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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.28)

                      御目に適うエクレシア




その後、怒りの治まったクセルクセス王は、ワシュティとその振る舞い、彼女に下した決定を口にするようになった。王に仕える侍従たちは言った。「王の為に美しい乙女を探させては如何でしょうか。・・・・美しい乙女を・・・・スサの後宮に集め・・・・容姿を美しくさせるのです。御目に適う娘がいれば、ワシュティに代わる王妃となさっては如何でしょうか。」これは王の意に適い、王はそうすることにした。
                                                           【エステル記2章1~4節】


王の「御思い」を正しく知る
 今回の記事には何も、詳細に記されていないことですが、王妃ワシュティは「その後」、如何なる処罰を下されたのでしょうか?恐らく「王妃(正室)」の立場から罷免され、元の身分(一貴族)に降格されたことでしょう。しかし王宮に出入りして、王様に自由に謁見することは、二度と許されませんでした。


 では、クセルクセス王の場合は「その後」、如何なる「思い」で過ごしていたのでしょうか?しかし私たちは、王のその時の「心境」を、未だ「怒り」の延長戦上にある!などと、単純に判断してはなりません。むしろ父なる神の「雛形」である、クセルクセス王の「心の叫び(渇き)」が、如何なるものであるのかを、聖霊様を通して正しく知る必要があります。


 それ故に、この時の王の「心」の状態を知るには、やはり聖書の記述から探る必要があります。今回の記事(英語訳)には「~を思い(慕い)続ける(keep thinking about~)」(1節)という、実に興味深い王の「心情」が描かれています。そうです!クセルクセス王は、王妃ワシュティのことを、「怒り」の余りに忘れたり、彼女の「反逆行為」を思い出しては憤慨するなどの、肉なる「怒り」の次元にはなく、むしろ彼女の為した行為の理由を、王の「良心」から理解しようと、思い悩み続けていたのです。


 この王の「思い(慕い)続ける」から示される、重要ポイントは主なる神が永遠に恋い慕う対象とは、一体如何なる者であるのか?という点です。つまり神がご自分の「永遠の愛」を、何に対して常に注いでおられるのか?について、私たちは焦点を当てる必要があります。その為には創造主なる神が、最初に「御怒り」を発した際の、その怒りの霊的「本質」を知るべきです。


主なる神の「共に」の働き
 主なる神が最初に「怒り」を表明したのは、私たちの発する「怒り」とは、本質的にも姿勢(態度)としても異なります。どちらかと言えば「怒り」ではなく、「哀しみ(憂い)」に近い感情です。「あー、何とあなた方(アダムとエバ)は、愚かにもサタンの言葉に唆され、善悪の木の実を食べてしまったとは・・・・。もう一緒に過ごすことが出来ないではないか!」と。


 主なる神が「創造主」として、最初の人(アダム)を産み出した理由は、一体如何なる「思い」からだったのでしょうか?それは「人と共に事(ご計画)を為したい!」という思いです。主なる神の「ご計画」は、サタンによって邪魔されましたが、主なる神は決して諦めませんでした。「エデンの園」から、彼らを地上に遣わした際の「思い」として、神はアダムに対して「私は常に、あなた方と共に居る!」と、わざわざ念を押すかの如くに、彼らの「霊」に刻みました。


 主なる神の、この「共に」という霊的働きを、私たちが常に「知る(覚えておく)」ことで、如何なる者も私たちを、神の「永遠の愛」から、また神との「真実の関係」から引き離すことは出来ません!そうです!クセルクセス王にとって、王妃ワシュティの存在は、単なる王の「伴侶」としてのシンボルではなく、「共に王国の繁栄を造り上げ、共にその祝福を分かち合いたい!」と望む、重要なパートナーでした。しかし彼女は、王の寛大な「御心(ご計画)」を、その時に忘れていたのです。これがアダム(エバ)と同様の、最大の霊的「ミス」です。


 余りにも王妃ワシュティの存在を、まるで失恋したかの如くに、思い悩み続ける王の状態を慮って、侍従たちが「王様、そろそろ新しい王妃を、お選びになっては如何でしょうか?」と進言しました。それに対して王は「うーん、そうするしかあるまいな・・・・。良きに計らえ!」と、微かな声で答えました。この王の決断が、次なる「真の王妃(王の花嫁)」の、「選び(召し)の時」へと進むことになります。


 では今の「コロナ禍」という、世界的「災い(苦難)」の時に当たり、真の「キリストの花嫁」とは、如何なる存在であり、主なる神が御子イエス・キリストの、永遠のパートナーとして、直々に選び召し出そうとしていること、この霊的方向性をキャッチすることで、私たちキリスト者が「今の時」に、如何なる「生き方」で信仰が試されるのか?これが問われているのです!


御目に適う「真の花嫁」
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
                                                                   【ローマ書8章19節】


 パウロの記した、この有名な一節の中にある「神の子たち」とは、原語訳的には「神によって選び召しだされた者たち」、つまり「エクレシア」という集合体を指しています。と言うことは、地上にある全ての被造物も、次のように呻き始め叫んでいるのです。「創造主なる神よ、今まさにこの時、真の王妃(キリストの花嫁)なる存在を、この地に出現せしめるべく、早く呼び出して下さい!そうしなければ、私たちが主なる神の贖いにあずかれません!」と。


 クセルクセス王に仕える侍従たちが、王に対して進言した言葉の中に、実は真のエクレシア(王の花嫁)に関する、素晴らしい奥儀が述べられています。第一に①「美しい乙女」たちを選ぶこと。第二に彼女たちの「容姿」を②更に「美しく整える」べく、一定期間の修養(調整)の時を設けること。そして最終的には、その中から③王自らが、御目に適う「王妃」を選定すること、この三つのプロセスを経ることでした。


 この三つのプロセスの中に、今の私たちキリスト者が、どうある(生きる)べきかが示されています。①乙女の持つべき「美しさ」とは、キリスト者が備えるべき霊的品性(聖さ)のことです。今の「コロナ禍」の時には、尚更この霊的品性が求められます。そうです!私たちは如何なる「災い」にも、決してうろたえること無く、「今に働かれる神の時を静かに見守り、御前にて神の御心のみを求める」のです。


 第二の②「容姿を美しく整えるべく一定期間を設ける」とは、主なる神の「御心」に適う、真のエクレシアとして、五体から霊に至るまで自分の「全て」が、神の生きた「生贄(献げ物)」になっているのかを、常に(四六時中)気にかける生き方のことです。それは、イエス・キリストの唇から流れる、麗しい「命の言葉」だけを、激しく追い求めて御前に座し続けた、妹マリヤの如き「真の礼拝者」の生き方です。


 第三に③「王自らが選定する、御目に適う王妃」とは、真の花婿なるイエス・キリストが、御国の「婚礼の時」として盛大に祝うべく、「今の時」に直接選び召し出す、「真のエクレシア」です!それは文字通り、イエス・キリストの花嫁と呼ばれる、御国の「王妃」という存在です。と言うことは、イエス・キリストの最大の「願い」が、この場(御国)に相応しいパートナーに望む「御思い」が、「共に婚礼の時を迎え、共に祝い、共に御国の完成を喜ぶ」こと!これに尽きます。


 「真の花嫁」として召し出される者とは、冬の枯れた谷にあっても、尚「命の水」の源流を求めて、険しき断崖を登り続ける、一頭の鹿の如くに、花婿なる方の「来臨の時」のみを、激しく恋い焦がれる「賢い乙女」です!そうです!私たちの愛する「真の花婿」は、私たちを「真の花嫁」として選び召し出し、「御国の婚礼」の場に相応しい者として、私たちを出迎えるべく「来臨」されるのです。


 私たちは「共にあずかる者」として、フィナーレとも言うべき、御国の「恵みの座」に導かれて参りましょう!あなたが大変な「災い」の中にあっても、いよいよ「御国の時」が来らんとする、霊的なフィナーレの時を期待して、「花婿なるイエス・キリストよ、今私の元に迎えに来て下さい!」と、激しく叫び求め続ける者でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年8月9日のメッセ-ジ)


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