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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.17)

    「偽りの衣」を日々脱ぎ捨てよ!




主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事を私は喜ぶ、と主は言われる。見よ、時が来る、と主は言われる。その時、私は包皮に割礼を受けた者をことごとく罰する。・・・・割礼の無い諸民族をことこどく罰し、また、心に割礼の無いイスラエルの家を全て罰する。
                                                 【エレミヤ書9章22~25節】


見よ、時が来る!
 今日の世界情勢を見る限り、その背後において悪しき「暗闇」の勢力が、世界の終末を人為的に早めようとしているのではないでしょうか!世界的にも凄まじいスピード、かつ読み解くことの出来ない様相で、世界情勢が進んでいます。非常に緊迫した「流れ」が、終末に向けて進んでいます。それは、人為的な「悪しき力」が強いからです。


 しかし主なる神は、このような人為的な流れに対して、絶対に許されることも、「良し!」とされる方でもありません!むしろイエス様が、「終末の預言」として語られたように、未だ「その時」には至っていません。そうです!主イエス・キリストの「来臨の時」は、世界の隅々に至るまで、神の「福音」が告げ知らされる、その後に始まるのです。


 「今の時」は、多くの人々が霊的に目覚め始める段階です。恐らく「暗闇」の勢力は、「恐怖」で人の心を縛り、世界中を支配しようと目論んでいます。それに対して、真のキリスト者たちが立ち上がり、霊的に覚醒し始める時には、如何なるものをも恐れずに、たとえ迫害が激化しようとも、上からの油注ぎを受けて、霊的戦いに出陣するなど、そのような最終局面(情勢)が到来しています。


 私たちは霊的大収穫の時に、必ず召し出されることになります。「その時」には、私たちが今、様々に抱く「恐れ」の次元にではなく、如何なる「恐れ」をも、まるで虫けらの如きものとして、全く気にしない程の、偉大なる信仰の「油注ぎ」を受けます。そして、私たちは「ゲッセマネの園」に、喜んで出陣したイエス様と同様に、賛美しながら収穫の働き場に出かける、「その時」が近付いています。そうです!「今の時」は私たちが、その為に霊的に訓練されている時です。そして目覚める時が、目前に迫っています。


霊的な「驕り」
 今回の記事には、非常に重要となる「教え」が記されています。それは「世の流れ」や「世の衣」など、様々な世的な「汚れ」があることを意識しながら、今回の御言葉を読み進めますと、実は重要な奥義が、南ユダの「歩み」の中に示されています。実はこのユダ的な「汚れ」とは、悪しきサタンの甘い言葉を通して、私たちの「霊」の中に常に投げかけられていることに、全く気付かない程の「流れ」のことです。このユダ的な「汚れ」は、霊的「驕り」のことで、別の言葉では「自己慢心」と言います。つまり「私はこれで良い!」、また「私は常に神に喜ばれているんだ!」という思い(錯覚)です。


 これらの思いは、実は「自分の声」が発するものですが、あたかも神が啓示する言葉として、肉的に受け留めているため、自分の全ての行動を正当化します。これがユダ的な「汚れ」であり、全ての人々の「霊」の中に、脈々と流れ(竹の根の如くに繁殖し)続けています。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。」(22節)私たちは「知恵」や「力」、そして「富」などを、好んで自分から誇ることはしません。ところが何故、いつの間にか誇ろうとするのでしょうか?それは、ユダ的な「驕り」が生じるからです。


 「驕り」というのは、最初から生じるものではありません。しかし私たちの中にある、「罪」が走り始めますと、神が下さる「恵み」の数々を忘れる訳です。主なる神が与えて下さる、上(天)からの「恵み」が注がれているからこそ、自分は常に生きることが出来る!神の「命の息」があるからこそ、自分は呼吸することが出来る!など、日々の霊的点検を疎かにする、即ち霊的に忘れ始めた頃に、「もしかしたら自分には、元々そのような知恵があるから、神が祝福して下さっている」、また「自分には、このような力が備わっているから、常に勝利の恵みを得ている!」などと、悪魔サタンによって、上手に唆去れる訳です。


 その結果、遂に自分の唇で①「知恵」や、②「力」と③「富」などを自慢し始めます。最初は他人に対してではなく、自分に対して「自分は上手く、このように前進しているのは、やはり自分の中にある、元々自分が持っていた特性だ!自分は優れてい.るのかも知れない。」などと思い始めたとしたら、サタンが「霊」の隅々に渡って、「罪」の根を張り巡らすことになります。


 アダム(エバ)の犯した「罪」は、ただ単に「善悪の木」の実を、サタンに唆されて食べたことではありません!「食べたこと」は、あくまで「結果」です。何にも増して一番に、彼らが「罪」を犯すに至った原因は、主なる神が命じた「ルール」を、サタンの「言葉」の誘導により、自分勝手に解釈し変更したことです。彼らが犯した「罪」の流れは、私たちの「霊」の中にも、サタンが彼らに誘惑した同じ手口をもって、チャンス(隙)があれば浸透し、そしてその支配権を拡大しています。そうです!私たちの中にある「人間的なもの」、「人本的なもの」、そして「あなたが如何に優れているか!」など、霊的な「驕り」を誘発させるべく、サタンは「柔和な羊」のなりをして、優しく近付いて来るのです。


 私たちがサタンの投げかける、「甘い言葉」に聞き入ってしまいますと、このユダ的な三つの「驕り」を、それが既に己の中にあると思って錯覚し、己の「肉の力」から生じる強さ、自分自身で積み上げた「富(財力)」などを、ついつい誇ってしまうのです。私たちのQOL(日常生活)、例えば「生活の質」や「生き様(生き甲斐)」の中に、やはり「情報」や「知恵」、そして健康面の「強さ(体力)」、主要的な「経済力」など、これさえあれば何とかやって行ける!などと、安定感のある「生活力」に頼って、私たちは生きようとします。


 しかし私たちが、最大限に頼みとするものは、上(天)から注がれる「日々の糧(霊的なマナ)」で事足りる!という信仰であり、その為の霊的点検を、日々欠かさなければ、「問題」はありません。このようにユダ敵な「驕り」が、私たちの「霊」の中に、一旦「種」蒔かれ、少しずつ成長し始めますと、竹の根の如くに侵食し、私たちを「罪」の虜とし、霊的に汚れた次元へと貶めます。


「偽りの衣」を脱ぎ捨てよ!
 結論として、第二の重要な奥義について、私たちは正しく知る必要があります。それは、このユダ敵な「驕り」から、私たちは如何にして解放されるか?という点です。その方法は、一つしかありません。「むしろ誇る者は、このことを誇るがよい。目覚めて私を知ることを。」(23節)そうです!主なる神を喜ばす次元を、私たちが熱心に探し求めて、そのことを誇る、つまり賛美するだけで良いのです。主なる神が、もしかしたら私に知恵を授け、日々の健康を与え、数々の祝福の領域を拡大し、「日々の糧」を保証して下さること、これら全ては主なる神が、上(天)から授けて下さる「恵み」に他ならない、それ故に私たちは、主なる神ご自身を、霊的に誇り続けるのです。


 ところが私たちは、日々神(創造主)を賛美し、主なる神を意識することが中々出来ません。毎日の生活の中で、意識の中を占めているものは、恐らくその八割以上が、「自分自身」に関する次元ではないでしょうか。そこで私は、今回皆様方に対して、ある簡単な「霊的習慣化」、即ちこの意識を常に忘れなければ、私たちはユダ的な「驕り」を、良い意味で避けることが出来る、その簡単な方法(手順)を紹介します。


 主なる神は24節以降で、突然「ある行動」に移るよう、ユダの人々に警告しています。つまり霊的な警戒と同時に、ある行動に移る決断をするように!と。神の御言葉(ご命令)には、必ず信仰行動に移る、霊的手順が示されています。その手順は、ある時には厳しい「言い回し」で、語られる場合もあります。しかし、それでも私たちは、安心して聞くことが出来ます。何故なら、聖霊様がおられることを、私たちは知っているからです。そうです!聖霊様こそが、私たちの「助け手」であり、しかもその「助け」は、全面的なものです。


 今の新約の時代は、聖霊様が私たちの霊的「弱さ」や、「呻き」の数々を聞いて下さり、その「弱さ」の中に強く働かれる方です。その聖霊様が示して下さる、ある行動に移る手順は、キーワードとして言えば「一体化」です。神との「一体化」を通して、私たちは主なる神が、如何に私たちのことを常に覚えておられるのか、また私たちの犯す「罪」の数々を、決して責め立てること無く、むしろ常に呻き働かれて、日々執り成して聖めて下さっていることに、ようやく気付くのです。「その時」に、私たちは初めて体験します。聖霊様が私たちの全てを、命を懸けて雛鳥を守る、親鳥の如くに完全に覆って下さり、力強く守って下さることを。


 これが「一体化」です。神ご自身が一方的に、私たちを御手で掴んで下さり、私たちの「霊」を常に聖めるべく、御翼の陰に宿らして下さいます。この神との「一体化」を常に求め続け、「一体化」から得られる、神の「祝福」の次元を、私たちは高らかに賛美すること、これが霊的手順の第一歩です。たとえ如何なる時であっても、「このような時を与えて下さって感謝します!主よ、あなたが今、この私に近付いていて下さることに、心から感謝します。主イエスよ、あなたが私の花婿であることを、本当に嬉しく思います。そして今も、私の霊の中に留まって下さることに感謝します。聖霊様が私の弱さの中に、いつも働いて下さる事に感謝します!」と賛美する、これが神との「一体化」に至る、最初の手順です。


 この霊的手順は、日々為すべき信仰行動です!何故ならユダ的な「驕り」も、日々サタンの働きを通して、竹の根の如くに拡張しているからです。だからこそ、それを避けるためには、神との「一体化」を、日々求めて行く信仰の「飢え渇き」が、とても大事な行動となります。これが聖霊様による、第二の手順「霊的割礼」であり、ユダの人々に命じられた、「心に割礼の無い」状態から贖われる、つまり心の包皮(ユダ的な驕り)を切除することです。つまり、私たちも「偽りの衣」を、日々脱ぎ捨てるべきです。


 そうです!私たちは「偽りの衣」という、古い着物の全てを脱いで、新しく着せられる「聖なる衣」を、聖霊様を通して着せて戴く必要があります。主なる神が喜ばれる「聖なる衣」は、「しみ」や「汚れ」が全く無く、清らかな「香り」が常に漂う、素晴らしい「天の衣」です。


 聖霊様は私たちに対して、「朽ちる種」や「朽ちる体」、そして「朽ちる衣」ではなく、朽ちざる神の「永遠の種(真理の言葉)」に基づいて、私たちの「霊」を回復させ、私たちが日々新たにされる、この「聖なる衣」を着ることによって、主イエス・キリストとの「一体化」に、完全にあずかることが出来るのです。


 この日々洗い聖めて下さる、聖霊様に期待しながら、私たちは「聖なる衣」を、常に身にまとう必要があります。今の時代は、世界中に「偽り(欺瞞)」が満ち溢れています。そしてサタンは、私たちの「霊」を唆します。「あなたは十分にやっていますよ!あなたの着ている衣は、とても素敵ですね。」と。「その時」から私たちは、自己慢心の罠に陥る危険性にありますが、すかさず聖霊様が、「助け」の声を発します。「ちょっと待ちなさい!再度神の御言葉に立ち返り、日々の点検を怠ってはなりません!」と。


 私たちは是非、これらの霊的手順を習慣化し、聖霊様を通して更に聖めて戴きましょう!神と「一体化」を忘れさせるものは、全て「罪」に至らしめるものです。今からでも遅くありません。毎日自分の「霊」を、点検して戴きましょう!そして自分の「歩み」の中に、「自分の為すことばかりを、当て(頼み)にしている所が無いか?」、また「自分の為すことに慢心して、誇っている部分が無いか?」、そして「主なる神との交わりを、ついつい忘れていることが無いか?」などを意識し直すことで、聖霊様は常に私たちに対して、この「聖なる衣」を着せて下さいます。


 そうです!この「神の事実」を、決して忘れないで下さい。あなたはいつも、神と霊的に繋がって(一体化の恵みに)いるのです。この揺ぎ無き「神の事実」に、あなたが常に導かれて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年5月16日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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