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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.24)

               全てを水泡に帰す愚かな信仰




主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し・・・・レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水が無かった。民がモーセと争い・・・・モーセに向かって不平を述べた。・・・・主はモーセに言われた。「・・・・見よ、私はホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことが出来る。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でその通りにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
                                                              【出エジプト記17章1~7節】


自分本位の「愚かな判断」
 今まで受けてきた様々な神の「恵み」を忘れ、例えば「苦難の時」に体験した、神の麗しい「臨在」と「奇跡」等が、既に用意されていたにも関わらず、この時のイスラエルの民と同様に、私たちは「こんな経験をするくらいだったら、まだ過去の苦しみの方がましだ!」などと、自分の置かれた「今の状況」を、自分の判断で神の為さる事を、あえて否定したり、神の「存在」そのものを、「本当にいるのだったら、(いっちょ)・・・・してみようではないか!」と試す、そんな愚かな判断や行動の次元に、私たちは簡単に陥ることを、先ず覚えて下さい!


 さて、最近の第二波が来たと思われる、「コロナ禍」に関する日本国民の空気感(雰囲気)は、第一波の時と比べて「危機感」や「緊張感」が、何となく失せてきたのかな?と思われますが、如何でしょうか!「第二波に備えること」は、以前から承知してきたことです。しかし、何故かしら国民の「今の行動」には、地方は別ですが「警戒感」が緩み、自粛生活において溜まったストレスが、一気に「ガス抜き」の如くに噴出しているように見えます。


 人は「現実」という、目に見える事実にしか、目を向けようとしない「弱さ」があります。例えば、殆どの人が「私の住むこの場所、私の住む県(地域)は、感染症の影響は余り受け無いだろう」などの、いわゆる「バイアス思考」で物事を判断しようとします。皆が思っていることを、自分の思考範疇に固定化することで、「自分も大丈夫!」と考え安心するなど、実はこの思考回路では、「危険(危機)」に対する判断(備え)が、大きくズレてしまう可能性があります。


人は何故、神の「恵み」を忘れるのか?
 実は今回の、イスラエルの民の愚かな行動についても、主なる神は「怒り」を発していません。どちらかと言えば、イスラエルの民の方が「ブチ切れ」た状態です。その様に怯え、オロオロするのがモーセ。そこで主なる神は、すかさずモーセに指示を与えます。「ホレブの岩を打て!」と。


 「怒り」に満ちたイスラエルの民の面前に、突然ほとばしり出る「清水」が現れ、彼らは我先に飲み始めましたが、「マラの泉」の奇跡の時と同様、神に対する「感謝」の言葉は皆無でした。神の「恵み」を受けたにも関わらず、人は何故、神の「恵み」を忘れるのか?これが今回の記事から示される、第一の重要ポイントです。


 不思議なことに私たちの記憶領域には、数え切れない神の「恵み」が、「記憶の箱」として保存されているのですが、これを取り出して、信仰に役立てる作業を省略して、僅かの「苦しい事」だけを、その「箱」の中に大切にしまう、悪しき「罪」の性質があります。例えば私たちキリスト者は、数々の「苦しみ」を経て、その時にも神の豊かな「恵み」が備えられていたことを、霊的に記憶しているが故に、「感謝」を捧げることが出来ます。


 しかし新たな「苦しみ」や「災い」が、次々と押し寄せてきた場合に、ついつい大事なことを「忘れる」のです。例えば、未だもって真実の神が、私たちを常に守り導いていることなど。そして、すぐにボヤくのです。「もう駄目だ!」、「先はどうなるか分からない!」などと、「心配」や「恐れ」ばかりが口から出ます。そうです!私たちは、神の「恵み」を感謝する言葉よりも、「現実」を見る余りに呟く言葉が多いのです。神の「恵み」を忘れ、「現実」を見て呟くことは、霊的に神の「臨在」を無視(否定)することと同じです。


 さて「善悪の木」の実を食した結果、人は「善なること」と、「悪しきこと」を選別して、どちらかを自由に取るようになりましたが、罪を犯す以前の最初の人(アダム)には、「善きこと」と「悪しきこと」を、自由に選び取る意思能力(本性)は無かったのでしょうか?


 創造主なる神が、アダムとエバを創造した際に、幼子に言い聞かせる如くに、「私は絶対に、あなたたちに対して飢えさせず、痛い(苦しい)思いをさせない!全てを満ち溢れさせる程に、私は常にあなたたちに対して、惜しみなく必要なものを与えるから・・・・。但し、善悪の木の実に関しては、これを食べると、あなたたちにとって、非常に善くないことが起こり、霊的に死ぬことになるから、これだけは絶対に欲しがったり、食べたりすることが無いように!」と、常々語り聞かせていました。


 そうです!神が霊的に、未だ幼子の如きアダムとエバに対して、教え示した正しい「善」と「悪」の判別方法は、ある面で単純な「教え」でもあり、「善悪の木」の実以外の神の「産物」を、戴くことに関しては全てが「善」、しかし「善悪の木」の実だけは、唯一の「悪」という、非常に分かり易いものでした。「悪しき概念」自体が、未だ理解できない彼らでしたが、神が命じた「善悪の木に①近づくな!その実に②触れるな!取って③食べるな!」の意味は、明確に悟っていました。


 ところが彼らは、美しい蛇に化けたサタンを通して、その実を食べた結果、「知る」ようになりました。何を知ったのでしょうか?「自分は・・・・である!」という自意識、つまり「自分」を知ったのです。その時から、以前の「神にある自分」、「神のものである自分」などの意識は消え失せ、「自分は神に対して・・・・である」、「神が~であっても、自分は・・・・する」などと、「自分」と「神」を分けた意識で行動するようになりました。


 罪を犯す以前の彼らは、何が「善きこと」であるのか?その判断基準を、「神と共にあることが、全ての祝福の源である!」という、揺るぎ無き信仰によって生きました。ですから神から離れて生きること自体が、「最大の不幸」をもたらす唯一の悪と、自然に考えることが出来ました。その結果、彼らの霊的記憶の領域には、常に神が共におられる!という、インマヌエルの神の「真実の愛」が、財宝の如くに積み上げられました。


 しかし罪を犯した彼らは、神にとって「何」が善きことで、「何」が悪しきことであるのか?その判断基準を「自分」という、自意識を土台としたことにより、先ずは「自分」を優先する、つまり自分にとって、都合の良い「祝福」・「利益」・「欲」だけを、記憶領域に大切に保管し、一番大事な神の「恵み」は後回しになる、つまり忘れるようになったのです。そして自分の「利益(理屈も含む)」に反することが、「悪しきこと(不幸)」と捉えるため、益々自己中心主義的な生き方を、毎回繰り返すようになりました。


ホレブの岩を打つ信仰
 今回のイスラエルの民にとって、ホレブの岩は単なる、「不幸の塊」としか映りませんでした。それ故に「これは災いだ!モーセよ、どうしてくれるのか!」と次々と不平を吐き散らしました。神の人(指導者)モーセと争い(メリバ)、全能の神を試すこと(マサ)自体が、愚かな信仰であること!これが今回の記事から示される、第二の重要ポイントです。


 「争い」自体は、「罪」ある私たちの常の行動ですが、それが常軌を逸して、普段は神の「恵み」を忘れているにも関わらず、この時とばかりに神と「争う」ことは、サタンの「本性」に毒された、愚かな悪しき信仰行動です。この段階に至っても、主なる神は御怒りを全く表さずに、モーセに対して「ホレブの岩を打て!」と、一言命じられました。


 私たちの信仰の歩みに、度重なる「苦難(試練)」が、次々と降りかかって来た時に、私たちは次のような「信仰の破船」に陥る可能性があります。例えば「主よ、こんなに私が苦しんで叫んでいるのに、あなたは一つも答えて下さらず、私のことを放って(無視して)おられる・・・・。本物の神なら救って下さるはずだ!」などと呟くこと。


 世界的災害(コロナ禍)の中で、私たち個人の生活においても、主なる神の変わらざる「臨在」が豊かにあり、「日々の糧」が与えられ、常に「健康」が守られているにも関わらず、「先(明日)」のことを様々に心配する余りに、「あー、明日はどうなるか分からない。このままでは、もう駄目だ!」などと呟くのであれば、それこそが既に「信仰の破船」に陥っているのです。


 しかし覚えて下さい!今の神の「恵み」故に私たちは生かされ、日々の歩みが守られているのです。インマヌエルなる神が、「エデンの園」において、アダムとエバを愛して下さったのと同様に、私たち(神の子たち)のことを、ねんごろに守り導いて下さっています。「昼の時」も「夜の時」も、聖霊様が「火の柱」、「雲の柱」として、私たちを傍らにて導いて下さいます。このことを信じて、私たちは前進するのです!


 「先」に荒れ野(砂漠)が見えても、ホレブの岩、即ち堅固なる「救いの巌」、主イエス・キリストに対して、あなたの「信仰」の叫びを、霊的に打ちたたいて下さい!今の「試練の時」は、決して恐れる次元にはありません。あなたが、主イエス・キリストの「来臨」の前に、いよいよ来る霊的「大収穫」に間に合う、収穫人としての働きが、聖霊様を通して豊かに整えられて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年7月5日のメッセ-ジ)


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