バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.13)

             二年という「人の時」にあっても




料理役の長は、ヨセフが解き明かした通り木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。二年の後、ファラオは夢を見た。・・・・ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され・・・・ファラオの前に出た。
                                                      【創世記40章22~41章1,14節】


「人の時」と「神の時」の違い
 私たちは、今も尚ひしひしと迫り来る、新型ウィルス感染病の拡散に、毎日「不安」を抱きながら生きています。特に測り知ることの出来ないスピード感で、その感染拡大が勢いを増しているからです。そのような中、多くの人々が「どうして、こんな事が起きたのだろうか?」などと、様々に「疑問」を抱くのですが、確かな「事実」が明かされないので、その「原因」を根拠の無い「何か」に見出そうと、必死に探っているのではないでしょうか!


 ゴール(収束の時)が未だ見えない中、この後も生きていく為には、私たちは「生きる知恵」を模索しながら、特に健康生活に留意しながら、免疫力を高める「新しい生活」を送る必要があります。仮に自暴自棄になって、酒等を飲んで現実逃避したり、(政府の対策に抗議し)怒りに任せて過激な行動に走ることをすれば、それこそ感染リスクを高めることになります。


 今回の記事には、これから私たちが、どのように生きていくべきかを、ヨセフの行動から霊的に学ぶ(教えられる)ことで、重要なポイント(生きる知恵)が示されています。ご存じのように「神の時」は、人が測る(計る)次元にはありません。それに対して「人の時」は、常に「この世」の次元にあるため、ある面「この世」に支配されています。


 例えば「人の時」は、その特徴として「いつになったら、・・・・は終わりの時を迎えるのか?」などと、常に「先(将来、未来)」を意識して、様々な不安に駆られます。しかし私たちキリスト者は、この「人の時」を土台として生きていません。私たちは「神の時」の次元の中にあって、自分は「(正しい道に)導かれている!」、「(神の御手で)守られている!」、そして神の祝福を得ることで「常に贖い出されている!」という、信仰によって生かされているのです。


「二年」の後に・・・・
 ヨセフの「解き明かし」通りに、二人の高官が出獄してから、「二年」の年月が経ちました。仮に「新型コロナウィルス」の疫病が、その収束の時期が分からないまま、今から最低でも「二年」は続くと宣言されたら、殆どの人々が精神的にも、また肉体的にも耐えられない状況に陥ることでしょう。ヨセフも然り。「いつになったら、私の潔白が証明されて、この不自由な生活から解放されるのか?このまま続いたら、もう終わりだ!」と。


 しかしヨセフの場合、彼は自暴自棄には陥りませんでした。ヨハネが語っているように、創造主なる神は「アルファ(始まり)」であり、「オメガ(終わり)」なる方です。ここに「神の時」の全てに関する、霊的概念が物語られています。人は「時」の概念を二元的、例えば「何かが起こったりした時」それを起源とし、それが「終わった時」に、「終幕(エンディング)」という、一つのの線(始点→終点)として捉えます。


 しかし「神の時」は、使徒パウロが示すように、主なる神が信仰の「創始者(アルファ)」であり、「完成者(オメガ)」なる方として把握するのであれば、決して二元的な働きをされる方ではなく、私たちの過去がどうであれ、「始められた以上は、必ず完成の時まで、忍耐の限りを尽くして、常に守り導き、かつ責任を果たして下さる」という、霊的次元の中で「神の時」を実現(成就)されるのです!


 ですから「神の時」の次元に、「人の時」を当てはめて解釈しようとしますと、「何故こういう事が起きるのですか?」等の、「不信仰」に至る霊的ジレンマに陥ります。しかしヨセフの場合は、度重なる「試練」を経て行く中で、自分が被る全ての事の中に、神の「ご意思(計画)」が必ずあり、それは次なる「神の時」を経て行くことで、最終的には「完成の時」が待っている!と、ひたすら信じ続けました。


スイッチが押されると・・・・
 そうです!彼は、たとえ「今の時」が、一筋の光無き「暗闇」の状態にあっても、次なる「神の時」が来れば、必ず新しい啓示が示され、神の働きが用意されていることを、絶えず祈り求めていました。それが「二年」の後だったのです。遂に神は、エジプトを治める最高支配者、即ちファラオ王に対して、次なる「神の時」を始めるべく、スイッチを押したのです。その時からファラオは、奇妙な「夢」に悩まされる日々が続くことになります。


 覚えて戴きたいことは、「神の時」が始まる時には、必ず主なる神ご自身が「スイッチ」を押す!という動作が伴います。と言うことは、仮に私たちが「神の時」を予感して、「さー、そろそろだ!いよいよ私も動く備えをしよう・・・・」等と思って、様々に準備活動を始めたとしても、主なる神自らが「スイッチ」を押さなければ、それは未々「忍耐継続中」を意味します。


 そういう意味で、「二年」を経た後に起こった、神のヨセフに対する「取扱い」は、如何なるものであったのか?これを私たちは謙虚に学ぶ必要があります。夢の啓示通りに、出所した二人の高官の内、一人(料理長)は処刑され、あと一人(給仕長)は、以前より出世しましたが、二年の間にヨセフと交わした、「約束」を忘れてしまいました。


 しかし神のスイッチは、ファラオに続いて、生き残った給仕長の記憶にも、ある時にふと働き始めたことで、彼は機会を選んで王に進言しました。「王様、実は私も二年前に、奇妙な夢を見て、その意味が分からなく、毎晩悩み苦しみました。しかしヨセフという人物が、優れた知性により私の夢を、全て分かり易く解き明かしました。そして夢の通りに事が運び、今の私があるのです!ですから一度、この者に話してみては如何でしょうか?」と。


 すると早速ファラオは、未だに収監されているヨセフを呼び寄せるべく、侍従長に命じて仮出所させました。突然に呼び出されたヨセフは、決して動じることなく、むしろ平静に装っていました。と言うより「遂に来たか!」と、次の「神の時」に身を任せます。そしてファラオが、「夢」の内容を語り出す中で、ヨセフは感慨深く次のように祈りました。「主よ、感謝します。私の長き二年の苦しみの年月は、今のこの時の為にあったのですね。」と。


 今の世界的共通の「災い」である、新種の「コロナウィルス感染病」は、決して創造主なる神が送った「疫病」ではありません!これは人の犯した、様々な「罪過」により、必然的に生じたものであり、突然変異のウィルスが人から人へと伝播し、世界各地で拡散しているだけです。ただし注意すべき点は、この「災い」が収束の時を迎える、まさに「その後」の世界が、一気に「大患難の時代」へと進み、様々な形で別の「大いなる災い」を受ける!ということです。


「二年」の中にあって如何に生きるのか?
 「巨大地震」「疫病」「飢饉」が次々と、世界規模で連動しながら起こる中で、私たちキリスト者は、改めてヨセフの「信仰」に学ぶ必要があります。即ち彼は、「二年」という暗闇の年月を、如何に過ごしていたのか?という点です。


 仮に私たちが、この世の人々と同様に「これから一体どう生きて行くべきか、経済的に不安な生活を強いられ、もう駄目かも知れない!」等の、「人の時」の次元に留まる限り、世の荒波に必ず呑み込まれます。しかしヨセフの如くに、「神の時が私の全てを支配している限り、この受難の時にあっても、私は絶えず御子イエス・キリストの、十字架の血潮のみを仰ぎ求めます!」と、ひたすら次の「神の時」を祈り求めて行く、真摯な生き方(姿勢)が重要となります。これが第一の「生き方」です。


 続いて第二の「生き方」、それは「それを食べる時は、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる、これが主の過越しである。」(出エジプト記12章11節)と記されている言葉の、「急いで(quickly)」という表現に示されています。何故、過越しの食事を取るのに、わざわざ急ぐ必要があるのでしょうか?まるで次の「動き(アクション)」を、せかすかのような表現です。


 今回の「新型ウィルス」は、今から何年後に収束するのか、その時は定かではありませんが、私たちが今後為すべきアクションが、この「急いで」の言葉に示されています。それは「(何をしても仕方ないから)ぼんやりと~」、また「いつかは終わるから~」等と、「人の時」を測りながら、霊的に油断して過ごすことではありません。私たちが霊的に食す(求める)べき方は、子羊(イエス・キリスト)であり、「命の水」を惜しみなく与えて下さる、主なる神ご自身です。それも「朝」起きた時から急いで食べる、つまり神の御言葉を、自分の時より早く(先に優先して)求め、神の御言葉にしっかりと立って生きる(行動する)ことです。


 そうです!「急いで(quickly)」とは、「脱出(出立)の時」のために、主なる神が直々に命じている言葉です。旅支度は、「明日」にすべきことではなく、「今(直ちに)!」する、しかも「急いで」すべきことです。ですから、たとえ今が苦しくても、「今の時」を大事にして下さい!「この時」に神の知恵が見出されるからです。日々の歩みが、必ず「将来の備え」となります。決して慌てることなく、淡々と過ごし、「神の時」のみを急いで求めましょう!


 何度も申し上げますが、今回の「新型ウィルス」は、ただの前兆に過ぎません。「大患難時代」が到来する直前には、遂に「脱出の時」が用意されます。「その時」に私たちは、高らかに宣言することでしょう。「花婿なる主イエス・キリストよ、今来て下さい!私たち花嫁を、あなたの身許へと引き挙げて下さい!」と。


 あなたが主イエス・キリストの「来臨の時」まで、豊かに「神の時」が備えられ、美しく着飾った真の花嫁として、益々聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年4月5日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局のご案内 


バルナバ・ブログ村診療所 - にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する