)」は、ただ「自分の為に出入りをしてはならない!」という点です。つまり自分の「手の業」に関することだけです。しかし神の「教え(戒め)」に対して、自分勝手に解釈して、「霊」の中に自分の「考え(荷)」を持込みますと、サタンの仕掛ける「罠」に陥ります。


 あなたに、一つの質問を投げかけてみたいと思います。「あなたが神に対して、何かの捧げものをする時、これだけは捧げにくいと思うもの、それは何ですか?」ある人は即「什一献金です!私は稼ぎが多いから・・・・」と答えるかも知れません。しかし全ての人に該当する答え、それは「あなたの時」です。すると「え!私の時なんか元々ありません。時を刻んでスケジュールを作ったり、計画を立てて行動はしていますが、だからと言ってそれは私のものではありません。」と、逆の反応をするかも知れません。


 しかし覚えて下さい!「時」というものは、全ての人に平等に与えられています。そして「安息日」という概念に対して、私たちが霊的に抵抗感を覚える理由、それが「私の時」という意識が、「霊」の根底にあるからです。主なる神は私たちに、素晴らしい「救いの門」を用意しています。それは唯一のゲート、即ちイエス・キリストです!しかし、この門を通ることの出来る者は極僅かです。


 今回の記事から示される重要ポイント、それは罪を犯す以前のアダム(エバ)に対する、主なる神の「ご計画」を、私たちは再度知る必要がある!という点です。そこで先ず覚えて戴きたいことは、主なる神は彼らが罪を犯すことを、前もって知っておられました。イスカリオテのユダ然り。ペテロも然り。イエス・キリストは、そんな彼らに対して、決して責め立てたり、遠ざけることは為さらず、むしろ「(サタンの誘惑に)警戒しなさい!注意して心を見張っていなさい!」などと、熱心に注意喚起することで、彼らの「霊」に寄り添いました。


 アダムとエバが、いずれ「罪」を犯すことを、主なる神が事前に知っておられた、明確な証拠があります。それはアダムに対しては、主なる神は事細かく、あることを指示しました。それは「エデンの園」にある土を、神の知恵をもって耕すことでした。実は土を耕すことを通して、神はアダムに「信仰の法則」を教え示したのです。続いて女性のエバに対して、主なる神は次のように仰せになりました。「妻たるエバよ、あたなは夫であるアダムの仕事を見守り、そして夫が仕事から帰って来た時には、彼の労苦に報いていたわりなさい!またあなたは、いずれ夫との間に子を授かりますが、生まれて来る子供たちを、あなたは育てて行くことで、豊かな子孫の繁栄にあずかるでしょう!」と。


 そうです!彼らが「罪」を犯したとしても、主なる神はアダム(エバ)に教え示した、「信仰の法則」に聞き従うことを通して、彼らの子孫(私たちキリスト者を含む)に、神の国の「祝福」を拡大して行くこと、これが彼らに対する神の「ご計画」です!また同時に神は、重要な「メッセージ」を、彼らの「霊」に刻みました。「六日間は、おのおのの仕事に勤しみなさい。しかし私が七日目に、手の業を止めて休んだように、あなた方も七日目には、私との聖なる交わり(安息)の中に入り(選び取り)なさい!」と。


 まさしくこれが、主なる神の「ご計画」の心臓部です!「安息日」とは、自分の「手の業」を完全にストップして、神の「憩い(安息)」の中に、自分の「全て」を委ねるべく、神との「交わり」を聖別することです。そうすれば、主なる神の「祝福」として、次なる仕事や生活など、あらゆる分野において、創造主なる神の「新たな力」を、限りなく得ることが出来るのです!しかし「自分の手」を止めること無く、ゲートを自分勝手に出入りすること自体が、神が忌み嫌う「罪」の次元です。つまり神との「交わり」から、あえて離れる行為です。その結果イスラエルの民は、紀元後70年にローマ軍により、完全にエルサレム神殿が破壊されるという、民族的憂き目を経験しました。


 実は「神の時」のサイクルを、私たちが正しく知ることで、私たちキリスト者を通して、神の「ご計画」が更に拡大して行きます。そして私たちは遂に、罪故に呪われた「大地」を回復し、そこに神の偉大なる「ご計画」を、豊かに現して行くのです。それに対して悪しき勢力は、首領サタンの「プラン」通りに、事(世界統一政府の完成)を進めています。どうでしょうか?「666」の足音が、何となく近づきつつありませんか?しかし恐れないで下さい!私たちは今だからこそ、生きる「意味(召し)」があるのです!


 今生かされているのは、先ず「安息日」を聖なる日として尊び(礼拝し)、神の豊かな「命の糧」を、日々天より賜るという、素晴らし「祝福の法則」の中で、私たちが養われていること、これを正に証明する時が「安息日」です。もしこの日に、「明日の風」を心配する余りに、自分のゲートを開く者は、サタンの仕掛ける「罠」に陥ります。サタンは、私たちの霊的「弱み」や、人間的「感情」に突け込んで訴えます。しかし聖霊様は、「神の時」を決して見逃すことが無きよう、必ず「弱い私」を助けて下さいます。


「神の時」のサイクル
 結論ですが、「神の時」のサイクル(法則)を、私たちは再度覚える必要があります。つまり創造主なる神ご自身が、六日間に渡る創造の御業を終えられた後、七日目に「手の業」をストップし、被造物との「交わり」の為に、「安息の時」を設けられたこと、これが「神の時」のサイクルの根幹です!ご存じのように、イスラエル民族の歴史は、約六千年前にアダムの登場から始まりました。即ち創造主が土の塊に、「命の息」を吹き込んだ瞬間に、神の偉大なる「ご計画」がスタートしたのです。


 そうです!アダム(エバ)は、神の「命の息」により、神を正しく知る(認識する)、つまり「生きる者」となりました。そして恐らく、彼らは長い年月をかけて、父親(主なる神)から大事に養育され、様々な事を学びました。特に「父の時」のサイクルに関しては、事細かく教えられ、そして彼らは「安息日」を遵守したのです。この時点では、捧げるべき「生贄」は、未だ必要ありませんでした。罪を犯していないからです。


 この父と子の素晴らしい、聖なる「関係(交わり)」を見たサタン、激しい妬みに駆られ、エバに対して新しい「情報」を提供しました。「神の存在の如き者になれる、もっと素晴らしい方法があるよ!」と。その結果、彼らは「罪」を犯して、「父の時」のサイクルから隠れた(離れた)のです。しかし主なる神は、彼らに対して「プレゼント」を与えました。それが小羊の「生贄」で作った、「聖なる衣(贖いのしるし)」でした。永遠に朽ちることの無い、その「聖なる衣」を身に着けて、アダムは呪われた大地を耕し、エバは夫の帰りをねぎらいつつ、共に感謝の祈りを捧げることになります。


 アダム(エバ)の登場から①約二千年を経た時に、主なる神の「呼び出し(召し)」により、アブラハムが登場します。そしてアブラハムの登場から②約二千年後に、「救い主」イエス・キリストが誕生し、イエス・キリストの誕生から③二千年後(1948年)に、イスラエルが建国されます。そうです!いよいよ再臨のイエス・キリストが、私たちを迎えに来る、その最大の目的は、神の「安息の時」が完成すること、つまり千年王国の到来です。


 私たちは、最高の「喜び」の時である霊的「安息日」、即ちイエス・キリストの再臨を通して始まる、千年王国の時代に向けて、着々と備えていると言えます。しかし、それと同時に私たちは、アダム(エバ)の犯した「罪」により、神の「命の息」が霊的に損われ、完全に失った訳ではないのですが、元の素晴らしい働き(機能)が出来なくなり、それ故に「この世」の事に霊が奪われるなど、苦しみが増す生活を強いられる、これも事実です。また私たちは、「自分の時」を確立すべく、一生懸命に「世のゲート」を出入りします。そうです!「安息の時」が「霊」の中に無いからです。


神の「安息(命の息)」を受け取りましょう!
 しかし覚えて下さい!私たちキリスト者が「今の時」にも、決して恐れること無く、日々歩み続けることが出来る理由、それが「安息日」を尊ぶこと、つまり神の「命の息」を再び得る日として、神との親しい「交わり(神のゲート)」に入る、素晴らしい「恵み」を授かっているからです。「自分の時」の全てを捧げて、神の「安息の時」に入ることで、私たちは初めて真の「自由」を得ているのです。あなたの「息(呼吸リズム)」から「心拍」に至るまで、その全てをバランスよく、コントロールしているのは誰ですか?明日になったら、簡単に死亡する人が増えている時代です。


 どうかこの「安息日」に、神の「命の息」を受け取りましょう!私たちは、余すこと無く「命の息」を吸って、神が用意して下さる「永遠の憩い」に入って行きましょう!ジョークになりますが、「この世」の事を優先する人にとって、神の「安息の時」は逆に、永遠の「窒息日」となります。しかしイエス・キリストという、王の王なる方が、千年の「安息の時」を開始した時に、アダム(エバ)の子孫(キリスト者)は、再び大地を開墾し始め、千年に渡って「生めよ、増えよ、地に満ちよ!」という、偉大なる神の「祝福」を拡大して行くのです。


また、私にこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正をする者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い聖める者は幸いである。黙示録22章10~13節】


 「門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い聖める」こと、これが「今の時」です!主なる神が定めた、唯一の門(安息日)の中に入る為には、全ての「手の業」を捨て、手を洗って「唯一の門」の内側に入り、神の「命の息」を十分に受け取って参りましょう。間もなくしたら「その時」が来ます。私たちにとって、それは「希望の時」です。イエス・キリストは必ず再臨します。花婿として花嫁(私たち)を迎えるためです。


 「その時」には、千年に渡る「披露宴(安息パーティー)」が始まります。神の偉大なる「こ計画」の中に、あなたが是非あずかる者となりますように。あなたが更に「安息日」を聖別し、「自分の時」の全てを捧げ、神の「命の息」の中において、真実の「憩い」を得ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年8月1日のメッセ-ジ)


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