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命と心の健やかなる成長のために!
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正しい生き方(No.33)

       「弱さ」を主によって誇れ!




                             勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。
                                                  【Ⅰサムエル記2章4節】


「勝ち負け」の根本思想の特徴
 「この世」には、「勝負」や「競争」が付き物ということで、例えば「勝ち組」と「負け組」などの言葉があります。ある時は「強者」と「弱者」という、本人の持つ「力量」の大小によって、二種類に分類したり、また経済的な面においては、「富める者」と「貧しき者」という概念で、二つの階級に区分けしたりするなど、差別的「言い回し」があります。しかし、これらは全て「罪」がもたらす、悪魔サタンの霊的「罠」に陥る、悪しき言葉に過ぎません。


 私たちがこのような、サタンのもたらす霊的「罠」に、思考面或いは信仰面において陥らない為に、如何なる信仰行動が必要でしょうか?ハンナが今回の「祈り」の中で表明した、信仰的「勝利宣言」から、私たちは学ぶべきです。そうです!彼女自身は決して、サタンの持ちかける霊的な「罠」に陥らず、自分の前には神の「勝利」が常にある!ことを、確信に満ちた「言葉」をもって表明するなど、私たちはハンナの信仰を深堀りすることで、必要となる信仰行動を、聖霊様から示して戴きましょう。


 今回の記事における重要ポイント、それは「この世」の社会の競争原理である、「勝ち」と「負け」という考え方、その根底にある特徴は如何なるものでしょうか?それを先ず知る必要があるという点です。第一に、それは例えばスポーツ競技に見られる、①様々な世界記録や日本記録等の、いわゆる最高数値、また商売において利益を図るなどの、営業利益や純利益、また黒字や赤字等の、いわゆる目に見える、三次元的尺度から数値を測定したり、判定(或いは分析)しようとする特徴があります。


 第二の特徴として、それは②ピラミッド型の支配原理を元にして、果たして自分の立ち位置が、何処の階級にあるのかを、非常に気にかけながら生きようとする等、「この世」の競争原理に縛られる特徴があります。もし自分の立ち位置が、中間の階級にあるのであれば、更に上層部を目指して努力するなど、常に現状に満足することなく、逆に上に立たなければ、「負け組」に陥ってしまうなど、気にかける次元が「恐れ」に根付いています。


 第三の特徴として、それは③目に見える所有物の価値、例えば土地の資産価値や、建物(不動産物件)の実質価値など、所有物の大きさを常に求める為、自分の持てるものに対して、決して満足すること無く、更に価値を増やすことで、自分の競争意識を高めたり、人間的努力を図るなどの特徴があります。このような意識(競争原理)に立ちますと、いつまで経っても平常心、また平安な気持ちが生まれることが無いなど、これら三つの特徴によって、常に自分の価値が、果たして「勝ち組」にあるのか、それとも「負け組」にあるのか、それのみを気にして生きます。


勇士の弓は折られる
 しかしハンナは、これらの「思い」や「行動」の全てが、強い兵士の持つ「弓」の如きものであり、実は「強い!」と思っているものが、逆に「意味のないものである!」と悟り、「この世」の競争原理によって、自分は決して左右されることは無い!と、強く宣言しています。「強い兵士」が強い!と自負できるのは、その者の持つ「腕力」及び「行動力」、そして何よりも敵と戦う際の、戦いの「能力」によって証明するのではなく、その者が持つ「武器」、つまり「弓」をもって、どれ程多くの「勝利」を得て来たか、つまり敵側の兵士に対して、その「弓」をもって押し倒して来たか、それらの点に基準を置いています。


 ですから「強い!」と自負する兵士は、「弓」という武器があり、その弓をもって敵を打ち負かしたから、「強い!」と思っているだけで、実は所詮「弓」という、三次元的な道具(武器)が、「戦い」の途中で破損したり、折れたりした時には、その兵士は戦いようが無い訳です。このように兵士の「強さ」は、強い!と思っていたものが、実は「弓」そのものを、巧みに使っていたから強いのであって、「弓」が折れてしまった場合に、逆に「弱い兵士」に成り下がってしまいます。


 本来「強い兵士」は、武器に頼るのではなく、「戦い」に臨むに当たり、如何に戦ったら損失(ダメージ)が少なくなるか等、「知恵」を模索して作戦を進めようとします。しかし「強い!」と自負している兵士は、所詮「武器」を基準として戦い方を決める為、それが無くなった時に、どう戦うべきか?という発想がありません。「弓」が折れたら、所詮その兵士は弱い者に過ぎません。つまり目に見える「事実」を誇る者は、それが無くなった時には、途端に萎えてしまうのです。


 彼らは「目に見えるもの」だけを、ひたすら頼みとして生きます。「それが自分自身の強さである!」と自負しているからです。しかし真の「強さ」は、「弓」では測り得ません。それは「武器」ではなく、道具でもなく、その人の心から発せられる、強い「意思」によって、初めて測ることが出来ます。逆に弱い「意思」の場合は、敵に打ち勝つ為に、より強力な「武器」に頼らざるを得ないということで、不思議な相関関係が見られます。


 真の「強さ」を求める者は、内面的なものを常に研ぎすましながら、敵に打ち負かされることが無きよう、「弓」などの武器に頼らず、むしろ「戦い方」の面で、バリエーションをもって、様々に進めて行きます。ハンナ自身も、その真理(法則)に気付いていました。彼女の「敵」は当初、第二夫人のペニナでした。ペニナが誇る次元は、産んだ子供の「数」でした。ハンナは度重なる、ペニナの舌禍によって、最初は負けていました。しかし聖霊様が、夫のエルカナを通じて、「執り成し」の祈りを施した結果、彼女自身の祈りが、「霊の次元」の祈りに変えられました。そして彼女は、もはや「目に見えるもの」に頼らず、主なる神が導いて下さる「天の次元」の中に、敵との「戦い」を委ねることで、初めて「勝利」を掴むことが出来る!という、強い確信に至ったのです。


しかし、よろめく者は・・・・
 「目に見えるもの」に頼る兵士は、たとえ強い!と自負するものが、多くあったとしても、それは折れた時にはどうなるのか?それが彼女が続いて告白した、「しかし」という言葉です。「よろめく」とは、「弱き者」を意味していて、真の「弱き(よろめく)者」は必ず、更に強められて行く!と、ハンナは締めくくっています。そうです!真の「弱き者」は、永遠に天に居ます、創造主なる神によって、益々強くされて行く者のことです。


 「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言わました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それ故、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストの為に満足しています。何故なら、私は弱い時にこそ強いからです。」(Ⅱコリント書12章9~10節)この御言葉から示される、素晴らしい信仰の奥義を、私たちも大いに学ぶ必要があります。パウロは明言します。「弱さの中にこそ、本当の神の強さがある!」と。


 ここで一つ疑問があります。それは「何故弱さが、強さに変えられるのか?」という点です。「弱い」と「強い」とでは、対義語の関係にありますから、「弱さ」が「強さ」に変わる為には、ある出来事が転機になる必要があります。即ち「付加価値」という転機です。「弱さ」は神の素晴らしい働きによって、それは聖められることで、神の「強さ」に変化して行きます。パウロが明言する、この「弱さ」と「強さ」の法則に関して、三つの意味付け(理由)があります。「弱さ」が「強さ」に変えられる理由として、第一に①見えざる「神の事実」に期待するようになるからです。見える数値に頼っていたら、それは常に見える化しなければならず、過去のデータ以上に、今もまたその後も、将来に渡って戦い続けることになりますが、いつかは数値は下がります。その時に、見える数値に頼って行くと、過去が強かったとしても、「今は弱くて、もう駄目だ!」などと、必ず絶望するようになります。


 しかし見えざる「神の事実」が、常に「勝利」をもたらすのであれば、この「神の事実」に期待するようになります。自分の「肉の努力」に依らずとも、主なる神が全てのことを働かせて、「益」に変えて下さるからです。第二の理由は、②無いこと、持っていないこと、弱いことに感謝できるようになるからです。つまり「自分が~する!」という、立ち位置に立つのではなく、「自分が~される!」という、神の「恵み」に依り頼むなど、神の御前に謙虚に生きる、信仰者として造り変えられるからです。第三の理由は、③無限かつ無尽蔵の「神の蔵」、即ち「天の糧」によって、生かされているからです。目に見える「三次元の蔵」にある「生活の糧」は、いつかは朽ちる有限のものです。ヨブの信仰は、まさしく永遠に朽ちることの無い、創造主なる神の御力に頼ることで、日々神に感謝する道を貫きました。


 今回、ハンナが喩えた「祈り」の表現は、彼女自身が経験してきた、世的な「勝ち」と「負け」の三次元的事実にではなく、神の御力によって注がれるもの、及び天にある豊かな「神の蔵」から、惜しみなく流れ続ける神の「恵み」によって、彼女自身が生かされている!ことを、高らかに告白している言葉です。「自分は強い!」と思っている兵士の「弓」が、仮に折られた場合には、その兵士は途端に萎えてしまい、弱き臆病な者に成り果てます。ところが本当の「弱き者」は、神の御力を戴きながら、神が与える真実の「強さ」を帯びながら、神の無限かつ「永遠の勝利」の次元の中で、霊的「戦い」を経ながら、次第に強められて行くのです。そうです!真の「弱き者」は、神の偉大なる「強さ」のみを誇り、その神の「強さ」によって、自分が常に生かされていることに気付きます。それ故に自分の「弱さ」を、パウロの如くに誇ることが出来るのです!


 あなたが仮に今、この三次元的な世界を生きる上で、物凄い深い呻きを伴う程の、「苦しみ」の中にあるのでしたら、是非ハンナやパウロの如くに、「弱い」か「強い」かなどの、三次元的事実に囚われるのではなく、「自分が弱い!」と思っている部分に、如何に主なる神が、天にある「豊かな祝福」をもって、常に覆って下さるか、増してや神の御力が、その「弱さ」の中に十分に発揮される時に、麗しい「神の事実」のみが現れ出ることを、是非覚えようではありませんか!


 父なる神の「贖い」の御業、主イエス・キリストの「救い」が、私たちに豊かに注がれている、この素晴らしい「神の事実」に、私たちは「信仰の目」を向けて参りましょう!そうすれば、「弱さ」の中に働かれる、神の素晴らしい「聖い次元」が、更に増し加えられ、私たち自身が神の「強さ」によって、天上の「強さ」を帯びる者として、益々霊的「戦い」に勝利して行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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