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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.23)

                   目に見えない事実を確認する




イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し・・・・シンの荒れ野に向かった。・・・・荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体は・・・・不平を述べ立てた。・・・・主はモーセに言われた。「見よ、私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。私は、彼らが私の指示通りにするかどうかを試す。但し、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
イスラエルの人々は・・・・四十年に渡ってこのマナを食べた。即ち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

                                                   【出エジプト記16章1~5,35節】


「シン」の荒れ野
 今回の記事に見られる、神の偉大なる御業は、素晴らしい「祝福」を、日々の約束として用意する奇跡です。しかしイスラエルの民の殆どが、相も変わらず目に見える「現実」に打ち負かされ、否定的な言葉(不平・不満)を、神に対して吐きました。


 覚えて戴きたいことは、イスラエルの民が辿った「不信仰」は、私たちキリスト者にも見られる、悪しき霊的雛形です。私たちは目に見える「事実」が、平坦で舗装された道の如き、「良きもの(状態)」であるなら、順調な歩みを維持できるのですが、仮にそれが逆の、「悪しき(自分にとって好ましからざる)もの」である場合に、途端に歩みを停止し、三次元的思考回路に陥ります。


 今回の記事から示される第一のポイント、それは「荒れ野に入ると、今までの恵み(奇跡)を忘れる」という点です。不思議なことに、主なる神のイスラエルの民を導く、その「行程」にパターンがあります。それは「奇跡のフィールド」の後には、必ず「荒れ野」という不毛のフィールドが来ることです。


 「葦の海」の時も、「マラの泉」の時もそうですが、エジプトの「苦難の時」に比べたら、今回の「シン」の荒れ野は、それ程大ピンチではありません!現に彼らは、食料は尽きている訳ではありません。しかし彼らは、今回の「荒れ野」において、大事なことを見失いました。これを霊的ロストと呼びますが、実は私たちも霊的に、「荒れ野」の如き状態に導かれた時、ロストするものがあります。


 この霊的ロストには、三つのものがあります。第一のロストは①昨日まで得た神の「恵み」です。目の前の「現実」の方が、強烈に見えるからです。第二のロストは②「今」を正しく見る信仰です。「過去」の方が素晴らしいと錯覚するからです。第三のロストは③「先」に対する希望です。これは「今」飢えている訳でもないのに、このまま荒れ野を行くと、「先」に待つのは干からびて死ぬ!という、人間的な「恐れ」が生じるからです。


 このように、私たちの三次元的「思考」には、例えば「今・・・・が途絶えたら、もう終わりかも知れない!」と思うなど、常に「人の時」に左右される限界(霊的弱点)があります。しかし覚えて下さい!聖霊様が、私たちに望む信仰姿勢は、たとえ「現実」がどうであれ、神が日々与えて下さる、「今」の恵みを忘れず、「先(明日のこと)」を思い煩わない!ことです。


 「明日」は、神が心配する領域であると、これを常に自分の「霊」に刻みましょう!私たちが心配すべき次元は、「主なる神が、常に私たちと共におられるか否か?」、即ち「私たちが神から離れた次元を歩いていないか?」を、常に確認することです。主なる神は日々(毎日)、「命の糧」を天から降り注いで下さる方です。


「荒れ野」における神のテスト
 今回、イスラエルの民に課された、神の「試み(霊的テスト)」の目的は、主なる神が「指示」した通りに、彼らが①(疑わずに)信じて、②(愚直に)実行すること、この二点だけです。しかもこの霊的テストには、合格点に達しなかったら、ご褒美(神の更なる祝福)は無し!などの、いわゆる「落第点」は付随していません。単なる「信仰」を確認するための試験です。


 今回の神の「指示」の中で、非常に特筆したものがありますが、それは「安息日の前日(六日目)には、必ず安息日のためのマナを整えること」という、覚えておくべき大事な「原則(神の法則)」を、付け加えている点です。これはアダム(エバ)に指示した、「善悪の木以外のものから、全て自由に取って食しなさい!」という、神の最初の「掟」と同種のものです。


 今回の神の霊的テストは、彼らイスラエルの民が、ご自分の目に適うか否かを判断する、つまり霊的に信仰が優れているか否か?を見るためではなく、たとえ「荒れ野」を行く時にも、彼らが忠実に神の「祝福」の法則に従って、天から降り注ぐ「マナ(命の糧)」を、家族全員で早朝に集めて、感謝して食し続ける!という、その信仰姿勢を自らが見て、共に喜ぶためです。そうです!「先」に荒れ野が来たとしても、「飢えて死ぬ」ことは絶対に無い!、むしろ真実の神は「常に憩いの水際(みぎわ)にて緑の牧場を用意して下さる方」です。


 確かに私たちの人生は、「荒れ野」の如き苦難が多くあります。世界的に砂漠化した状態が、今の「コロナ禍」です。「先」に対する計算(生活上のやりくり)が、全く出来なくなった状態が、今の世界的「荒れ野」です。しかし私たちキリスト者の場合は、「コロナ砂漠」の中を進み行く時にも、主なる神が「天」から日々の「糧(マナ)」を、計算したかのように配給して下さっていることを、日々の歩みの中で確認しています。


 「指示通りに為すか否かを試す」とは、人間的に解釈しますと「真面目に事を為すか否かを探る(テストする)」などと、神の「真意」を曲げたものとなりますが、「四十年に渡ってこのマナを食べた。」(35節)の御言葉に記されているように、40年にも渡る、日々欠かすこと無き、神の「恵み」の観点から解釈する限り、それは「彼らが一番大事なこと、つまり目に見えざる神の事実を、いつも忘れずに感謝して進むことを見る」ためです。


 そうです!数学的に見ても、「2,000,000人×40年×365日×3食=87,600,000,000(876億食)」分のマナですから、人の計算の次元を超えた中において、主なる神は「一日」足りとも、彼らの全てを「忘れたことが無い!」、この驚くべき「神の事実」に、私たちは信仰の目を向けるべきです。


神が「明日の分」を用意される
 主なる神が、彼らに具体的に指示したことは「①毎日必要な分だけ集めること、②安息日の分は、前日に集め整えること」の二点だけでした。第一の指示は、単純に(計算しなくても)信じて集め、それが「満ち足りたこと」を、夕食後に確認して感謝するテストです。続いて第二の指示は、「安息日」という、目に見えない「先の時」に関する、信仰のチャレンジを促すものです。即ち、「先」の次元にまで、神は私たちに必要な「糧」を、計算し尽くしたかのように、既に整え配分して下さることを信じる、これが「安息日」を守る信仰です。


信仰とは、望んでいる事柄を確信し、(目に)見えない事実を確認することです。
                                                        【へブル書11章1節】


 この第二の指示は、イスラエルの民にとって「果たして本当だろうか?」などと思う、実行するには勇気の要ることでした。殆どの人が「疑念」に駆られて、多く集め過ぎることになります。しかし「結果」は、いつも通りの「量」を集めるだけで、事足りたことに気付きます。そうです!「信仰の秤」には、肉の次元で「あー、もしかしたら明日の分は、これでは足りなくなるかも知れないから、今もっと多く・・・・しよう」などの、安っぽい次元で量る必要はありません。


 私たちは「神の経済」、「神の祝福」の次元の中に、自分の信仰の「歩み」を委ねるべきです。「先」に対する、神の偉大なる祝福を信じて、私たちは「日々の糧」を、感謝して受け取って参りましょう!あなたが、正しい「信仰の秤」をもって、正しい「信仰の行動」に移って行く限り、神の奇跡は日々起こります!


 私たちは日々与えられる、「天のマナ」を感謝して受け取り、淡々と前進して行く限り、今の「コロナ砂漠」を克服することの出来る、神の「脱出の道」が用意されています!それ故に、「今の時」を恐れないで下さい!「荒れ野(砂漠)」の次には、必ず「エリムの泉」が用意されるからです。


 あなたが「真の牧者」なる、主イエス・キリストの豊かな「祝福」を、「今!既に得ているもの」として受け取り、目に見えない「神の事実」の領域を、信仰をもって大胆に進み行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年6月28日のメッセ-ジ)


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