バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.22)

                         あなたを癒す主




モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らは・・・・荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことが出来なかった。こういう訳で、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって・・・・不平を言った。モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示され・・・・その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。その所で主は彼に掟と法とを与えられ・・・・言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、全ての掟を守るならば、私がエジプトに下した病をあなたには下さない。私はあなたを癒す主である。」彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり・・・・そこの泉のほとりに彼らは宿営した。
                                                 【出エジプト記15章22~27節】


「三日後」にも関わらず
 「あなたを癒す主」とは、ヘブル語で「アドナイ・ラファ」と言います。また今回の記事に最初に登場する「泉」は、「マラ(苦い)」と呼ばれるもので、実はこの二つの名称(キーワード)が、今回の出来事(神の御業)における、重要な奥儀を指し示すことになります。


 何故「マラの泉」が苦かったのか、その理由は定かではありませんが、泉を含めて「水」というものは、循環(注水→出水)さえしていれば、常に清水として保たれ、味覚も「美味しい!」はずです。


 ところがイスラエルの民が、今回の旅路で最初に遭遇した「泉」は、渇きを癒そうと飲んだ瞬間、「何という酷い味だ!とても飲めるものでは無い。」と、次々に皆が口から吐き出すものでした。ここで覚えて戴きたい時系列は、何と今回の出来事は、あの神の偉大なる「大イベント(葦の海からの脱出劇)」から、僅か「三日後」の出来事という事実です。


 彼らの全てが、「葦の海」という死の滅びより、完全に救出されたこと、そして目の前で「敵(エジプト軍)」が、葦の海に完全に呑み込まれる、その恐ろしい様を見たことにより、彼らは主なる神の「臨在」を信じ、そしてその偉大なる御業を、高らかに褒め称えました。にも関わらず、「三日後」には同じ唇で、神に対して「不平(不満)」をぶつけたのです。


「罪」の病いの結果
 ここに、私たちが覚えておくべき、重要な霊的教訓が示されています。それは「人は(暫くしたら)直ぐに忘れる!」という、罪の「病い」があるという点です。主なる神は、私たち「人」を創造する際に、それは「愛する対象」として、ねんごろに育て上げるため、適当な場所にではなく、片時もご自身が忘れる事が無き、特別な「選びの地」、即ち「エデンの園」の中央にて、本来の人(アダムとエバ)を産み出して下さいました。


 それ故、彼ら(アダムとエバ)は主なる神と、「四六時中」相対するので、この関係の中に「親密な交わり」が育まれました。実はこの「親密さ」が、非常に重要なものとなります(今のコロナ禍においては、親密・近密さは貴ばれませんが・・・・)。


 では何故、私たち「人」は、直ぐに忘れてしまうのでしょうか?実は霊的なことに関しては、私たちは(ある程度の時間)覚えているのですが、じきに忘れるようになる、その最大の原因が、サタンによって汚された、私たちの「霊」という、不完全な器の悪しき働き(効果)にあります。


 本来の「霊」は、神の「命の水」のみを溜めて、私たちの「魂」と「体」を、良い意味で支配できていたのですが、サタンが注水した「悪しき水」は、神に対する「反逆(離反)」の意思を生むことで、「魂」と「体」をも霊的に蝕む(汚す)ようになりました。その結果私たちは、大事な神の「ご意思(御心)」を、「霊」の中心に据え続けることが出来なくなる、つまり霊的に大切なことを、「忘れる」ようになったのです。


 例えば目の前の三次元的事実に、肉なる「思い」と魂的「感情」が左右されてしまうこと、これが「罪」から生じた霊的「病い」の症状です。しかし覚えて下さい!主なる神は、私たちが患う如何なる「病い」をも癒す方です。私たちの持つ最大の「病い」、それは「罪」の病いです。私たちが一番に、忘れてならない事を直ぐに忘れたり、最初に帰るべき所を見失うなど、これらの「罪」の病いに対して、主なる神は「癒す!」と断言して下さいました。


 そうです!真実なる神は、個人的な関りとして、「あなたの全てを癒す!」と約束して下さっています。私たちは今回の「コロナ禍」に対して、三次元的に「何」を不安に思っているのでしょうか?それは「(存在が)見えない!」、「(症状が)現れない人がいる!」などの、対処しようが無い事例です。


 モーセは「マラ」という現実に相対した時、最初は「え!どうして神は、わざわざこんな場所に、イスラエルの民を導いたのか?」と、一瞬「?マーク」が頭をよぎりましたが、直ぐに跪いて祈りました。「主よ、あなたは真実で正しい方です。あなたは私たちを、決して見捨てることなく、必ず救い出して下さる方であることを信じます。あなたはきっと、この環境から贖い出し、更に良き場所へと導いて下さることを信じます。どうか救いの時を、今お示し下さい!」と。


 すると聖霊様が、一本の「木(十字架の雛形)」をマラの泉に投げ込むよう、モーセに指示を与え、彼は直ぐに実行に移しました。その結果、マラは極上の「泉(命の水)」へと変わり、イスラエルの民の喉の「渇き」を潤すことが出来ました。・・・・が、彼らの誰一人として、神に「感謝」の祈りを捧げませんでした。これが「罪」の病いに蝕まれた、私たちの霊的「現実(症状)」ではないでしょうか!


「マラ」の全てを癒す!
 結論になりますが、神の驚くべき霊的「事実」は、次の旅程において既に大量の「命の水」を、エリムの地に用意しておられた!という点です。と言うことは、「マラの泉」において、神が彼らに教え示したことは、彼らの「罪」の病いの特徴である、「不信仰」「貪欲」「利己主義」などが、結局のところ「奇跡」を体験しても、「感謝」を生むことが出来ない程、霊的には「重症患者」の如き状態にある!という事です。


 そうです!「罪」の病いのもたらす最悪の症状は、神の「恵み」を忘れるばかりか、他の領域にまで「汚れ(霊的膿)」を蔓延させることにあります。「マラ」と「エリム」は、実は「神の時」の流れから、霊的に捉えるのであれば、これは「常なるもの」です。仮に私たちの「人生」や「境遇」に、「マラ」から「マラ」へと続く時であっても、最終的には必ず「エリム」という、神の「祝福」の領域へと導いて下さいます。


 そういう意味で「マラ」とは、私たちの「苦い過去」を表しています。それ程に、私たちは「罪」の病いに苦しんで来たと言えます。そして、この「苦い過去」に関しては、私たちは不思議と忘れません!私たちキリスト者の場合は、自分の歩んで来た人生の、数々の「ヒストリー(自分史)」を振り返った時に、確かに「苦い時」もあったけれど、この「苦さ」を忘れる程の、「エリム(将来の希望)の時」を用意して下さったことを、高らかに証言できます。


 それ故に、私たちが今後歩む「先」においては、たとえ「苦い時」が来たとしても、それを「マラ!」とは呼ばずに、「エリム!」と呼ぶことの出来る人生を、私たちは神から戴くことが出来ます。その最大の理由は、「贖いの生贄」として屠られた、子羊イエス・キリストの十字架から流れる、その貴い「血潮」が、私たちの「人生」の中に、一本の木として投げ込まれた結果、私たちは「罪」の病いから、完全に癒されているからです。


 そうです!イエス・キリストの「贖い」の血潮によって、私たちの「全て」が癒されているのです!イエス・キリストの「十字架」の死、即ち「過越しの生贄」が無かったら、私たちは依然として「恐れ」の霊に縛られています。「あー、(コロナ禍の)先には、また次のマラが来るかも・・・・」などと。


 「WC(コロナとの共生)」が叫ばれる中、多くの人々が「恐れ」という、重荷を背負って生きていますが、はっきり申し上げて、その「重荷」に耐え切れず、いつかは倒れてしまうなど、「恐れ」の連鎖に苦しんでいます。しかし主なる神は、モーセに語られた通り、「私の定めた生き方と、私が様々に教え示す道標(みちしるべ)を、純粋に信じて守り行うのであれば、如何なる災いも被ること無く、如何なる病いをも癒すことの出来る、天の御力を持つ存在、それが私、真実の神、主」であります!


 そうです!私たちの今後の「生き方」は、「With Corona」ではなく、「With Christ」、つまりキリストと共に歩む人生を、喜んで求め続けることです。私たちは、「アドナイ・ラファ」なる方、つまり「あなた(私)」を完全に癒すことの出来る、真実の神と共に歩む「祝福の民」です!神は、あなたの倒れる「その先」にて、あなたを強く抱きかかえ、たとえ「暗闇」にあっても、あなたの一歩を照らす「灯の光」として、あなたの歩みの「全て」を、エリムの泉へと導いて下さいます!


 イエス・キリストが、あなたの「人生」の先を進んで下さる限り、あなたは決して「孤独」ではありません。「アドナイ・ラファ」なる方が、あなたの「人生」の歩みの傍らに、いつも(片時も)共に居て下さる!という信仰の道標をもって、あなたが上(天)よりの力を受けつつ、更に前進して行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年6月14日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局のご案内 


バルナバ・ブログ村診療所 - にほんブログ村


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する