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言葉の革命(No.9)

             第二の波紋−異言による解放の力−



 言葉は、「語る」手段として用いられますが、ある時には「聞く」手段としても用いられます。この「聞く」という領域において、重要な働きをする器官が「耳」に当たりますが、私たちは自分の「耳」に、どのような言葉を聞き、また器に水を注ぐように、聞いたことをどのように「霊」の中に入れていくかが、とても大切になってきます。


 又、言葉は「用い方」如何によって、自分自身ばかりでなく他人に対しても、「束縛する」ことができる効果を伴います。自分を束縛することを、「マインド・コントロール」と言いますが、ある面で人の行動及び考え方まで束縛することのできる力が、言葉に伴っているとすれば、尚更悪霊たちが様々な惑わしと偽善をもって、この世の人々を束縛することは、いとも簡単なことです。ですから言葉には、人を束縛することのできる「力」があること、これを常に覚えて下さい。


 言葉は人を束縛すると同時に、神が働かれる際には「束縛」ではなく、「解放する」力があるという、素晴らしい面もあります。しかし現実的に私たちは、アダム(エバ)の罪の結果、サタンが産み出す「古い言葉」によって、自分の霊的フィールドを支配されている限り、正しい真理の道を歩くこともできませんし、何が神にとって正しく良いことであるか、その方向性さえも把握できないなどの現状にあります。


 しかし神は、この世がもたらす「古い言葉」の束縛の力に対して、新しい天からの「聖霊の炎」を、百二十人の弟子たち全員に、「天の恵み(祝福)」として降り注ぎました。そしてこの時から聖霊は、この世の束縛の縄目をことごとく断ち切り、新しい天の次元に生きられるよう、彼らの霊的フィールドを刷新し、サタンが意図する「束縛」ではなく、神が新しく創造される霊的な神の子として、共に喜び楽しみ合う「解放」の力を授けました。この聖霊の働きによって、彼らは「神の御国」をこの地に再建する、偉大な器へと変革されていったのです。これが、主イエス・キリストが昇天される際に語られた、預言の実現でした。


 又イエス・キリストは、「いと高き天からの力に覆われるまでは、エルサレムに留まっていなさい。あなた方は聖霊の力を受ける時、エルサレムばかりでなく地の果てに至るまで、この世の暗闇と束縛から人々を解放するために、遣わされていくことでしょう!そしてあなた方は、至る所で迫害されますが、御国の国民(同朋)として迎え入れられ、彼らに真の喜びと自由、そして希望をもたらすことになるでしょう!」と、彼らに語っています。


「御国」と「世」の違い
 サタンを頂点とする「世の王国」と、キリストを長子とする「神の御国」について、簡単に説明してみましょう。この世の君サタンは、自分の王国を支配するに当たって、ピラミッド型のイメージをもって人々を隷属化することを好みます。自分の子分(悪霊)でさえ、人々と同様に奴隷として扱い、決して同等の価値ある存在として扱うことはありません。サタンは、神の「良き作品」である「人」を、自分の下に置くことで、自己満足に浸っています。サタンと彼の働きを担う悪霊たちが支配する、「この世」の霊的共通言語(国語)は「エゴイズム」であり、彼らの一貫した政策は弱肉強食の論理に基づいています。そして支配される「この世」の人々は、常に三次元的思考に縛られ、「束縛」と「呪い」が国語の根底にあるため、いつまでも支配され続けるのです。蛇(サタン)のもたらした世界は、何一つ「良きもの」や「新しいもの」を産み出すことの無い王国です。


 それに対し「神の御国」では、父・御子・聖霊が主権者であり、私たちは御子イエス・キリストを長子とする、御国の国民全てに与えられる、神との「親しい交わり」に迎え入れられており、決して「この世」の人々のように、隷属された関係ではありません。一人一人が御国にとって、重要な価値ある構成要員(器)として扱って下さる、キリストの「愛」による支配です。「神の御国」において使用されている国語は、当然のことながら、「霊」と「霊」の交わりを為すことのできる「霊の言葉」です。この「霊の言葉」のもたらす最大の特徴は、聖霊による安息に必ずあずかることができることであり、この「聖なる安息」から生まれ出る思考概念は、常に天的な「霊の次元」へと導きます。私たちは、聖霊を通して「天的な思い」、つまり神の奥深い「御心」に触れ、そして満ち溢れる時、「真の喜び」が天上から降り注がれ、私たちの「霊」は真の「解放」と「自由」にあずかることができるのです。


 以上のように、サタンの支配する「この世の王国」と、イエス・キリストを中心とする、「愛の交わり」のある「神の御国」との間には、「束縛」と「解放」という対立が常に存在します。サタンは人々を奴隷として、「束縛する」ことが主要な働きであるのに対し、イエス・キリストはサタンの「束縛の縄目」を、ご自身の流された血潮によって完全に断ち切り、真の「自由」と「解放」を聖霊によって推し進めることに、命を懸けておられるのです。



リバイバル前夜


さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群集は、ピリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取り付かれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人も癒してもらった。町の人々は大変喜んだ。ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリヤの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大な者と言われる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもピリポに付き従い、素晴らしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。エルサレムにいた使徒たちは、サマリヤの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペテロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリヤに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。ペテロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで「霊」が与えられるのを見、金を持って来て言った。「私が手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けて下さい。」すると、ペテロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何の関わりも無ければ、権利も無い。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、私には分っている。」・・・・
                                                                                                     【使徒行伝8章4〜24節】


 先ず、サマリヤのリバイバルに至る経過(プロセス)について、検証してみましょう。ルカの記述だけを読みますと使徒の面々、つまりピリポに始まりペテロとヨハネが、聖霊の導きによりサマリヤを訪れた結果、リバイバルが起こったかのように思われます。しかし忘れてならないことは、使徒ヨハネが記述した『ヨハネ福音書4章』の出来事です。ヨハネは、イエス・キリストが以前にサマリヤの地で、最初に伝道した経緯を記しています。その時、スカルという片田舎にあるヤコブの井戸で、無名の女性がイエス・キリストと出会って、新しい「救いの道」にあずかりました。実はこのスカルの女性が、イエス・キリストによって霊的回復を得た、サマリヤで最初の人物だったのです。


 彼女はイエス・キリストに出会うまで、この地の古い習慣という「束縛」の中にありました。しかし、イエス・キリストは霊的洞察をもって、彼女の悩みや飢え渇きを、たちどころにくみ取って下さり、永遠の命に至る「新しい水」を、彼女の「霊」の只中に注ぎ込み、真の「解放」をもたらしました。その結果、彼女はそれまで両手に大事に抱えていた、この世の「束縛」の象徴である水瓶を手放し、もはや彼女にとってこの水瓶は、古いガラクタのような不要物になったのです。「女は水瓶をそこに置いたまま町に行」(28節)ったと、ヨハネは記しています。それまでの彼女にとって、ヤコブの井戸から汲み上げた「古い水」を注ぐ器(水瓶)は、彼女の生活習慣に欠かせない大切な道具でした。


 しかしイエス・キリストに出会い、彼が語られる「真理の御言葉」に聞き従った瞬間、彼女の束縛された「霊(古い器)」が粉々に破壊され、新しい「真の礼拝者」という器へと、しかも「新しい水」が永遠に溢れ出る、「新しい器」として造り変えられたのです。これこそ、イエス・キリストによる「解放」のリバイバルであり、サマリヤにおける最初のエクレシア出生の時となりました。つまり、この時から彼女の霊的フィールドが、この世の束縛の支配から解放され、生ける「命の水」の源、即ちイエス・キリストを「知る」ことを切に追い求める、新しい「キリストの花嫁」が、サマリヤの地に誕生したのです。


 そして、彼女はサマリヤの町に下って行くや否や、彼女の唇から新しい「命の水」、即ち「真の救い主」イエス・キリストを、宣べ伝える言葉がほとばしり出、その「命の水」を飲んだサマリヤの住民が、多く救われることになりました。しかしこの時点では、未だ「神の国」の新しい契約と、「聖霊の約束」について教える者がいません。当然のことながら、彼女も「聖霊のバプテスマ」を受けていません。ですからこの後、ピリポの宣教につながっていくことになります。


新しい聖霊のしるし
 実際ピリポが、サマリヤの地を訪れて最初に指導したことは、彼らに「水のバプテスマ」を授けることであり、「神の国」とイエス・キリストの「御名」に関する教えが中心であったため、彼らは依然として聖霊の名も知らず、「聖霊のバプテスマ」も授かっていませんでした。それ故彼らは、霊的に「解放」の方向に至っていませんでした。そこで彼らの霊的飢え渇きに対して、第二派遣部隊としてペテロとヨハネが遣わされました。この二人を派遣した聖霊の目的は、サマリヤのキリスト者を完全に解放するために、「聖霊のバプテスマ」を授けることでした。ルカの記述によれば、ピリポはサマリヤの人々に、イエス・キリストが約束された通り、聖霊の導きに従って、聖霊の「しるし」と「業」を伴う数々の奇跡を行いました。彼は、当然聖霊に満たされていましたから、天上の「新しい力」をもって悪霊を追い出し、或いは難病を癒すなどして、苦しんでいる人々を次々と解放しました。


 では、ペテロとヨハネを通してもたらされた第二の「新しい力」とは、いったい如何なるものだったのでしょうか?これが神学者を悩ます記述です。17節には、「彼らは聖霊を受けた。」としか記述されていなく、彼らに如何なる「しるし」が現れたのか、全く何も記されていません。


 カリスマ及びペンテコステ派神学に立つ人々は、この時の「しるし」を「異言」であったと明確に宣言しています。私もこの解釈を支持し信じる者の一人ですが、何故そのように断言できるのか?この点について検証します。解釈上のヒントは、常に聖書の記事の中にあります。霊媒師シモンは、ピリポの為した「しるし」と、ペテロとヨハネの為した「しるし」に、はっきりとした大きな違い(変化)があることに気付きました。つまり、ピリポによってもたらされた「新しい力」の解放と、ペテロとヨハネによってもたらされた「新しい力」の解放には、大いなる「現れ」の違いがある!このことにシモンは、強烈な印象を受けたものと推測できます。シモンが特に興味を抱いた点は、ペテロとヨハネによる「新しいしるし」が、人々のどこに現れたのか?これが「答え」を導く重要ポイントです。


 ところでシモンは、ペテロとヨハネが訪れるまで、「何」をもってサマリヤの人々を霊的に支配していたのでしょうか?彼は、不思議な「魔術を使ってサマリヤの人々を驚かせ」ていたと記されているように、悪魔サタンのもたらす世の「しるし」をもって、人々を支配していました。目に見える「しるし」も、魔術における大いなる「力」でありますが、私はシモンが「耳」の領域に起きる「しるし」、即ち「惑わし」や「恐れ」などの、言葉の「悪しき力」をもって、サマリヤの人々を「束縛」していたのではないかと推測します。悪霊も、一人一人の人生に常に付きまとう存在ですから、その人の悪しき所(部分)、つまり「失敗」や「罪」、又「欠点(弱さ)」などをよく知っています。聖霊が「とりなし手」として、私たちの「霊」を良き方向で「見張る方」であるのに対し、悪霊は私たちの悪しき所だけを監視(スパイ)し、そして霊的に「責め立てる者」であることを知らなければなりません。


 シモンは悪霊のもたらす洞察力によって、人々の悪しき欠点をたちどころに見抜き、人々の「霊」の弱さにつけ込んで、「励まし」ではなく、「恐れ」と「惑わし」をもって束縛し続けました。シモンに祈ってもらえばもらう程、彼らは「束縛」の深みにはまり、もはや自力で立ち直ることが、できない状況に陥りました。その結果、悪しき「力」が彼らの霊的フィールドを完全に支配し、シモンの「教え」以外の宗教などに依り頼む者は殆どなく、シモンこそ崇拝すべき方、「生き神様」として拝むようになりました。


 シモンが人々を束縛し支配する道具こそ、悪霊がもたらす「言葉」であり、彼もある面「霊(悪霊)」が語らされるままに、「束縛の言葉」を語ることができる「悪霊の使徒」でした。このように、彼の語る「霊の言葉」は的中率が高いため、人々は彼を「神の代弁者」として崇拝したものと思われます。サタンにとって、「人」が神のみを礼拝する本来の「正しい方向」から、人が「人」を崇拝するなど、「悪しき方向」へと転換させていくことは、いとも簡単なことです。つまり、アダム(エバ)の罪の結果、「神」から「人」へのすり替えが、今も尚繰り返し行われていること、この背後に悪霊の働きがあるのです。


 ピリポは、「束縛」され続けるサマリヤの住民の中に、神の国の「解放の力」を説いて行き巡りました。ある時は「水のバプテスマ」を授け、又ある時には神の国の「力」をもって、人々を解放して行きましたが、この時は父なる神の「御心(ご計画)」が途上段階にあり、彼らは完全な「霊の解放」には至っていませんでした。ですから、ある人々は回心したにも関わらず、「束縛の縄目」が完全に断ち切られていないために、ピリポが去った後しばらくすると、再びシモンに祈ってもらう人が続出したのではないでしょうか!


 ところが、ペテロとヨハネの訪問により、事態は完全に一変します。彼ら二人の働きにより、自分の霊的束縛の配下にある、「シモン教」の信者たちが次々と回心し、もはや自分の元に礼拝に来なくなるなど、彼にとって好ましからざる現象が出てきました。そこで彼は、今までの「しるし」とは違う、大いなる「霊的な力」の現れが起きている!と瞬時に察知し、ピリポの時と同様に「キリスト者」の振りを装い、二人に祈ってもらっている集団に紛れ込み、使徒たちの「祈りの時」を観察しました。彼は、ピリポの集会の時のことを思い出しながら、新しい「しるし」の現れを待ちました。二人が一人一人に按手して祈り始めると、シモン自身が今までに「見たことがない」、又「聞いたことがない」しるしが、彼らの体全体から解き放たれていることが、はっきりと確認できました。「こ、これはピリポが為した業とは、全く違う現象だ!」と。ルカはこの時の出来事に関し、何も記述していません。


 二人が按手した時、聖霊はたちどころに新しい「しるし」を噴出しました。今まで積もり積もった、悪しき言葉による「束縛」の霊が、全て一気に吹き出され、彼らの「霊」の奥底から「もっともっと自由になりたい!」などと願う、ある種「革命の気運」とでも言いましょうか、そのような「霊の叫び」が湧き上がってきたのです。そうです!彼らの「霊」は、「本来の正しいポジションに、立ち返らなければ、もはや生きていけない!」などと、飢え渇いて止まなかったのです。


 ところで、あなたは「聖霊のバプテスマ」を授かった時、自分の「霊」が如何なる「しるし」を伴って叫んでいたのか、覚えていらっしゃいますか?私の場合「新しい言葉」、即ち「異言」が唇から一気に吹き出され、しばらくすると今まで体験したことのない、「体の震え」が無意識の内に起こり、目と鼻から真の「悔い改めの涙」が止め処も無く溢れ流れ、「主よ!あなたを愛します。もっとあなたに近づき、更にあなたと一つになりたいのです!」などと、「異言」で讃美し出したことを、私は昨日のことのように、はっきりと覚えています。


解放の力「異言」
 「異言」によって始まった聖霊の御業は、もはや誰も押し止めることはできず、その人自身の「霊」に「真の解放」をもたらし、その人は「聖なる安息」と真の「自由」の領域に導かれて行きます。「しるし」が何であったにせよ確実に言えることは、シモンが人々の変り行く様を見て、「もう私が太刀打ちできるレベルではない!」などと悟ったことではないでしょうか!


 悪霊は、人々が神との「親しい交わり」、しかも「霊の言葉」をもって交わる領域を極端に怖がり、そして身を引いて行きます。悪霊は、祈る人の「霊」の中に入り込んで、その人の「弱さ」を突きながら、「神」ご自身から「自分の欠点(弱さ)」に目を向けるよう、霊的に惑わすことを常套手段として使いますが、「霊の言葉」即ち「異言」の祈りをする人には、近づくことができません。勿論、「異言の祈り」の出だしにおいては、悪霊はその「異言の祈り」を停止(中止)させようと試みるのですが、その人の「霊」が「異言の祈り」によって、次第に天上へと引き上げられていく時、悪霊が手出しすらできない程、遥か高い次元にまで高められているのです。これが「異言」のもたらす、「解放の力」です。


 ですからシモンは、悪い意味で「負け」を認めるや否や、彼らに対して「新しいしるし」を注文しました。この「力」さえあれば、自分こそが「真の救い主」になれる!などの「やましい思い」、即ちサタンの勅令に従ったのです。そして、シモンはすかさずペテロに願い出ます。「私が手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けて下さい。」この表明は一見、いかにも素晴らしい告白のように聞こえます。イエス・キリストに献身した者にも、この種の「言葉」の誘惑は付きまといます。例えば、「私にも、あの先生のように癒しをもたらす賜物、預言する力、リニューアルによって人々を倒す力を与えて下さい!何故なら私も人々を解放し、聖霊によって満たしたいからです!」などの祈りの中に、既に「やましい思い(動機)」があります。


 しかしペテロは、次のように答えました。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。」聖霊に導かれる真の働き人は、「私の力」や「私の賜物」、又「私のミニストリー」などの言葉によってではなく、ただ主イエス・キリストの「御名の権威」によって、働いていることを力強く宣言します。それ故ペテロは、シモンを厳しく叱り付けたのです。するとシモンを支配していた、悪霊のリーダーが恐れをなして、即座に彼の「霊」から出て行きました。余りにも、ペテロの語る神の国の「新しい言葉」が、「イエス・キリストの力」を帯びていたからです。


 イエス・キリストが、十字架に掛かる直前のペテロを覚えていらっしゃいますか?彼は主の前では、自分が決して裏切ることのない、信頼に値する弟子の一人者と宣言しても、結局は「恐れ」の余り主を否定し、敵の前で「知らない」と三度も宣言した時のことを、到底忘れ(消し)去ることができない記憶として、常に覚えていました。彼は、自分の内側(感情)から出て来る言葉は、たとえそれが如何に立派なことを述べ立てたとしても、全て悪霊から来る「惑わし」により、霊的に「束縛」された弱き「言葉」であること、そして悪霊は「世の王国」を建て上げることにしか、興味を引かせないことを身をもって体験し、結局は主君イエス・キリストを否定してしまったことを、昨日のことのように覚えていました。ですから、シモンの「霊」を支配していた悪霊のリーダーが、かつて自分の「霊」を支配していた悪霊と同種のもの、即ち「真の救い主」イエス・キリストを否定する悪霊であることを、聖霊を通して瞬時に察知することができたのです。


「新しい力」の源を求めよ
 ペテロとヨハネによってもたらされた、聖霊の完全な解放の働きは、「真の救い主」イエス・キリストにつながれば、必ず全てが新しく造り変えられ、「真の自由」を得ることができる!ことを証明しました。そして解放された人々の中には、「異言」を語ることで聖霊の声を、明確に聞くことが可能になった者がいました。その御声は、「あなたの霊を束縛するものは、もはや主イエス・キリストの血潮の前には、何一つありません!あなたに神の国の義と、喜びと平安の実をもたらすために、主イエス・キリストは来られたのです。主イエス・キリストの十字架の贖いの血潮の力は、暗闇と恐れの中に束縛された人々を、今も尚完全に解放し続けるのです。


 そしてあなたを、遂に主イエス・キリストの花嫁として迎え入れるべく、私(聖霊)は彼の元へと導きます。さー今から、イエス・キリストの元に行きましょう!もっと更に近づいて行きましょう!」と励まします。聖霊の優しい語りかけに、人々は益々「真の自由」にあずかる喜びを見出し、次々と霊的に力強く立ち上がりました。今まで、暗闇を司どる悪霊の「縄目」に縛られていたサマリヤの人々は、主イエス・キリストの「贖いの血潮」の力によって、完全に束縛の縄目が断ち切られ、聖霊の力を受けることで独り立ちできる、このような「信仰のイメージ」を、自分の「霊」の中に奥深く刻んでいったのです。


 悪魔サタン及び悪霊たちは、その人の「弱点(欠点)」を突きます。即ち「自分の弱さ」に焦点を当てるのに対し、聖霊は常に「十字架上の主イエス・キリストを見上げなさい!」と、真の「救い主」そして「信仰の創始者」である、イエス・キリストに焦点を当てます。そして私たちの「霊」が、如何なる「弱さ」の中にあろうとも、聖霊様は「あなたは主イエス・キリストの、貴い高価な器です!」などと励まして下さり、常に「新しい器」として見なして下さるのです。


 この時のサマリヤの住民の中に、スカルの女性が存在したか定かではありませんが、仮に存在していたとしたら、ピリポに続いて為された、ペテロとヨハネを通して授けられた「聖霊のバプテスマ」によって、彼女の念願の霊的至聖所(聖なる山シオン)が、彼女の「霊」の只中に確立されたことでしょう!そして、サマリヤにおけるリバイバルの働き人、即ち主イエス・キリストの「証人」の一人として、大きく前進して行ったのではないでしょうか!もしかしたら、サマリヤ全土ばかりでなく、「地の果て」にまで散って行った、名も無き使徒たちの一員に加えられたかも知れません。


 「新しい言葉」による解放の訪れは、「水のバプテスマ」を受けた人々を、更に高い霊的次元へと導きます。これは「水のバプテスマ」を受けたにも関わらず、依然として自分の「弱さ」に責め立てられるなど、霊的に束縛され続ける状態を、完全に断ち切ることができる程の、「真の解放」の訪れであり、「聖霊のバプテスマ」によってもたらされる、「異言」即ち「新しい言葉」の力によって、「霊」そのものが瞬時に回復し始める、大いなる「神のしるし」なのです。


 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマ書6章23節)と記されているローマ書6〜8章において、私たちが律法という罪の中にある限り、決して私たちの「霊」が生きることはない!しかし私たちが「自己」に死に、イエス・キリストによる「新しい命」に生き始める時に、聖霊によって新しい「永遠の命」に至る再創造が、約束として為されていくことを、パウロは力説しています。つまり私たちの「霊」が、もっと更に聖霊様を求める時、今までの悪しき「束縛」の状態から完全に解放され、イエス・キリストによる「新しい支配」によって、「真の自由」を得ることが約束されているのです。


 このように、「新しい言葉」の持つ「力」、そしてその奥深さは、とても測り知るものではありません。神の属性が「永遠」であるのと同様に、「異言」の持つ「力」というものは、私たちが推し測るレベル(次元)にはないことを知って下さい。だからこそ私たちは、今のレベルに満足することなく、私たちの「霊」の「完成者」なる主イエス・キリストを、更に「新しい言葉」をもって追い求めようではありませんか!主イエス・キリストこそが、聖霊のもたらす「解放の力」の源です。


 サマリヤのリバイバル同様に、この日本においても、主イエス・キリストに飢え渇く「解放」された人々の群れが、更に「新しい言葉」の力を帯びて、次々と「変革の炎(革命ののろし)」を、各地において高く挙げることを信じます!そして、シモンが悪霊によって惑わされた事例の如く、「しるし」と「わざ」にのみ、焦点を当てるような福音宣教ではなく、天からもたらされる「新しい力」の源である、主イエス・キリストにのみ栄光を帰し、主イエス・キリストをこよなく愛し、イエス・キリストのみを追い求めるように促される、聖霊の導きに従順する「神のしもべ」として、私たちは祈り進んで参りましょう!

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