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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.36)

                三日目に開かれた「救いの道」




それから三日目のことである。エステルは王妃の衣装を着け、王宮の内庭に入り、王宮に向かって立った。王は王宮の中で王宮の入口に向かって王座に座っていた。王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にしていた金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。
                                                                         【エステル記5章1~2節】


「三日目」に開かれた・・・・
 今回の記事に現わされるシーンは、恋愛映画の中でよく演出される、それは美しいシーンと言えます。美しい王妃エステル、そして威厳のあるクレルクセス王、この二人の顔がピタリと見合された瞬間、その不思議なるタイミングの中に、主なる神の「救いの道」が開かれることになります。


 記事としては、僅か二節の文章ですが、王宮の内庭の「静寂」の中で、じっと「その時」を待ち立ち続けることは、如何に聖霊なる神が、エステルの信仰を「神の時」の中で、じっくりと完成させているかが分かります。つまり「三日」に渡る、生死を賭けた断食の祈りにより、彼女の「信仰」ばかりでなく、彼女が今までに得たことの無い、際立った麗しい「美」の品性と、美しい「装い(たたずまい)」の中に、主なる神の「救い」のご計画が、まさしく現れていたのです。


 そうです!彼女が捧げた「三日」の後に、神の「救いの道」が開かれたこと、これが今回の奥儀の重要ポイントです。神の御子、イエス・キリストも、不当な裁判の後、約「三日」に渡る、十字架の「苦しみ」を経て、「死(滅び)」の領域から脱出し、「永遠の命」に至る「救いの道」を開かれたのです。


 エステルの「信仰」の闘いは、「三日目」に遂に、始動することになります。そして彼女の信仰は、ユダヤ人全ての「信仰」を代表していますので、彼女の王に対する信仰行動が、ユダヤ民族の「救い」を開く、言わば「鍵」と言えるのではないでしょうか。しかし、王宮の内庭に入ること自体は、王の「御心」に沿わない場合は、即「死」を意味する行動となります。


「生死」を賭けたエステルの行動
 さて、実際の彼女の信仰行動ですが、先ず驚くべきことは、①「三日」に渡る断食の後ということで、彼女の体力は脱水症状に近い、消耗し切った状態であるにも関わらず、最上の王妃の衣装を着て王宮に向かいました。第二に、如何なる女官も付き添せずに、彼女は②一人で内庭(死の領域)に進み行きました。その際、目を閉じて静かに祈ります。「主なる神よ、私は自分の命の全てを捧げます。私の命は、あなたの御手の中にあります。あなたの救いの計画を、どうぞ今!現わして下さいますように。」と。そして遂に、③「王の間」の入口に向かって、立ち尽くしたのです。


 実は彼女が実際に為した、この三つの信仰行動には、イエス・キリストの処刑後、自分の「死」を恐れずに、愛する師の墓場に出向いた、マグダラヤのマリアの信仰行動の予型が描かれています。その彼女と、復活後のイエス・キリストとの出会いは、まさしく今回のエステルの取った、大胆な信仰行動による、王との謁見(出会い)と、非常に似通っていることが分かります。彼女は、①イエス・キリストの弟子と分かる、いつも質素な服装で墓場に出かけ、しかもそれは墓守をするローマ兵を恐れずに、②たった一人で「墓場(死の領域)」に進み、そして③泣きながら墓場の前で立ち尽くしたのです。


王の差し伸べた「金の笏」
 では、待っている側のクセルクセス王は、王妃の大胆な行動を予想していませんので、通常の業務(宦官とのやり取り)を終えた後、王座にて静かに物思いにふけっていました。すると、ふと何かの物音に気付き、王間の入口に誰がが立っている、そんなシルエットだけが、垂れ幕(カーテン)の先に見えました。王は、そのシルエットから、唯一確認(視認)できる足元を見た瞬間、その人物が「あ!王妃ではないか」と分かり、思わず驚愕します。「私が呼ばない限り、ここには来てはいけないことを、王妃は知っているはずだ。なのに何故?」と。


 暫くして、風が吹いてカーテン越しから見える、エステルの「顔」を見た時、クセルクセス王は「え?今までに見たことが無い程、彼女の今は美しいではないか!」と思い、思わず声をかけたかったのですが、王の権威を示す「金の笏」を、相手に差し伸べない限り、自ら語ることも、また相手も答えることが出来ないことを、王は当然の如くに知っていました。


 王だけが持つ、この「金の笏(セプター)」とは、実は「スタッフ(杖)」と同じ「働き(務め)」を有しています。私たちの信頼する真の羊飼い、イエス・キリストの持つ「杖」は、私たち弱き子羊を常に守り導き、一人一人の個性に合わせて、確実に覚えていて下さる、貴い「働き」を意味しているのに対し、王の「金の笏」の働きは、王の「御心」と、相手(今回はエステル)方の「思い」が、一致している(同じ方向に向いている)時に初めて、その「金の笏」を差し伸べることで、王の居る領域に、立ち入っても構わない!という、親しい「交わり(会話を自由に交わすこと)」の許可を与えるという、非常に素晴らしい「働き」を為します。


 クセルクセス王は、王妃エステルの「顔」を見た瞬間、満悦の笑みを浮かべて、持っていた「金の笏」を、彼女に対して差し伸べました。すると王妃は、膝を屈めて「金の笏」にそっと手を触れます。彼女の、その触れた行為を確認した王は、彼女に対して「Come in!」と、遂に声を発し促しました。


 私たちキリスト者は、今の「災い(コロナ禍)」から、確実に守り導かれていることを、信仰をもって確認できている訳ですが、日々の「祈り」を為す中で、ふと「先行き」が心配になったり、これからどうなるのか?などと、主なる神の「御心」が分からなくなることがあります。その時に「あなたの金の笏を、この私にも差し伸べて下さい!」と、必死に請い願うこともあるでしょう。


 しかし覚えて下さい!主なる神は、キリストの花嫁に対して、ずっとそのままにしておく方ではありません。真の羊飼いイエス・キリストを通して、あなたにも「杖(導きのシンボル)」をもって、正しく生きる「方向性」を、必ず指し示して下さいます。イエス・キリストの「杖」がある限り、断崖から転げ落ちること無く、常にイエス・キリストの懐に抱かれる、素晴らしい「導き」と「守り」を得るのです。


 いよいよ「生死」を賭けた、最後の戦いが始まります。私たちの「先」を行かれ、「勝利」を勝ち取って下さる、イエス・キリストが「杖」をもって、最後の戦いに終止符を打たれる「その時」は、もう目の前に迫っています。「私の命を賭けて、あなたと共に戦いたく存じます。ですからエステルの如くに、この私を祈りの戦士として、どうか力強く整え鍛えて下さい!」と、イエス・キリストと共に「命」を賭ける、これが「今」に生きる、私たちの霊的目標ではないでしょうか!


 今の「この時」に、どうかあなたが、更に神との「親しい交わり」に入り、イエス・キリストが常に差し伸べて下さる、救いの「杖」に触れることで、あなたの信仰の「歩み」が、一歩一歩着実に守られ、そして練り聖めらて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年10月11日のメッセ-ジ)


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