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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.37)

               死に臨みて「何」を望むか?




王は言った。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」エステルは答えた。「もし王のお心に適いますなら、今日私は酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出まし下さい。」
                                                               【エステル記5章3~4節】


私たちの「願い」は・・・・
 自分の「命」が危うい、そのような「命の危険」が迫る中において、私たちは「何」を望みながら生きるべきでしょうか?幸いにも私たちキリスト者は、世界的「コロナ禍」の中にあっても、神の豊かな「守り」を戴いて、日々生きて行くことができ、そして神の「恵み」がある故に、この場(エクレシア)に集い、神に礼拝を捧げることが出来ます。


 私たちは普段の生活の中で、様々な「願い(望み)」をもって、日々暮らしている訳であり、「衣・食・住」という基本的QOLを望むことは、ごく自然な「願い」ですが、別の意味で私たちは霊的生物ですから、霊的な「望み」、即ち主なる神を純粋に求める、霊的な「飢え渇き」が、最も重要な「願い」となるべきです。特に聖霊様は、私たちが「何」を求めて生きているか?について、非常なる関心をもって働かれます。


 この時のエステルは、三日に渡る「断食」を終えて、クセルクセス王から差し伸べられた、王の「金の笏」に触れる機会を得ました。彼女が「金の笏」に触れる行為が、次なる王の行動を促す重要なサイン、つまり「王のはした女エステルは、今ここにおります。どうぞ御心のままに、この私にお語り下さい!」という、彼女の「望み」を表しています。


 その結果クセルクセス王は、遂に言葉を発します。「王妃エステルよ!」という、彼女に対する麗しい「呼びかけ」をもって。この表現は、単に彼女の「地位」を呼称したものではなく、厳密には「私の最愛の妻であり、私と同位の立場にある王妃エステルよ!」という、王の厳粛な思いで語った「呼びかけ」です。


 王は続いて彼女に、「どうしたのか?」と、優しく問いかけます。実は聖書の中には、これと同じ「問いかけ」が、多く見受けられます。特にイエス・キリストの場合は、「病める者」や「悩み苦しむ者」、「苦難の中にある者」、「虐げに遭う者」などに対して、常に「どうしたのか?」と、先ずは優しく尋ねられています。


「死」に臨みてエステルは・・・・
 「命がけの行動」に打って出たエステルにとって、王様のこの「問いかけ」は、「救い」の言葉となります。つまり彼女の「願い」を伸べてもよい!という、重要な「許可」を意味するからです。すると王様は、付け足すかのように「この国の半分なりとも、あなたに差し上げる程、私はあなたを信用しているから、何でも願いを言いなさい!」と、彼女の「言葉(願い)」を促しました。


 僅か二節に過ぎない今回の記事には、私たちが学ぶべき重要ポイントが示されています。「今」は危機の時と言える、非常に重要な時代の中にあって、聖霊様は私たちに対しても、「あなたは何を願って望みますか?」と、霊的に盛んに促しておられます。


 今の世界的「コロナ禍」の大波により、私たちの生活様式が一変した訳ですが、その中で多くの人が「感染病」自体よりも、それによって被った、経済的打撃を心配する余りに、「経済困難」からの「救い」を、必死に望んでいるのではないでしょうか!これは「(このままでは)飢え死にするかも・・・・」という「死」の恐怖です。


 モルデカイやエステルが被った「災い」は、決して「食べて行くことが困難」という、今の世界的緊急事態とは異なっていますが、「死(民族絶滅)」の恐怖という点では、差し迫った非常事態にあると言えます。その中でエステルは、自分が「王妃」として、絶大なる「権力」を用いて、この「危機」を(一時的に)脱する手立てが、一応自分にはある!と分かっていても、「悪しき勢力」の陰謀に関しては、王に訴え出る「確かな証拠」が無い!ことも分かっていました。


 エステルは、そのような「死」に臨みて、クレルクセス王に対して、「何」を望みながら、願い出たのでしょうか?実は彼女は、王の「御心」を慮(おもんばか)って、ある「願い(言葉)」を用意していました。その鍵となる事件が、前王妃ワシュティによる、王の宴会を拒んで降格処分を受けたことでした。


 エステルは、この事件の最大の要因が、王が王妃に対して最大に望む「願い」が、「王妃と共に宴会(酒宴)を分かち合う」ことにある故、逆に王妃の立場としては、王の為に「酒宴の時」を用意することが、王の最大の「喜び」の贈り物となる!と、神の「知恵」により分析しました。


 さて、私たちキリストの花嫁が、今の「この時」に求めている次元は何でしょうか?イエス・キリストの場合は「ゲッセマネの園」にて、つまり目前に迫る「死」に臨みて、一体「何」を望まれたのでしょうか?当初は、「死」の恐怖に押しつぶされそうになりながら、「この杯(十字架の死)だけは飲めませんから、他の杯(方法)はありませんか?」と、父なる神に訴えていましたが、最終的には「あなたの杯(父の願い)を受け取ります!」と告白しました。


 私たちが目に見える「現実」に、心を奪われ支配されますと、「死」に臨むような事態に陥った時、その「願い」の殆どは、世的なものとなります。そして「死」が怖いですから、世の権威等に跪くことになります。しかしイエス・キリスト、そしてステパノやペテロたちは、「死」に臨んでも尚、神の「御心」のみを願い続けることが出来ました。


 エステルも同様に、民族の「死(全滅)」に臨みて、自分の「死」を恐れずに、王の御心に適う「願い」を、遂に告白しました。エステルが実際に返答した「願い」は、「王様!私はあなた様のために、酒宴の時を催したいと心から望んでおります。ですからハマン様もお連れになり、いらして下さい!」と。


 クセルクセス王が一番に求めている次元が、「祝宴の時」であると教え示した聖霊様による、機転(知恵の言葉)の働きは、この時からエステルに対して、想像を絶する「救い」の道を展開します。クセルクセス王が以前に、半年に渡る「祝宴の時」を催したこと、その真意を十分に汲み取っていたエステルは、王様が「祝宴」そのものを、最高の時として喜び、何度催しても「飽きない方である!」こと、この点に「勝機(神の救い)あり!」と確信していました。


 では王様(主なる神の雛形)は、何に対して「飽きない」のでしょうか?それは王妃(キリストの花嫁)との「親しい交わり」です。と言うことは、エステル自身も王様の「御心」を喜ばすことに、最大限の力を振り絞ることに、その力を発揮した訳です。この王と王妃の、麗しい「計画」の流れに、油断する(気付かない程、霊的に騙される)ことになるのが、ハマンの最大の失敗でした。そうです!聖霊様は、「敵」を欺くほどの「知恵」に秀でた方です。


 王様の為に命の限りを尽くして、「祝宴の時」を準備したエステルの姿勢は、今に生きる私たちキリスト者にとって、如何なる意味を持つのでしょうか?それは大激動の最中にあっても、私たちが一番に求めている次元が、一体如何なるものであるべきか?を、聖霊様が常に教え示していると言えます。勿論「衣・食・住」の為に、私たちが努力して求めることは、当然の基本的QOLの次元ですが、霊的に一番肝心なことである、花婿(イエス・キリスト)との、麗しい「親しい交わり」の時を、姉マルタの行動の如くに、ないがしろにしているのであれば、それは王(主なる神)の「御心」を、逆に悲しませることになります。


 そうです!私たちキリストの花嫁が、今の「この時」にあっても、生かされている理由は、王(主なる神)の「御心」を、多くの人々に告げ知らせ、王の「祝宴の時」、即ち神の永遠の「救いの時」に、彼らを招待するためです!イエス・キリストとの「親しい交わり」が、この世界的に呪われた地上に、もっと麗しい「祝宴の形」として、まさに「あなたの生き様」を通して、神の「御心」を喜ばせるべく現れるのです!


 まさに私たちキリストの花嫁は、神の「救い」を現わす器として、非常に重要な「神の時代(フィナーレの時)」を生きています!そういう意味で、私たちは更に、自分の「命」の限りを尽くして、神の「御国」と神の「義」を、激しく求めて参りましょう!


 あなたがエステルの如くに、神の「御心」のみを、自分の最大限の「願い」として発しながら、イエス・キリストとの「親しい交わり」を、激しく恋焦がれる「賢い乙女」として、更に美しく整えられて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年10月18日のメッセ-ジ)


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