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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.25)

      「賢い旅人」になりなさい!




人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知り得ようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように、不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て、遂には、神を失った者となる。・・・・イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。
                                                【エレミヤ書17章9~13節】


人生という「旅路」にありて・・・・
 今回の御言葉には、「旅人」という記述はありません。しかし、私たちの人生という長い「道のり」、つまり長い時間の経過を考える時に、一種の長期に渡る「旅路」の如きものです。私たちは生まれた時から、そのような長期の旅を、時々意識している訳ではありませんが、人生という長い「旅路」にあって、私たちは信仰的に「今の時代」を、どのように捉えるべきでしょうか?


 「今の時代」に関して、只はっきりしていることは、推し量ることのできないスピードで、世界が変わりつつあることです。良い意味で変わるのであれば、何らかの希望を持つことが出来ますが、残念ながら明らかに信仰無き人々にも分かる程、その先にある旅路の「ゴール」が、混沌とした様相の中で、まるで滅亡の時を迎えるのでは?などと、不安を抱える人々が増加しています。


 覚えて戴きたいことは、エレミヤが今回のメッセージの中で、彼は決して悲観的になること無く、主なる神にあって自分たちが、神の「ご計画」の中で如何に守られ、かつ導かれ、そして豊かな麗しいシオンの回復の時を、神が備えて下さる等の希望のメッセージを、尚も投げかけている理由は、「今の時」に生きる私たちキリスト者も同様に、如何なる「旅路」を描くのか、この点にあります。神に向かう「旅」は、とても素晴らしいものです。そして、その「旅」のゴールには、「新しい天」と「新しい地」が、必ず用意されます。最終的にそのゴールは、イエス・キリストの「来臨の時」に完成します。


 そのような「ゴール」を見据えながら、私たちは共に励まし合い、共に祈り合い、「この世」の次元に決して染まることの無い、賢い乙女(花嫁)として、常に祈り続けることが出来るよう、上(天)よりの力を、謙虚に求めて行くなど、そのような信仰的イメージもって、今回のエレミヤのメッセージを、再度読み直して参りますと、二つの異なる「旅路」が見えてきます。



二種類の「旅路」
 「人生」という旅路には、二種類の「旅」があります。「この世」の人々が描く(求める)旅路は、今の世界的災い(感染病)が無ければ、恐らく単純なものでした。それは自分の内側から来る、肉なる「意思」によって設計され、その最終ゴールを年齢で言えば、80~90歳頃まで元気に生きて、幸せな生活をゆっくり過ごすなど、これが一般的な旅路プランです。しかし予想もしない大惨事が起きた時に、この一般的な旅路は崩壊(頓挫)します。彼らは、政府が作り上げた予防政策を信じて、「恐怖」から逃れようと、何の効果も無いワクチンを接種します。「死」というゴールが、目前に見えてしまうからです。このような「旅路」を、私は「シャコ型」と呼びます。


 「シャコ」という生物は、一見「普通のエビ」のように見えますが、とんでもないパワーの持ち主です。体長15~20cmと伊勢海老サイズですが、カマキリの如き、強力な前足(鎌)を備えています。彼らは、その強力な前足(鎌)をもって、二枚貝にぶち当たって、堅い貝殻を砕き食します。仮に普通のガラス水槽で飼っていたら、簡単にガラスを破壊する程の力です。


 実は今回の記事にある「シャコ」とは、上記の海洋生物のことではなく、陸地(砂漠)に棲息する「岩シャコ」という鳥類です。サイズは鶏と雉(キジ)の中間で、見た目は可愛らしい鳥です。しかし「岩シャコ」の母鳥には、変わった習性があります。たまたま二羽の雌が、同時期に「卵」を産み、それが互いに「巣」が近い場合に、強い雌が弱い雌を追い払い、その卵を自分の卵として、共に孵化させる訳です。


 人の「欲」が、まさしく今回の記事の「シャコ」の如くに、自分が経済的に苦しい時などに、他(よそ)のものを見て羨んだり、それを欲しがる余りに、ついつい盗んでしまうなど・・・・。その時の「理屈」は、「自分だけが苦しんでいるのに、富める者が平気でいること、それはおかしい。ならば富める者から、ほんのちょっと戴くのは、別に悪いことではない!」など、当の本人は「自分の行為は正しい!」と思っています。このような「シャコ型」の人々が、今の時代に増加しています。


 それに対して、主なる神がいつでも、私たちの心を探り極め、常にご覧になっている!という意識をもって、信仰が聖められるよう、遜って生きる人々(義人)も存在します。彼らは、神の視点から見て、果たして自分の歩みは、良きものであるのか?という意識に立ちます。それ故に彼らは、たとえ目の前の「現実」が、苦しくて何も産み出すことの無い、砂漠の如き大変な状況にあっても、神に対して常に飢え渇き続けます。そして信仰をもって、大胆に告白します。「私の旅路は今、確かに苦しくて、マラ(苦い泉)のように見えまが、行き着く先のゴールは、決してマラではなく、ナオミ(快い程の命の水)です!」と。


 このように主なる神を、永遠の水源として求め続ける、賢い者(義人)の旅路のことを、私はムーミンに登場する、「スナフキン型」と呼びます。スナフキンの「生き方」の特徴を見て、殆どの人は心配しません。むしろ「憧れ」の念を抱きます。「生き様」が涼しく感じられ、心が常に綺麗で爽やか、一緒に居るだけで、こちらも聖められて行く存在であり、彼が来るだけで、「優しい風」を感じるからです。彼は一見、ホームレスの如き、持てる物が何一つありません。しかし一つだけ、持っているものがあります。それが生きる上での、正しい「知恵」です。


 イエス・キリストが「喩え話」で紹介された、貧しきラザロの生き方や、異邦人の寡婦ルツの大胆な行動、聖霊によって180度変革された、無一文のペテロの信仰の如くに、私たちはイエス・キリストと共にある、「賢い旅人」へと、聖霊様を通して造り変えられて参りましょう!仮にあなたが、数年に渡る長期の「旅行」に出かけるとしたら、何を準備して持って行きますか?「賢い旅人」は、数日着るだけの衣服、そして食料品は携帯して行きますが、一番大事なものとして持参するもの、それが「命の水」です。その日生き永らえるだけの、飲料水を常に確保すべく、彼は先ず第一に「命の水」を探し求めます。


 しかしシャコ型の「愚かな旅人」は、大船団の如き「富のプラン」をもって、財力を「頼み」とする安心旅行に邁進します。しかし「ある事」が、危機的に迫っていることに、全く気付いていません。即ち、彼の持つ財力の全てを強奪する、悪しき盗賊集団(他のシャコ)の「足音」です。


 私たちはスナフキンの如くに、「賢い旅人」として生きる、正しい「旅路」のイメージを、信仰で描きましょう!「命の水」のみを準備して出かける者は、生きる為の「知恵」と、今後必要となる「命の水」が、何処に行けば見出すことが出来るか、それを常に考えて生きています。生きる為の「知恵」は、何処から来るのですか?「命の水」は、何処から流れ出るのですか?それは全て、天(上)から来るものであり、天にあるものを、常に探し求める者は、決して「渇き」が止まることはありません。このように、私たちは「信仰」という名の、長い「旅路」を歩まされています。


正しい「旅路」へと立ち返る
 創造主なる神は聖霊様を通して、常に私たちの「霊」の中を探り、そして丁寧に聖めて下さる方です。つまり本来の「正しい道(旅路)」へと、私たちを立ち返らせること、これが主要な働きです。「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」(10節)を詳訳しますと、主なる神は第一に、①私たちの心にある深い意思を見出すべく、とことん深堀りされます。それから続いて、②私たちの生き様と、その業に従って取扱われ、③その心をテストされます。この場合のテストとは、点数(結果)を知るためのものではなく、如何なる場合にも私たちが、真実の神の御元に立ち返るか否かを、霊的な取扱いをもって導くことです。主なる神の「取扱い」は、ある面で霊的テストを指しています。ある人は、この神の「取扱い」を拒否します。「こんな状況に、もはや耐えられない!」と。


 「今の時」が、まさしく神の「テスト」と言っても良いでしょう。世界中の人々が苦しんでいます。悪しきウィルスによって、商売が成り立たなくなっています。「生きる術」が、益々失われつつあります。その中にあって、キリスト者も信仰が試されています。ルツやエステルの如き「真の花嫁」は、このような時にこそ、大胆に信仰告白します。「神の畑に行きさえすれば、何とかなる(神が益として下さる)!」と。


 私たちは、世的な次元の「旅路」から離れ、スナフキンの如くに必要なものだけを、天(上)よりの恵みとして戴き、日々感謝しながら生きて行くなど、神が用意して下さる素晴らしい「旅路」へと、私たちは直ちに立ち返るべき時です!私たちの人生の「旅路」において、「この世」がまき散らす、霊的な「塵・埃」などにより、必ず「汚れ」が生じる(付着する)ことでしょう。しかし主なる神は、そのような私たちの「体」をも、霊的に完全に聖めるべく、「命の水」をもって洗い流して下さいます。


 結論になりますが、私たちはイエス・キリストの、マタイ福音書の6章の御言葉に、いつも立ち返る必要があります。この「命の言葉」は、私たちが正しく生きて行く、即ち「正しい旅路」を歩む上での、最高の福音(道標)です。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体ことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。・・・・あなた方の内誰が、思い悩んだからといって、寿命を僅かでも延ばすことが出来ようか。・・・・栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。・・・・だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・・何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(25~34節)


 私たちが思い悩む次元は、必ず私たちの肉の「意識」から侵入します。しかしイエス・キリストは、そのような私たちの霊的「弱さ」を、前もって知っておられます。明日になった時に、「明日の風」を心配する(気にかける)ように、「その日(今日)」に一番必要なものは、「神の国」と「神の義」であり、それを追い求めさえすれば、私たちに必要なものは、主なる神が十分に用意して下さいます。だから「この世」のことで、あれこれと思い悩むべきではありません!


 ですから私たちは、イエス・キリストにありて、「心」に余裕(平安)を持ちましょう。そうすれば、私たちの「霊」の只中から、満ち溢れるばかりの「命の水」が、豊かに流れ出ることでしょう。是非イエス・キリストに対して、激しく飢え渇き続けましょう。「神の国」を切り開くことで、私たちの長き「旅路」の最終ゴール、つまりカナンの地が待っています。


 そうです!主イエス・キリストの「来臨」の時に、私たち「キリストの花嫁」は携挙され、直接イエス・キリストの「御顔」に相まみえる、その素晴らしい体験にあずかります。そしてイエス・キリストと共に、新しい天と地を治める、御国のゴールが待っています。私たちが「霊の次元」に生きる限り、恐れるものは何もありません。しかし「世」に生き続ける人々は、益々「恐れの霊」に縛られ、反キリストの台頭の時に、彼を「現人神」として信じ、霊的な奴隷とされて行くのです。


 しかし私たちは、益々聖霊様によって油注がれ、霊的激励の「命」を受けます。「彼らを悪魔サタンから、ことごとく奪還して来なさい!イエス・キリストの栄光ある、福音メッセージを宣べ伝える、あなた方の足は何と素晴らしいものか!」と。


 あなたの上に激しい聖霊の「炎」が、もっと更に激しく臨みますように!あなたが「聖めの次元」に、益々入ることを通して、信仰の「旅路」が豊かに祝福され、栄光ある主イエス・キリストと、更に親しく交わることの出来る、勝利の日々が約束されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年7月18日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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