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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.29)

         「身代わり」の献げ物




乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子(サムエル)を連れてシロの主の家に上って行った。・・・・人々は雄牛を屠り、その子をエリの元に連れて行った。ハンナは言った。「・・・・私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことを叶えて下さいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
                                        【Ⅰサムエル記1章24~28節】


三つの「信仰行動」
 主なる神が、「Go!」サインを提示される時、実は私たちも「その時」には、神が出される「Go!」サインに対して、「信仰行動」に移る時であるという、真摯な態度(従順)が必要となります。つまり主なる神が、私たちの「祈り」に応える形で、「Go!」サインを提示される時には、必ず私たちの側にも、ある行動に移るように!と、聖霊様が強く促して下さる訳ですが、今回の記事の中にある第一の奥義、それは「神の時」が来ることで、私たちも三つの信仰行動に移るなど、霊的にに備える!という認識が必要となります。


 具体的に、三つの信仰行動とは何なのか?と言えば、先ず第一の信仰行動、それは①自分の手から神の御手に委ねる時である!という点です。神が「Go!」サインを提示される時、自分の祈っていた次元、それを神の「霊的次元」の領域に委ねるなど、神の御手に自分の全てを託す時です。自分の手から、大切なものを手放す時には、非常に苦痛が伴います。特に自分が一番に大事にしていたもの、可愛がっていたもの、これが無ければ自分は生きられないと、様々に思うものがある訳ですが、それを神の管理の下に託し、もはや「自分のもの」ではなくなる!という領域に踏み出すなど、信仰行動に移るに時には非常に葛藤し、躊躇したりもします。しかし「その時」から、私たちは第一の信仰行動に移るべきです。


 続いて第二の信仰行動とは、恐らく一人の母親ハンナも、同じような葛藤があったと思われますが、②今まで呼びかけていた魂の次元、即ち「私の息子サムエル!」から、神の次元である「神に託した神の者!」と、呼び方を変えるという点です。母マリヤも、幼子イエス・キリストの呼び方を、その成長変化に応じて、客観的に受け留めていました。母マリアは決して、「我が子」という肉の次元から息子を叱ったり、教育することはせずに、むしろ幼子イエスの語る言葉の中に、「神の御子」としての霊的領域が、如実に現れる度に、それを大事な記憶(霊的財産)として、心の中に納めていた訳です。


 ですからイエスが大人になった際に、「カナの婚礼」時において、イエスがマリヤに対して「ご婦人の方よ、私とあなたに、今何の関係がありますか!私の時は未だ来ていません!」と、奇妙な「言い回し」をされた訳ですが、母マリヤは霊的に気付きました。「これはイエスが、いよいよ神の霊の次元を、豊かに開かれる時である。」と受け留め、イエス・キリストの「ご命令」に対して、彼女は母親としてではなく、一人の「しもべ」として従いました。


 最後の第三の信仰行動とは、③神に全てを捧げる時、それはサムエルの「命(生涯、人生)」をも神に捧げるという点です。それは父ブラハムが、主なる神から独子イサクを、生贄として捧げるよう命じられた時の、「葛藤」と同様のものです。また御子イエス・キリストが、「十字架」上にて「命」を捧げる際の、父なる神の「御思い」にも通じます。しかし神ご自身も、この最後の信仰行動を、ご自身が為された「その時」として始められた以上は、自分も御子の「命」を、全ての人の「救い」という、偉大なるご計画故に、イエス・キリストの「死」を通して、新しい「救い」の領域が開かれることになったのです。


身代わりの「生贄」
 このように「その時」には、「神の時」が「Go!」サインとして提示される訳ですが、私たちも以上の三つの信仰行動に移る、霊的な「備え」が必要となります。母ハンナは、いよいよ「その時」が来たということで、三歳に成長した幼子サムエルを、神殿に携えて行くことになります。彼女はその際、不思議な行動を取っています。つまり、三歳の雄牛も共に携えて行きます。今回の記事にある第二の奥義、それはサムエルの「命」に代わるものとして、母ハンナが選んだ生贄、それが「三歳の雄牛」であったという点です。


 彼女は、我が子サムエルを殺す(屠る)訳には行きません。サムエルを神殿に奉納するということは、神の領域にサムエルの全てを捧げる訳ですから、その証明(表明)として母ハンナが、夫と共に熟慮した結果、神殿に携えて行くと決断したもの、それが三歳の雄牛でした。これはある面、イエス・キリストの「贖い」の雛形です。28節には、母ハンナの表明として「この子は生涯、主に委ねられた者です。」と告白しました。この彼女の表明を詳訳しますと、「サムエルの命の続く限り、サムエルを神のものとして、神の主権のもとに委ねます!」となります。


 サムエルの生涯を捧げる、その身代わりとして捧げられたもの、それが三歳の雄牛の「命」でした。ここに重要な奥義が示されています。母ハンナの表明の中に、「委ねる」という言葉がありますが、これは「献納する」という意味があり、具体的には二つの行動を指しています。先ず何かを「献げる」ことは、①自分の手から、相手方の手に「手渡す」ことです。そして次に②相手方の「所有物」として納めることです。つまり自分の持っていた「所有権」を、相手方に対して放棄する、これが「委ねる」ということです。


 そうです!「委ねる」とは、全ての「権限」と「権利」、また所有している「能力」等を、信頼する相手側の「手(領域)」に移行するべく、正式な「手続き」として契約を交わすことです。ですから「サムエル」の命に代わるものとして、三歳の雄牛の「命」を献納した、母ハンナの信仰行動は、ある面神との「契約」における、最終手続きと言えます。


 それ故に母ハンナが、自分の母性感情を優先して、例えば「否!今は神殿に捧げますが、私の息子が大きく成長した時には、本人の意思を尊重して、神殿から出て行く道も、その選択肢として残します!」などと、肉の次元から判断する限り、つまり「心の面」において、自分の手元に「私の息子」を置く(留める)限り、「神のサムエル」という、彼の新たな人生がスタートしません。


全てを神に委ねる時、道が開かれる!
 このように「私のサムエル」の次元を全て、「神のサムエル」という霊的次元へと、信仰をもって委ねる時、それは神の「所有」、神の「権利」、神の「御力」に、息子サムエルの全てを託し、神の御手に全て放棄(移行)します!という、ハンナの最終的な信仰行動が、今回彼女が発した表面に見事に現れています。


 その結果として彼ら夫婦は、神殿において「主を礼拝した。」(28節)のです。つまり「サムエル」が、神に献納する「唯一の献げもの」として、父アブラハムが独子イサクを、「生贄」として神に捧げた時と同様に、彼らは最後の重要な「手続き」を、礼拝という形で示しました。これは非常に、勇気を要する一大決心です。特に私たちの住む現実世界においては、自分自身で積み上げたものが、いくらか多々ある訳です。それは「私の財産」、「私の家族」、「私の経歴(実績)」など、私的なもののことです。


 しかし「神の次元」、「神の時」が訪れた時には、主なる神はそれらの全てを、捧げるように!とは命じませんが、あなた自身が大事にしているもの、それが故に神との距離が遠くなるなど、霊的に「隔ての壁」となっている場合、神は決して「良し!」とはされずに、むしろそれら全てを、神に捧げ尽くす(委ねる)ことで、神の豊かな次元が切り開かれます!


 ですから私たちは、ハンナの信仰行動に見倣いながら、今後も更に前進して行く必要があります。「自分の手から神の御手に委ねる!」とは、「私的な次元」を「神の次元」に明け渡し、霊的に「全て」を委ねることを表明しながら、あなた自身を生ける「生贄」として、神の御前に捧げ尽くす時に、「神のもの」であるあなた自身が、神に栄光を表す「神の器」としての、新しい人生が約束されているのです。


 私たちにも「その時」は必ず来ます!どうかあなたが「その時」を、決して拒むことがありませんように!あなたの身代わりとなって、十字架上で命を捧げられた、主イエス・キリストが、あなたを常に導いて下さる限り、あなたは「神のもの」として、「全て」を委ねることが出来るからです。あなたの信仰の道のりが、着実に「神の道」を歩むべく、聖霊様を通して確立されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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