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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.27)

            神の「召集の時」の機会を逃すな!




その頃、クセルクセス王は・・・・スサ(王都)で王位に就き、その治世の第三年に、酒宴を催し・・・・百八十日の長期に渡って・・・・国が富み栄え、その威力がどれ程貴く輝かしいものであるかを示した。それが終わると、王は七日間、酒宴を王宮の庭園で催し・・・・スサに住む者を皆、身分の上下を問わず招いた。・・・・王妃ワシュティもクセルクセス王の宮殿で女の為の酒宴を催していた。七日目のことである。・・・・ぶどう酒で上機嫌になったクセルクセス王は・・・・王妃ワシュティを召し出そうとした。・・・・ところが、王妃ワシュティは・・・・王の命令を拒み、来ようとしなかった。
                                                    【エステル記1章2~12節】


「今の時」を正しく知る
 今回の記事から「新しい章」に入りますが、主なる神がいよいよ、私たちキリスト者に対して、「真の花嫁」を選び召し出すべく、その「招集の時」の機会を、聖霊様と共に伺っている、そのような非常に「シビアな時代」に入っているのではないでしょうか!


 そうです!「今の時」は私たちにとって、非常に喜ばしい「恵みの時」と言えます。現実は、目まぐるしい激流の如き、世界的「災い」の最中にあります。しかし主なる神が、全ての「災い(疫病)」を癒す方!と信じる、霊的イスラエルの民(今のキリスト者の群れ)は、主イエス・キリストによる、十字架の「贖い」の犠牲から流れ出る、貴い「血潮」の御力を仰ぎながら、いつもと変わらずに、高らかに賛美して前進しています。


 さて私たちキリスト者は、この「恵みの時」に当たり、如何なる「生き方」をもって、今後歩んで行ったらよいのでしょうか?その霊的指南書として、実は今回から学ぶ「エステル記」には、詳細に述べられています。今回の記事から示される、非常に重要となるポイントは、これから地上で起こる事と反比例して、「逆の流れ」で神の国が、いよいよ「その時」に向けて、霊的な「準備段階」に入っていることを、私たちが正しく「知る(知らされる)」必要がある!という点です。


 ご存じのように、今の地上世界は激しい「災い」の流れが、各地で「負の連鎖」を繰り返しています。しかし私たちキリスト者は、そのような目に見える「事実(現実)」にではなく、見えざる「霊」の次元にある「神の事実」、即ち「神の国」がいよいよ激しく、この地上において「最後の時」を迎えるべく、ある「準備段階」に入っている!ことを、「霊の眼」をもって確実に察知する必要があります。その「準備」とは、御国における「婚礼の時」です。


 この「御国の婚礼」は、今までに経験したことの無い、最大の「イベント」となる故に、「神の国」においては、せわしない程に「準備」が進められていますが、実は地上においても、ある「準備」が始まっています。それは「婚礼の時」に向けての、「招待状」の発送です。そうです!私たちは、いよいよ「真の花嫁」として、「真の花婿」なる方(麗しの君)が迎えに来られる!など、私たちの「霊」が呻き始めたとしたら、それが聖霊様の「招集の時」、即ち「招待状」が届いた証拠です。


「招く」と「拒む」の対立
 「エステル記」に登場するクセルクセス王は、①父なる神(花婿の父)の御心(ご計画)、そして②真の花婿なる御子、イエス・キリストの「真実の愛」という、二つの霊的雛形を示しています。そしてエステルの養育者として登場する、従弟のモルデカイの行動は、聖霊様の「働き」と霊的「促し」の雛形です。では主役のエステルの場合は、イスラエル民族の「救い」の先駆者として、選び召し出された「器」でもありますが、実は「今の時」にあっては、霊的な「真の花嫁」である、エクレシア(キリストを信じる民)の「働き(務め)」の雛形です。


 では今回の記事のみに登場する、王の正室(王妃)であるワシュティの行動は、霊的に如何なることを示唆しているのか?これが今回の奥儀となる重要ポイントです。ところで「(まねく)」という漢字と、「(こばむ)」という漢字に共通する点は、共に「てへん」ですから、「手」の動き如何に、その「意味合い」があります。


 先ず「招(まねく)」の「手」の動きは、「(両手の)掌を自分の方に向けて、折りたたむように引き寄せる」動作を為します。それに対して「(こばむ)」の手の動きは、「片方の掌を決して相手に向けることなく、左右の方向に素早く動かす」か、「両手をクロスさせて×マークのサインを表す」動作を取ります。


 ある時クセルクセス王は、自国の最大の繁栄を祝って、半年間に渡って盛大な「祝宴」を催しました。そして最後の七日間は、王都の住民を身分を問わずに全員招いて、フィナーレとも言うべき、「最大のイベント」の時を計画していました。この七日間の「祝宴」に関しては、王の寛大な招待を「拒む」者は、当然のことながら誰一人いませんでした。そうです!皆が喜んで王の「お招き」を受け取り、その宴会の場に入場したのです。


 しかし「この時」、例外の事態が起こりました。王は「祝宴」の最後の仕上げとし、実は自分が一番に熱情の愛を注ぐ、王妃も「祝宴」に列席させることで、王及び王妃が一体化した形で、国民に対して「この時を共に喜び合う」姿勢を示す、これが王の「祝宴」のフィナーレとして、最大の「願い」をもって意図していたことです。


 ところが祝宴の「フィナーレ」の直前になって、王妃が突然この最大のイベントを、何の理由もなくドタキャンしたのです。即ち、王妃だけが王の招待を「拒む」態度を取ったのです。その理由は分かりませんが、恐らく「自分も自分のやり方で、自分の威光(偉大なる力)を示したい!」と思ったからではないかと推測します。


御国の「祝宴(大宴会)」に向けて・・・・
 半年間(180日間)に渡る「祝宴」は、神の国の「婚礼の時」の雛形です。つまり花婿なるイエス・キリストと、真の「賢い花嫁」であるエクレシアとの、霊的な「一体化」の時を、父なる神が盛大に祝う時です!では「その時」に、王の「祝宴」に入ることを拒んだ、ワシュティの如き者とは、愚かな花嫁(乙女)の群れ、即ち大事なこと(花婿との一体化)を忘れて、自らの事ばかりに気が取られたり、自らの「利益」や「栄光」のみを求めて、最終的に神の「御心」を拒む者のことです。


・・・・イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人々を招き、宴会の時刻になったので、僕(しもべ)を送り、招いておいた人々に、『・・・・おいで下さい』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので・・・・失礼させて下さい』と言った。他の人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので・・・・失礼させて下さい』と言った。又別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことが出来ません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って僕に言った。『急いで・・・・出て行き・・・・貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。・・・・無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』」
                                                 【ルカ福音書14章15~24節】


 今回の記事と、イエス・キリストの「喩え」の内容に関して、「祝宴」に至る時系列は異なっていますが、主人が意図したイベントの目的、及び招待に関する様々なプロセスが、余りにも似通っています。王妃ワシュティ、そして主人の「招待」を拒んだ三人の者に共通すること、それは本人たちの明らかなる意思の表明、つまり「(自分のことを優先する余り)宴会に行きたくない!」という点です。これはサタンの持つ、創造主に対する「反意(反逆)」と同様のものです。


 実は霊的な次元においては、まさに「今の時」が、今回の記事と同様の「流れ」で進んでいます。私たちキリスト者は、今の「現実(三次元的事実)」を見て判断するのではなく、その裏にある「神の事実」を霊の眼、そして霊の耳をもって確実に捉えるのであれば、ある「音(Calling)」が聞こえてきます。そうです!神の国からの「招待」の呼び鈴です。


 神の国おいて、主なる神の「大宴会の時」の準備が進む中、私たちは如何なる行動に移るべきでしょうか?真っ先に自ら「喜んで行きます!」と表明することは当然ですが、それと同時に忘れてならないことは、主なる神の意図する最大の「願い」が、「全ての民と共に喜び祝う!」という点です。


 私たちは、主なる神の「召集の時」という、重要な霊的「機会」を逃してはなりません!ならば私たにちは、この神が発した「招待」の福音(知らせ)を、多くの人々に届ける「使命(聖なる務め)」があります。今は「恵みの時」です。「恵みの時」が終われば、いよいよ霊的「大飢饉」の時として、あらゆる神の「招き」が閉ざされるからです。


 父なる神の「御心」は①「条件」、②「代価」、③「惜しみく」、この素晴らしい「三つの無」をもって、求める者に対して「永遠の喜び」を分かち与える、この重要な福音の「神髄」を是非忘れないで下さい。そして私たちは、「幼子」の如くに素直な心で、父なる神の「御心」を受け取りましょう!「信仰」とは、素直に信じて、喜んで「神の事実」を受け取ることです。


 今の「コロナ禍」にあっても、主なる神の「守り」の中で生かされている!という、素晴らしい「神の事実」のみを見て、あなたが高らかに神の「御業」を感謝しながら、主なる神の「招待状」を多くの人々に手渡す、「福音の使者」としての働き(務め)が、聖霊様の「導き」を通して更に拡大しますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年8月2日のメッセ-ジ)


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