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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

終末のエクレシア(No.4)

            計らずに図りなさい!




見よ、私は地上に洪水をもたらし、命の霊を持つ、全ての肉なるものを天の下から滅ぼす。・・・・あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、全て命あるもの、全て肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。・・・・更に、食べられる物は全てあなたの所に集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」ノアは、全て神が命じられた通りに果たした。
                                            【創世記6章17~22節】


ノアの優れた「信仰」
 今回ノアに命じられた、神の偉大なる「ご計画」の詳細は、信仰が無ければ到底信じることが出来ないものであり、三次元レベルでは計算不可能なものです。恐らく「必要な資材は何処にあるのですか?」、また「必要な資金は何処に行けば調達できるのですか?」などと、私たちの場合であれば、様々に思い悩む(思い諮る)次元にあるからです。


 ご存じのように、私たちの三次元的「思考」は、アダム(エバ)の犯した「罪」が故に、霊的な次元を図ることが出来ない、即ち霊の次元にある神の「御思い」を、ストレートに受け留めることの出来ない、制限された「思考」に陥りました。その結果、例えば「え!とてもじゃありませんが、あなたのご命令を遂行する為には、あなたが九割方準備して戴かないと・・・・」などと三次元的に計算して、最終的には躊躇する始末。


 ところが今回の記事には、ノアが躊躇した!とは記されていません。むしろノアの場合は、主なる神の「ご命令」に対して、命じられた通りに実行する限り、「必ず成就する!自分が忠実に、信じて疑わずに実行して行けば、いつかは成る!」という、非常に優れた「思考」をもって受け留めたのです。


 神が「言葉」を発した以上、必要なものは全て神が備えて下さり、何より必要な健康(体力)や洞察力など、全ての力の源は神にあり、必要な時に必ず天から与えられる!と信じる者は、神が全ての事を相働かせて、必ず「益」として下さる!と受け留めます。そうです!神が「命の言葉」を人に預からしめた時は、「その通りに成る!」と信じて、決して疑わずに実行した信仰者を通して、神は「ご計画」を押し進められるのです。


信じ難く驚愕すべき「終末の預言」
 ではノアの妻、三人の息子と嫁たちは、どうだったのでしょか?ノアに語られた「・・・・あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。」(17節)とは、神がノアに託した(預からしめた)、素晴らしい「預言」です。即ち、ノアを含めた家族八人が、神の「救い」にあずかる!という、確実な「契約」の調印です。今回の記事から示される第一の重要ポイントは、信じ難く驚愕すべき神の「終末」の預言を、私たちは信仰のゴール(目標)として、常に意識する必要がある!という点です。


 「終わりの時」に、世界中のキリスト者が「携挙」の恵みにあずかります。しかし「携挙」が起きる前には、何らかの「兆し(時のしるし)」が示されます。その「しるし」は、今まで見てきたものとは異なります。「終末」のしるしは信じ難く、驚愕すべきものとなります。それは各地で多発する巨大地震や戦争、気候変動による大災害レベルではありません。


 今回ノアに命じられた神の「預言」は、到底受け入れることの出来ない、信じ難き内容でした。例えば、あなたの所属する「教会」に対して、突然主なる神が「あなた方は日本民族を建て直す程の、強烈なリーダーシップを発揮します。しかし、あなた方は迫害者の手により、いずれ死ぬことになります。ギロチン刑に処せられて・・・・」などの預言が与えられた場合に、果たして受け入れられるでしょうか?殆どの場合「はー?この私が・・・・。」などと躊躇し、到底受け入れることが出来ません。


 しかし「終わりの時」には、その預言が成就するのです。私たちのような、名も無き「小さな群れ」の中から、一つの民族に対して強烈な、神の「最終メッセージ」を発することになります。その時点で必ず逮捕され、収容所に収監される訳ですが、命の保証はありません。「仮にイエス・キリストの名を語る者は、必ず逮捕され収容所送りになる。そればかりか、その者の家族は全て懲役刑、もしくは死刑に処す!」という、政府の「禁教令」があるからです。


 さてあなたは、「その時」にどう行動しますか?「そんな時代は未だ先のことである!」とは、言い切れない時代に入ってると言えます。主なる神の終末の「プログラム」は、「今の時」に神に従って、霊的に目覚めている「賢い群れ」と、相も変わらず眠りこけたままの、霊的に「怠惰な(愚かな)群れ」の、どちらかを選り分ける為にあります。


 信じ難く驚愕する程の神の「終末」の預言が、いよいよ聖書を通して、また私たちの祈りを通して示される時に、重要となる二つ分岐点があります。第一の分岐点は、「知らない事実」に対して、殆どの人が「否!」と拒絶するのに対し、ノアは淡々と聞き従ったという点です。第二の分岐点は、「全て」が滅ぼされるという、この終末の「神の事実」に、人は耐えられない!という点です。


 ところで、私たちの人生に於ける最大の「恐怖」とは、如何なるものでしょうか?それは自分の「死」です。つまり自分が「終わる!」ということを、誰もが受け留められません。しかし自分の「死」を、神の「ご計画」の中に、信仰をもって返上する時に初めて、私たちは聖められて行くのです。「終末の時」は、私たちが終わる時ではありません。それは神の「栄光」が完成される時です。そして御子イエス・キリストが「万軍の主」、「王の王」として新しい天地を治められる時です。


 そういう意味で、私たちは「終末の時」を、どう生きて行くべきでしょうか?「全て」を滅ぼされるという、終末の「神の事実」を、ストレートに信じて受け留め、先ずは私たち自身が聖められることを求めましょう。しかし「この世」の人々は、逆に振るい分けられることになります。私たちの三次元的「思考」能力には、許容量として限界があります。つまり神の為さる「知らない事実」や、霊の次元にある「見えざる事実」に対して、到底理解することが出来ないなど、三次元的欠陥があるからです。


 私たちは何故、今の時代を淡々と見て、世の「終わり」が近い!と、受け留められるのでしょうか?それは「聖書」の預言が、「今の時」の流れを正確に物語っている、即ち「その通りなる!」と知っているからです。そうです!私たちもノアの如くに、神の「ご計画」通りに、「その時」の為に備える必要があります。「死を恐れずに、たとえ殉教の死が待ち受けていたとしても、ダニエルの三人の友人の如くに、火の中にでも参る覚悟で祈り続けます!」と。


計らずに図る信仰
 これからのキリスト者は、三次元的に「計る」のではなく、神の御心を「図る」信仰行動が重要となります。これが今回の記事から示される、第二の重要ポイントです。「終末のエクレシア」には、世的な計算は必要ありません。「あと何年経てばどうなるのか?」、「今の兆しは、どういう段階にあるのか?」、「携挙は、いつ頃始まるだろうか?」などと、推し測る必要もありません。では何が神の「御心」であるのか?即ち、主なる神の意図している事は、如何なるものであるのか?を常に意識し、信仰の行動に移る「備え」をすべき時です。


 例えば、私たちの「現実」の生活において、一番先に話題(関心事)になるのが、やはり「経済(マネー)」に関する事ではないでしょうか?人生の「先」を計算していたら、恐らくその「備え」の優先事項が、「積立資金(経済的貯蓄)」になるからです。しかしイエス・キリストが、正しいガイダンスをもって語った、「明日の風(糧)は、明日自らが考える(思い悩む)!」という、天の次元(霊的)の思考をもって、私たち生きるべきです。


 今回、主なる神がノアに命じたことは、次の三つの内容です。第一に①ノアとその家族が、先ず箱舟に入ることが出来ること。第二に②雄と雌の動物を「つがい」で、箱舟に連れて来る準備をすること。第三に③その動物たちの為に、食糧(餌等)を集めて備蓄すること。ここで不思議な疑問点が浮かびます。それは箱舟に乗船している期間、つまり「大洪水は始まってから、いつ終わるのか?」という点、また「動物たちの総数は?」など、やはり計算すべきデータが皆無であったにも関わらず、ノアたちは如何なる「思い」で、淡々と事に勤しんだのでしょうか?


 結論から言えば、彼らは「先」を考えずに、単純に「命の糧」を集め続ける!ことに専念しました。それが神の意図する「備え」である!と、信仰をもって受け留めていたからです。これからの時代は、本当の面で私たちの「信仰」が試されます。如何なる信仰が試されるのでしょうか?それは「計らない信仰」であり、また逆に「図る信仰」です。「計る」とは、①物の数量を数えたり、②物の善し悪しを(区分して)考えることを意味します。


 この「計る」は、生活の中で様々に計るなど、非常に便利な「思考」能力ですが、信仰面においては、神の「御心」を人間的な思考(判断)で、様々に区分してはなりません。つまり神の「ご命令」や「ご意思」などは、ストレートに受け留めるべきであって、例えば「どれ程集めたらいいのですか?」、「いつ頃まで為したら宜しいですか?」などの、三次元的思考で「計る」べきではありません!


 次に「図(はかる)」という文字は、象形文字の成り立ちとして、麦や豆などの穀物を、国家がしっかりと囲っている様を現します。ここから物事について①良く考え、②工夫して、③処理して行くことを意味します。「良く考える」信仰は、主なる神が為さることは、全て「益」であると信じることです。そして「工夫する」信仰は、神の「ご計画」や「ご意思」などを、「必ずその通りになる!」と受け留め、自らもそれに従って行くという、積極的な信仰行動です。「処理する信仰」とは、ノアたちの如くに集めて来ることです。


 「あなた」という、小さなエクレシアにおいて、これから何が起きるのか?是非「信仰」を働かせて、神の「ご計画」に期待し、霊的に図って行きましょう!「その時」の為に、主なる神の意図することを考え、行動に移って行きましょう!これが霊的な「備え」となります。私たちが、何においても準備すべき「備え」は、イエス・キリストの「命の言葉」です。いずれ来たる「大収穫」に備えて、ルツのように朝早くから、「命の言葉」という、霊的な「落穂」を拾い、集め続ける訓練に勤しみましょう。


 私たちが「確信」と、希望に満ちた「誇り」を持ち続けるなら、私たちこそが霊的な「箱舟」、即ち「終末のエクレシア」です!これから来る「終わりの時」に、多くの人々を神の「救い」に導く為の箱舟として、私たちは「大患難」が襲来する前に、信仰をもって準備しておくべきです。「その時」が来たら、もう終わりだからです!


 主なる神の意図することだけを、激しく飢え渇き求める、「賢い乙女」として熱心に祈り続ける者は、とにかく「終末の時」が訪れる前に、箱舟(エクレシア)を完成し、そして多くの人々を「箱舟」に集めてきて、彼らの為に必要な「霊の糧」を用意し続けます。是非、あなたも行動しましょう!それは、あなたの熱心な「祈り」から始まります。


 あなたが「神の言葉」を、決して三次元的に「計らず」、ストレートに「図る」信仰をもって、日々前進し続けることが出来ますように。そして更に、「勇ましさ」と「大胆さ」をもって、神の「御心」を激しく、かつ慕い求め続ける者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年1月16日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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