バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.17)

               尽きることの無い神の「恵み




暫くたって、その川(ケリト川)も涸れてしまった。・・・・主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに・・・・「器に少々水を持って来て私に飲ませて下さい」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、私に持って来て下さい」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。・・・・」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後であなたとあなたの息子のために作りなさい。・・・・」・・・・主がエリヤによって告げられた御言葉の通り、壺の粉は尽きること無く、瓶の油も無くならなかった。
                                                           【Ⅰ列王記17章7~16節】


「人の時」の限界
 今日のメッセージは、一人の「母(やもめ)」の信仰行動に焦点を当てます。それは一人「息子」に対する、母親としての愛情から選択した行動でもありますが、実は「人の時」に悩み苦しみ、遂には無理心中にまで行きかけた、彼女の人生を贖うべく、神が不思議な方法で介入して下さる!という、災いの最中にある「今の時」を生きる、私たちにも一番必要な神の緊急メッセージとして、是非受け留めて下さい!


 人は自分の定めた時(人の時)を、支配(自由に操作)しているかのように見えて、実はその定めた「人の時」によって、逆に支配されるという「弱さ」があります。例えば「終わり(目標)」が、不測の事態等により、突然見えなくなった時、殆どの人は右往左往するなど。今の「コロナ禍」で言えば、各首長が定める「出口戦略」、これは人が定めた時に基づく計画で、まさしく「人の時」に相当しますが、その「出口」は完全なものではないので、危険も隣り合わせるという、不確定な要素を含んでいます。


 このような時の持つ「弱さ」の中にあって、私たちには希望が全く無いのでしょうか?いいえ!真の希望は聖書の中にあります。「明日」は果たして生きられるのか否か?という、非常事態(危機の時)に陥った時、人はどう行動するのでしょうか?生きる希望さえもなくなる程、命をつなぐ食料が底を着きかける飢饉の中で、サレプタに一人息子と暮らすこのやもめ(母)は、如何なる行動を選択したのでしょうか?


 彼らには、「明日」を生きる食料もありません。今日の「一食」を食べたら、明日は「終わりの時」、つまり餓死するだけの状況にありました。「生きる!」という希望が無くなった母親が選択した行動は、「今日食べて、明日は死のう!」という、なかば絶望感から来るもので、生きることを放棄した行動です。


一切れのパン
 このような最悪の状況下にある、彼ら母子のもとに、神に導かれたエリヤが訪れました。エリヤは彼女に相対した時、最初は「一杯の水」のみを要求したのですが、何と初対面の彼女に対して「パンも少々、食べさせてもらえないだろうか?」と、ずうずうしい要求をしたのです。しかし彼女は、見ず知らずのエリヤに対して、怒って拒否する態度には出ませんでした。それ程に、生きる気力も失せていたことが伺えます。


 そのような彼女でしたが、一つだけエリヤの言葉に対して、気になることがありました。それはエリヤの語った、「パンも一切れ、私に持って来て下さい」の言葉にある、「一切れ」という表現です。彼女は「え!どうして見ず知らずの者が、私たちの経済的困窮状態を知っているのかしら?今日食べる分は、もう息子に上げたら、自分も食べられるか分からない程、ほんの少々の粉と油しか残っていないのに・・・・」と。


 彼女は当惑しながら、エリヤに対して申し訳なさそうに返答しました。「あなた様が、どこぞの誰かは存じませんが、あなたの信じる神は、何と素晴らしく、真実なる方でしょう。確かに私どもには、家にある全ての粉と油で焼いたら、一塊のパンを用意できますが、実はこれで最後になります。」と。するとエリヤは、彼女に対して如何なる「神の言葉」を語ったのか?これが重要となります。


 エリヤの生き方と、そして神の御言葉に聞き従うことになる、この一人の母親の姿勢、この二つに私たちの目標とすべき希望があります。何故なら、この母親の置かれた状況が、今の日本と霊的に似通っているからです。「(突然仕事を切られて)明日食べて行くことが出来ない!」非正規雇用の人々、また「路上生活を強いられる(或いはネットカフェを転々とする)!」若者たちが、コロナ禍により益々「飢え」に苦しむなど、彼らにとって真の「希望」とは、一体何なのでしょうか?


 エリヤが彼女に対して語った言葉は、先ず「恐れてはならない!」という、明日は死だけを待つ身にとっては、非常に理解し難いものでした。しかし、この言葉は原語的には、「思い煩うのは止めなさい(もうあれこれと、思い悩む必要は無い)!」と、彼女の霊の只中にある「絶望感」を、まるで追い払うかの如き行動を促す命令です。つまり全てのものが尽きる直前に、主なる神が彼らに対して、「神の時」によって「生きる道」を、必ず備えて下さることを確約したこと、それがこの言葉の真意です。


 ところで人は、自分が定めた「人の時」がうまく進む間は、思いの面で患うことが殆ど無いのですが、一旦「人の時」を思い始めると、自然に「あれこれ」と思い煩うようになります。例えば「コロナ禍」に関して言えば、私たちは今まで以上に「思い煩う」時が多くなりました。「BC(Before Corona)コロナ前」や「AC(After Corona)コロナ後」、また最近では「WC(With Corona)コロナとの共生」という言葉が、まさしく「人の時」を基準として、新たに造られた言葉ですが、その全てが「思い煩い」を、根底に据えているのではないでしょうか!


 しかし私たちキリスト者にとって「BC」とは、神が定めた「旧約の時(Before Christ)」、即ちイエス・キリストの誕生以前の時です。しかし世界中の殆どの人々は、「今の時」を「人の時」で見るため、新型コロナウィルスが世界を変貌させた!と捉える訳です。これが「人の時」を巡って、様々に思い煩う人の「弱さ」を現しています。


 覚えて戴きたいことは、「コロナ」によって、あなたの生き方が変わるのではありません!コロナは単なるウィルスに過ぎません。私たちが「人の時」に従っている限り、それは一種の「患い(病い)」です。このことをエリヤは、神の言葉をもって彼女に知らしめました。「もうニ度と思い煩う必要はない!」と。


 続いてエリヤは、彼女に対して「ご婦人よ、先ずあなたにして欲しいことは、あなたが焼こうと思っているパンの、ほんの一切れでよいから、私に食べさせることです。後の残りは、あなた方で食べなさい。」(原語訳)と、かなり丁寧な要求をしました。決して「パンの塊の全てを、私によこせ!」と命じているのではありません。


 つまりエリヤは彼女に対して、「残りのパン」を食べることを選択したら、必ず次に見出す次元がある!という、正しい方向に導いているのです。その次元とは「自分が様々に思い煩っていた次元を、遥かに優る神の次元が、尽きることの無い神の恵みとして、油瓶と粉壺の中に見出される!」ことです。「尽きることの無い」という保証は、まさしく「人の時」の次元には見出されません。


 彼女は、エリヤの言葉を全て聞き終えた瞬間に、全く躊躇することなく「分かりました!」と返答するや否や、帰宅して急いでパン菓子を焼き上げ、再びエリヤの元に来て、その「一切れのパン菓子」を差し出しました。するとエリヤは、約束通りにそれを受け取ると、残った粉と油は彼女に託しました。彼女はエリヤに感謝の意を告げた後、急いで帰宅した際、果たして如何なる行動に移ったのでしょうか?


尽きることの無い神の「恵み」
 少々のパンを焼き上げ、一人息子に食べさせる、そんないつもの光景ではなく、彼女が咄嗟に為した行動が、「神の時」がまさしく事実である!という確認、つまり信仰に基づいて、先ほど空になった油瓶と粉壺の中に、「尽きることの無い」神の恵みが満ちている!ことを、自分の手と目で見出しました。そうです!彼女は「人の時」ではなく、「神の時」に従って信仰の行動に移った結果、無尽蔵に蓄えられている、「天の蔵」の鍵を戴いたのです。


 今の「コロナ禍」が、未だ未だ続く時代の中にあって、「人の時」を思うのであれば、「借金(赤字国債)だらけの日本は、もう終わりの時を迎えるしかない!」などと考え、様々な「生き残り戦略」を立てることに思い患う始末。しかし、この母親の如くに、ほんの僅かな「信仰」をもって、「神の時」に聞き従うことを決断する者は、「もう駄目だ!」と思う時にも、「人の時」を放棄することで、逆に主なる神の豊かな霊の次元が開かれ、永遠に尽きることの無い「天の蔵」より、満ち溢れる程の神の「恵み」を、無代価で得ることが出来るのです。


 そうです!「信仰」とは先ず①(疑わずに)信じ、次に②「人の時」を放棄し、「神の時」に従う(委ねる)、そして最後に③(既にあるものとして)受け取る!この三つの行動が大切です。多くの人々が「コロナ禍」により、それまで培ってきた「人の時」が掻き乱され、先(将来)に対する「不安」や「恐れ」など、「思い煩い」の病いにあります。


 しかし覚えて下さい!この「思い煩い」の病いを断ち切る方法は、神の御子イエス・キリストの「贖い」の御業を純粋に信じて、今まで大切にしてきた「自分の時」を、イエス・キリストの御名によって放棄することです。そうすれば自動的に、あなたの「思い煩い」の縛りが無くなり、「神の時」つまり神の「平安」が、あなたの魂(心)と霊の全てに渡って、必ず豊かに満ち溢れるようになります!


 どうぞ、あなたが「人の時」を思って、様々に思い煩うような生き方ではなく、尽きることの無い神の「恵み」の入口に入るべく、主なる神が命じておられる、「神の時」を純粋に求め、そして信仰の鍵を戴いて前進することが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年5月10日の母の日メッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局のご案内


バルナバ・ブログ村診療所 - にほんブログ村


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する