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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.21)

                    暗闇の中で戦われる神




主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することが出来た。・・・・雲の柱・・・・火の柱が、彼らの先頭を離れることはなかった。
                                                  【出エジプト記13章21~22節】


・・・・王はイスラエルの人々の後を追った。・・・・エジプト軍は彼らの後を追い・・・・バアル・ツェフォンの海辺に宿営している彼らに追いついた。・・・・イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは・・・・荒れ野で死なせるためですか。・・・・」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちの為に行かれる主の救いを見なさい。・・・・主があなたたちの為に戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
                                                   【出エジプト記14章8~14節】


神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き・・・・雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。・・・・モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。・・・・イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。・・・・
                                                【出エジプト記14章19~31節】


神の「守り」の中を進む
 今回の記事にある、神の偉大なる「イベント(奇跡)」は、如何程の時間を要しているのでしょうか?「始まり」の正確な時刻は記されていませんが、「終わり」は明確に「夜が明ける前」(14章27節)と記されていることから、おおよそ「10~12時間(約半日)」ではないかと推測できます。


 何故「半日」も要したのか?それは想像を絶する大規模の集団、即ち約二百万人に渡る移動ですから、如何なる隊列方法で「葦の海(塩湖)」の湖底を歩いたのか?非常に興味をそそられる場面です。


 仮に一部の人々が、押し迫るエジプト軍を恐れる余り、パニックに陥り走り出したとしたら、その瞬間隊列全体が、「将棋倒し」の如くに押し崩れ、大事故を引き起こすなどして、全体の移動が「その時」から停止します。しかし実際には、如何なる事故も起こらずに、聖霊様に導かれたモーセの「統率」の下、各部族・各家庭ごとに、進み行く「順番」及び「(人と人の歩み行く)間隔」が、適切に指示されていました。その際モーセは、「見なさい!あの雲の柱と火の柱を。あの神の守りがある限り、私たちは神の平安の中を、進み行くことが出来るのだ!」と、的確に彼らを激励し続けました。


 今回のストーリーの霊的キーワードは、「雲の柱」と「火の柱」です。この二つの神の「働き」が、全てのイスラエルの民を守るべく、如何なる布陣で「敵」に相対したのか?これを明確に知ることで、神の偉大なる「守り」の中で、神自らが戦われる!ことを、私たちは知ることが出来ます。


 今の世界的「災い」の中で、多くの人々が「混乱」の中にあります。そうです!「先」に行けども、果たして「何」が待っているのか?さっぱり分からない・・・・、だからと言って「後ずさり」することも出来ません。この時のイスラエルの民も同様でした。昨日までの「恵み」を忘れ、現実(葦の海)を見て恐れる始末。その「先」にあるのは、民族の故郷「カナンの地」ではなく、「死」しか待っていない!と。


敵を欺く神の「知恵」
 今回のストーリーから学ぶべき第一の奥儀、それは主なる神の「敵」を欺く(騙す)、その偉大なる「知恵」に関することです。私たちもイスラエルの民と同様に、「現実」という三次元的世界に生きているため、「先にあるのは世界的疫病の洪水、後ろから迫り来るのは借金(国家経済の破綻)という名の怪物」などの、「不安」と「恐れ」におののいています。


 そのような現実の中にあっても、私たちが口にすべき言葉は、「不平」や「不満」等の不信仰な言葉ではなく、神の偉大なる「知恵」、即ち神の偽らざる「命の言葉」です。神が如何に、私たちの小さな「人知」を超えて、余りある次元の中で働いて下さっているのか?これを先ず知るべきです。


 エジプト軍と、ファラオ及び将軍たちは、イスラエルの民が脱出した時は、殆ど戦意を喪失しボロボロの状態にありました。そこに斥候(偵察隊)からの「一報」が、王の元に届きます。「王様、彼らは予想に反して、突然に北進し始め、何となく道をロストした模様です!」と。


 するとタイミングよく、第二の「報告」も届きました。「彼らは、バル・ツェフォンを目指して行軍しています!今こそ絶好の機会です。直ちに軍の出動を!」と。しかしファラオは、未だ急ぐ様子も無く軍司令官に命じます。「軍を再編し、出陣の備えをせよ!」と。軍が出陣の準備をする中、第三の「報告」が届きました。「彼らは、葦の海の手前で宿営しています。恐らく前進出来なくなった模様です!」と。


 その瞬間、遂にファラオは力を奮い立たせて、「復讐の時が遂に来た!今こそ、この時を逃すな。全軍、出動だ!」と、大号令を発しました。当然エジプト軍の「動き」は、イスラエルの側には届いていません。この一連の流れが、実はイスラエルの民を含めて、主なる神が偉大なる「知恵」を用いて、「敵」を欺く(騙す)ために、わざわざ「ルート変更」を演出し、エジプト軍に油断させるよう導いていることが分かります。


 そうです!主なる神は、イスラエルの民の「恐れ」と、エジプトに対する霊的「執着心」を、完全に聖別(廃棄)するために、エジプト軍を「葦の海」へと、巧妙に誘い込んだのです。その為に仕掛けた「罠」が、①エジプト軍の「油断」と、②イスラエルの民にとっては、不可解な「ルール変更」でした。


 さて仮にあなたが、脱出したイスラエルの民の一員として、この行軍に加わっているとしたら、この時に如何なる行動を為しますか?指導者が「危機の時」に際し、正しい「判断(決断)」をもって、正しい「道筋(ルート)」を教え示し、適切に事に対処しているのであれば、私たちは「分かりました!あなたを信頼して前進します!」と、忍耐しながら進み行くと思います。


 ところがイスラエルの民は、途中から振るわれました。「うん?何かおかしな方向に行っているのでは・・・・」と。当然、モーセたち指導部の側でも、用心を怠ることが無いよう、今まで辿って来た各ポイントに、後方の見張り(斥候)要員を配置しました。そして、いよいよバアル・ツェフォンの前に宿営した時、イスラエルの民の中に「噂」が飛び交い始めました。


 ちょうどその時に、斥候から「報告」が届きました。「エジプト軍が遂に動き出し、ラメセスを出立しました!しかもバアル・ツェフォンを目指して。」と。これは内密の情報でしたが、斥候からの「報告」があったこと自体が、イスラエルの民に知れ渡ることになり、「噂」は更なる「不安」を招き寄せ、妄想の如き偽りの「情報」だけが、彼らの中に蔓延します。その結果、彼ら部族長たちからも、一気に不満が爆発したのです。そして指導者モーセに対して、怒りの矛先を向けて突っかかりました。「お前は我々を舐めているのか?こんな所でぐずぐずしているから、敵が迫り来るはめになったのだ!」と。


 さてこの時、あなたでしたら如何なる声を発しますか?正直言って私も、彼らと同じではないかと思います。出来るだけ「先に!先に!」と急(せ)く人にとっては、「のんびり進む」という行軍は我慢なりません。そして更に「後ろ」からは、とんでもない「危機」が迫り来るのであれば、落ち落ちしてはいられません。そして遂には「あー、もう駄目かも知れない!」と、最悪の事態まで想像し絶望する始末。


 目の前に「明るい兆し」、「明るい(明確な)ルート」が示されるのであれば、私たちは安心して「その方向」に、改めて向かうことが出来るのですが、前に向かえば「死(自滅)の恐れ」、されど後退しても「敵に滅ぼされる」という状況にあっては、パニックに陥るのは無理もありません。


四次元的視点で捉える
 ここで私たちが学ぶべき、第二の奥儀が示されています。それは「物事(目に見える現実)は、平面(二次元)的な視点で捉えると、イスラエルの民と同様の、「恐れの淵」に引きずり込まれることになる!」という点です。平面的に捉えるとは、「前(先、将来、未来等)」という線(点の集まり)と、「後ろ(以前、あの時、過去等)」という線が、一つの大きな平面、つまり「四角い面」の上で連動(作用)し合っていると考えるため、そこには「縦(上、天)」の次元という視点は生まれません。


 ところが、モーセ及びヨシュア等の信仰者は、自分の「歩み」の全てを守られる、主なる神の「臨在」を、「信仰」という霊的土台(四次元)の上に据えることで、上(天)からの視点で物事を捉えます。今回で言えば、まさしく「雲の柱」と「火の柱」の存在が、神の変わらざる「臨在」を現しています。そうです!昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」として働かれる、主なる神の「守り」と「導き」が必ずある!と信じる、これが正しい信仰者の「視点」です。


 この二つの神の「臨在」は、いよいよ「死の淵(葦の海)」を前にした時、何処に存在(位置)していたのでしょうか?実は「雲の柱」と「火の柱」は、まるで「意思(人格)」を持っているかの如くに、不思議な移動(動き)をしています。エジプト軍が、目前にに迫り来る直前になった時、突然この二つの「臨在」は、先ず「雲の柱」がエジプト軍と、イスラエル宿営地の間に瞬時に移動します。そして「火の柱」は、イスラエルの民の「先頭」に配置します。その目的はイスラエルの民を守るべく、エジプト軍の襲撃から防御(ガード)すること、そして次に正しい方向に導くべく、足元を照らすためです。


 その凄まじき神の「守り」を見届けるや否や、モーセは聖霊に満たされ宣言しました。「恐れるな!神はあなた方を贖い出すべく、今ここに導かれたのだ。静かに神の時を待ち望みなさい!」と。そして手にしていた杖を天に向け、静かに祈り終えた後、次に「葦の海」に向かって手を差し伸べ、大声で命じました。「葦の海よ、直ちに神の時に従いなさい!天の東風よ、直ちに激しい力をもって臨み、海を左右に押し分け、乾いた地を出現せしめよ!」と。


 すると、たちどころに「葦の海」が左右に分かれ、その真ん中に乾いた地(道)が、舗装された道路の如くに出現しました。そしてモーセは、全ての民に対して高らかに陣頭指揮を取ります。「今がその時だ!神が背後で戦われている限り、我々は安心して進み行こうではないか。決して慌てる必要は無い。今まで通りのスピードで共に前進しよう!」と。そうです!二百万人の全てが、隊列を乱さず「暗闇」の中を、慎重に進み行く訳ですから、まさに「半日」を要したのです。


 物事は二面的に捉える限り、神の「守り」と「平安」を見ることが出来ません。しかし目を転じて、神の「視点」で上(天)から見ますと、全イスラエルが「死の淵」より贖い出され、たとえ「暗闇」の中にあっても、「後ろ」は神の鉄壁な防御(雲の柱)、先(目の前)には「火の柱」によって、対岸まで照らし出された、平らで乾いた「新しい道」がある!という、偉大なる神の「守り」と「平安」が、イスラエル全体を覆っていることが分かります。


 私たちキリスト者は何故、「コロナ禍」という暗闇の中にあっても、信仰的にダウンして、信仰の「歩み」を放棄しないのでしょうか?それはひとえに、真実の神の「守り」と「導き」、そして神の絶えざる「恵み」があるから、私たちは正しい方向に導かれ、かつ生かされているのです!


 私たちは今、「泥だらけの道」を歩いている!と、霊的に錯覚していませんか?確かに「暗闇」の中は、先を行くには「恐れ」が伴います。しかし私たちの傍らには、インマヌエルなる神が、聖霊様というガイダンスを遣わして下さり、「夜(暗闇)」の導き役(火の柱)として、正しい「真理の道(イエス・キリスト)」を踏み行かせて下さいます。


 たとえ如何なる時にも、主なる神が豊かな「命の水(天の雨)」を注いで下さり、今の「暗闇」の如き災いの最中にあっても、「昼」と同様の働きをもって、私たちを確実に「平安」の次元へと導いて下さいます。イスラエルの民に起きた、今回の大イベント(神の偉大なる御業)は、決して「過去」のものではありません!今の「試練の時」にも、信じて待ち望む私たちにも、必ず身近に起こり得ることとして、是非「信仰」をもって受け取って下さい!


 どうか、あなたの信仰の「歩み」において、真実なる神の豊かな「守り」と「導き」が、たとえ「暗闇」の時にあっても、神の偉大なる「奇跡(御業)」が、身近に感じられることとして、次々に起きる毎日でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年6月7日のメッセ-ジ)


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