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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.43)

                      花婿よ、来て下さい!




霊と花嫁とが言う。「来て下さい。」これを聞く者も言うがよい、「来て下さい」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
                                                                                  【黙示録22章17節】


来なさい!
 聖霊様は、今に生きる全ての聖徒たちに対して、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」という御言葉をもって、直接命じて(語りかけて)おられることを、あなたは「霊の耳」でキャッチできます(しています)か?聖霊様が私たちの「霊の耳」に、常に命じておられることは、「来なさい!」という分り易い言葉です。そしてキリストの花嫁も、その語りかけに応じて返答します。「来て下さい!」と。つまり私たちの唇は、聖霊様の促し(要求)に対する霊的な応答として、「来て下さい!」と表明することが求められています。


 聖霊様が命じておられる、「来なさい(Come)!」という御言葉(ご命令)は、霊的に何を意味するのでしょうか?今まで学んできましたように、それは「命の木」、「命の水」、「命の言葉」の源なる方、つまりイエス・キリストの御元に行くことです。聖霊様は何故私たちに対して、いつもこの「命令」を語られるのでしょうか?それは、「そこに行けば全ての命の源、つまり始まりがある!」からです。故に私たちが、霊的に「命の源」に立ち返ることで、「最初の人」アダム(エバ)に本来与えていた「命の交わり」、つまり永遠に続く神との「親しい交わり(愛の関係)」に、キリストの花嫁が再び結び合わされる(一体化される)ことを、聖霊様は一番強く望んでおられます。


 イエス・キリストの弟子ヨハネは、自分の生涯が「最後の時」を迎えるに当たり、聖霊様を通して「最後のメッセージ(啓示)」を天から受け取りました。彼は、イエス・キリストが昇天される以前から、つまりイエス・キリストの「公生涯(三年半)」に渡って、聖霊様からの促しを聞いていました。それは、「いつもイエス・キリストの御元に来なさい!そして彼から飲みなさい!そうすればあなたは、本当の命の水を飲むことができます。」などの内容の言葉で、内なる「霊」から聞こえてくる、「小さな囁き」でした。そして彼は、イエス・キリストが昇天された後も、イエス・キリストの再臨だけを待ちわびました。何故なら、イエス・キリストとの再会が、必ず永遠の「愛の交わり」に行き着くことを、唯一の頼みとして「信仰」を抱き続け、そのことだけを恋い慕う乙女の如くに、花婿を待ち望んでいたからです。


 ところで、彼は何故他の使徒たちのように、イエス・キリストのために殉教する道ではなく、パトモス島において「生き残る」、つまりこの世に残される道を課せられたのでしょうか?彼が他の使徒たち以上に、偉大なミニストリーをしたから、或いは特別な召しがあったからでもありません!それは、後世そして今に生きる私たちキリスト者が、ヨハネの如くに人生最後の時に至るまで、片時もイエス・キリストのことを忘れることなく、イエス・キリストの御元に、再び立ち返ることを求めた、一人の霊的花嫁ヨハネの生涯に学ぶために他なりません!彼は、聖霊様からの只一つの命令、「来なさい(Come)!」という御声にのみ聞き従いました。このことを私たちに、霊的かつ預言的「遺訓」として残すために、彼は残されたのです。


来て下さい!とは
 私たちは、聖霊の「来なさい(Come)!」という霊的促しに応える際、聖霊による「リニューアル」や、「しるし」と「わざ」などが為される時にのみ、この言葉が要求される訳ではないことを知って下さい!アメリカのカリスマ・クリスチャンは、私たち日本人キリスト者と違って、まるで親しい友人にでも語りかけるかのように、英語で「Come Holy Spirit!」、「Come Jesus!」などと呼びかけます。


 そして日本のカリスマ・クリスチャンも、当然彼らの「言葉(言い回し)」の影響を受けていますから、「主イエスよ、来て下さい!」、「聖霊様、来て下さい!」などの表現で、「信仰の祈り(言葉)」を語ります。しかしそれは、大抵次のような時ではないでしょうか?自分が霊的に八方塞がりの状態(苦難)に陥り、自分の「肉の力」ではどうしようも無くなった時に、両手を挙げて「主よ、(私を助けるために)来て下さい!」などと祈ったり、又聖霊様に対しては、素晴らしい「癒しのわざ」、「しるしと奇跡」、「リニューアル」を求める場合に、「聖霊様、来て下さい!今、あなたの御業を現して下さい!」などと祈る時です。


 しかし聖霊様は、果してこのような「来て下さい!」レベルの言葉を、私たちの唇に期待(要求)しているのでしょうか?聖霊様が、真の花嫁に要求される「来て下さい!」の言葉は、霊的に何を意味するのでしょうか?その鍵は、賢い五人の乙女が「主人(花婿)」の帰る「その時」を、心待ちにしながら告白し続けた、「早く来て下さい!」という言葉に見出されます。彼女たちにとって「Come」は、例えば「いつ帰ってくるか分らないけれど、とにかく来て下さい!いつ私が(美しく)造り変えられるか分らないけれど、主人が言ったから来て下さい!」などの、只漠然とした消極的な言葉ではありません!


 それはある面で、「遠距離恋愛」をしているカップルが、それぞれ離れた地にありながらも、「(私に会いに)来て!」などと「愛の言葉」を要求し確認し合う、激しい「情熱の愛」から発せられる言葉と同じものです。とにかく賢い五人の乙女は、主人がいつ帰ってくるか分らないのですが、主人がいつ帰ってきてもよいように、愛する方と相まみえることを常に願って止みませんでした。それほど、彼女たちは「主人」を恋焦がれ、「激しい愛」をもって主人の「帰り(Come)」を、待ちわびていたのです。


 私たちキリスト者は、賢い五人の乙女と比べて、どれほど「花嫁としての意識」に欠けているかを、反省し(悔い改め)なければなりません。確かに私たちは、霊的に見て「キリストの兵士」であり、「キリストの働き人(弟子)」です。しかし花婿イエス・キリストが、一番私たちに期待される「変革されたフォーム」は、「美しいキリストの花嫁」であることを覚えて下さい!私たちは、この「花嫁の意識(イメージ)」が霊的に欠けているために、どれほど「Come」のイメージが薄れている、つまり霊的に懸け離れた三次元にあることでしょう!サタンは私たちの意識に、次のように囁くかも知れません。「聖霊も来なさい!と命じているが、私も来なさい!と語りかけています。」と。


 即ち、私たちの三次元の「意識」は、「来なさい!」と言われる方が聖霊様なのか、それとも内なる自我に囁く、サタンの「霊的惑わし」から発せられているのか、明確に判別しにくい「肉の弱さ」があります。覚えて戴きたいことは、あの神の「最高傑作品」アダムとエバでさえ、物の見事にサタンの「Come」に騙されたことです。ということは、罪を犯す以前の彼らでさえ、サタンの巧妙な語りかけに騙されるのですから、私たち罪の子孫は尚更、「Come」の発信者を判別できないために、いとも簡単に「誤った方向」に傾いて行くのではないでしょうか!


 アダムとエバには、「神の声」を直接聞くことのできる、「天的能力」が備わっていました。父なる神の「御声」、花婿イエス・キリストの優しい「愛の言葉」、そして何よりも聖霊様の「語りかけ(促し)」に関しては、一秒たりとも聞き漏らさないほどの、「親密な交わり」が常にあったのです。ところが「その時」、いつもと違う「音声」の発信者が、いったい誰であるのかを、彼らは識別できませんでした。何故ならその「声」も、実はいつもと同じ内容の語りかけだったからです。


 ご存知のように、私たちは罪を犯す以前のアダム(エバ)のレベルには、正直言って未だ変革されていません。ですから、ある者が「来なさい!」と囁いた場合、いとも簡単に騙されるのです。忘れてならないことは、ある者は時として「羊の衣」をまとって近づき、聖霊様と同じように優しく語りかけることです。「もっと多く求めなさい!人々が救われるために、あなたは更に力を求めて蓄え、そしてその時あなたが立ち上がるのです!」などと。


 私たちは、全ての語りかけの中に「神の栄光(美)」だけを、現そうとすることが含まれているか否かを、正しく吟味して下さる聖霊様の「御声」を、明確に聞き分けることができません。しかし、一つだけ確認できる聖霊様の「御声」は、「花婿イエス・キリストの御元に来なさい!」、この唯一の命令です。全てのことが、イエス・キリストに至っている(通じている)かどうか、これが大事な識別ポイントです。イエス・キリストが私の「命の源」であり、イエス・キリストが私の「命の水」である!この点を、私たちは決して忘れてはなりません。


 サタンは、「あなたが渇き求めている水は、次のことでしょう。もっと素晴らしい、神の働き(実は自分の働きですが)をしたい!教会奉仕において、もっと素晴らしい栄光あるポジションに就きたい!もっと伝道して、人々を刈り取っていきたい!もっと用いられる、神の器に成りたい!もっと上位レベルの、教会成長を達成したい!日本のリバイバルを担うカリスマ・リーダーとして、他の教会や団体に講師として招かれ、もっと日本中で活躍したい!」などと、内なる「肉の願い」を掻きたてようとします。


 しかし、聖霊様が命じられることは只一つ、「イエス・キリストだけを、更に激しく求めなさい!イエス・キリストが、あなたの命、あなたの願いの全てです!」と。ですからサタンは、「最初の人」アダム(エバ)を誘惑したように、私たちキリスト者に対して、今も尚「誤った方向」へ歩むよう、「Come」と囁きかけていることを覚えて下さい!サタンは十人(賢い五人+愚かな五人)のキリスト者全員を、自分の「世俗的な嫁」にしたいのです。その時に囁く、「甘い言葉」は次のようなものです。「私のもとに来なさい!私が与える水は、あなたを自由人として解放し、あなた自身を力強める!そしてあなたを、素晴らしい器へと変えることのできるものだ。だから、私の与えるしるしを求めなさい!私のわざに期待しなさい!その時あなたは、きっと素晴らしく変えられているでしょう・・・・。」


ひたすら待ち続ける
 聖霊様が、私たちに要求される霊的次元は、「命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」の御言葉にある通り、「命の水」を与えて下さる方、つまりイエス・キリストの御元に行くことであり、それは神との「親しい交わり」を伴う、「真の礼拝」に至る奥深い霊的「至聖所」の領域です。私たちが「古い言葉」に支配された、「この世」の三次元に生き続ける限り、聖霊様の霊的要求に対して不従順な反応を示すなど、「肉の弱さ」を覚えることでしょう。


 しかし、私たちのこの「古い体」であっても、聖霊様が語られるか細い「御声」に、私たちは謙虚に耳を傾けようとする姿勢が大切です。この時聖霊様は、決して「小さな音量」で語りかけている訳ではありません。霊的には最高司令官として、大声で「来たれ、花嫁の方々よ!」と招いておられます。しかし私たちの「肉の耳」では、霊的に聞き取るのに非常に困難(鈍感)である故、むしろ「サタンの声」の方が、大きく聞こえてしまう傾向にあります。このように、私たちは自分自身が神の御前に汚れた状態にあり、如何に霊的に「死んだ生贄」を多く捧げているかを、何よりも知るべきです。私たちが、このような「偽りの生贄」を捧げているが故に、いつまで経っても真実の語りかけ、つまり聖霊様の「聖い御声」を聞くことができません。


 このような汚れた私たちのために、主イエス・キリストが十字架上にて、無代価で貴い「生贄」として屠られ、今も尚「贖いの子羊」として捧げ尽くされていることを、聖霊様が私たちの霊的フィールドに、常に「聖なる焼印」として押して下さることを、私たちはへり下って「知る」べきではないでしょうか!そして私たちは、聖霊様が命じられる「来なさい!」という御声に聞き従って行く際、「子羊」の聖なる血潮を注がれた「十字架の門」、つまり「過越の門」を再び通過することを、へり下って求めようではありませんか!「イェス様、今の私の汚れた霊の状態に、再び来て戴く必要があります。あなたの十字架の血潮を仰ぎ求めます。どうぞあなたの貴い血潮を、私の偽りの生贄(不義)全てに注いで下さい!私自身の全てが、新しい生きた聖なる生贄として捧げられるよう、完全に聖めて下さい!イエス様の十字架を、私の霊の中に完全に打ち立てて下さい!」などと祈る、本当の霊的悔い改めが必要です。


 これが、イエス・キリストから戴いた、「聖なる衣」を洗い清めるという過程です。この重要な作業(準備)が為されていなければ、私たちはゴール(婚礼の式典)に至る、「唯一の門」を通過することができません。賢い五人の乙女はいつも、霊的に如何なる状態で待っていたのでしょうか?彼女たちに対して、愚かな乙女は恐らく次のようにからかったでしょう!
「皆さん方!そんなに毎日、飽きもせず綺麗にするの?いつ帰ってくるか分らないんだから、(そんなに毎日化粧して)綺麗になることなんてないんじゃない?!この前は確かに、ご主人様は予定通り帰って来られたけど、今回は待てど待てど帰って来ないじゃない!化粧なんて、週に一回位でいいのよ!皆さん方のように熱心であっても、せめて朝一度程度にしといたら・・・・。」


 しかし、彼女たちにとって愚かな乙女たちの「声」は、決して耳に入ることがありませんでした。何故なら、彼女たちの心(霊)を掴んで離さない思い(熱情の愛)は、「とにかく愛する方の御声を、今この瞬間にでも聞きたい!」などと、激しく恋焦がれるものであり、たとえ今再会できなくても、愛する方のイメージを描きながら生きること、この姿勢が彼女たちの「常」でしたから、美しく綺麗な状態を保つことは、当り前の行為でした。そして、愛する方からの「恋文」がいつ届くのか?そのことを心待ちにしていたのです。


 今日の日本では、通信手段として電話やファクシミリ、そして最先端手段のメール(SNS)及びインターネットがありますから、ほんの数秒で互いの「思い(愛)」を、伝え合うことが可能です。しかし、昔は「ふみ」だけが唯一の手段でした。この賢い乙女は、恐らくご主人に対して「恋文(ラブレター)」を送り続けたことでしょう。いつ帰ってくるか分らない、どの位の遠距離にあるのか分らない、今何をされているか分らない「ご主人」、つまり愛する方に「愛のメッセージ」を、何らかの手段をもって常に送り続けました。「私たちの愛するご主人様!私たちは今、あなた様が帰ってくるのを、今か今かと心待ちにしております!今でもいいですから、早く帰って来て下さい!」と。


 このように、「今来て下さい!」と呼び求める者にとって、愚かな乙女のように「あー、今日も帰って来なかったわね。いつもの事だわ!今日も意味なく終わってしまった。明日も多分、何事も変わらないでしょうね。」などと、中途半端な生き方をすることはありません。彼女たちにとって、朝早くから起きて身だしなみを美しく整え、ご主人様の「住まい」を美しく、クリーンな状態にすることは、何よりの「喜びの日課」でした。そして、「深夜」にご主人様が帰って来てもよいように、五人が交代で「寝ずの番」を担当し、ご主人様の帰宅する「足音」、そして一番期待している「ノックの音」を、心待ちにしていました。


 霊的にイエス・キリストは、今も尚私たちの「霊の戸口」で、「ノック」して下さっています。それは、愛する「キリストの花嫁」と、「霊」の宮で「親しい交わり」を為すために、あなたの「霊」の中に「入りたい!」からです。余談になりますが、目の不自由な方の証言によりますと、人が立てる「音」には必ず、各自に独自のパターンがあるそうです。勿論、人の語る「音声(色)」パターンもそうですが、彼らにとって自分に近づいて来る、ある人の「足音」のパターンを、健常者以上に鋭い聴覚力をもって、識別(判断)することが可能です。ですから彼らは、誰がどのようなパターンの「足音」を立てるか区別することができ、自分の知らない「足音」に関しては、全く未知の他人として警戒します。


 私はこの証言から、実に重要な真理を発見しました。それは、私たちの「霊の戸口」で「コン!コン!コン!」とノックして下さる方が、いったい「誰」であるかを、私たちの「霊の耳」が敏感に判断できたら、どんなに素晴らしいことであるか!ということです。そのような人は、自分が困った時、リニューアルを求める時、しるしとわざを求める時だけ、その「ノック音」を期待して「来て下さい!」などと求める者ではなく、「あ!今聖霊様が入って来られるのが分った。じゃー、早速お迎えしなくては・・・・。」などと、敏感にキャッチできる者です。例えば、「聖霊の働き」を認める聖会で時々見られることですが、あるリーダーが「今、聖霊様の臨在を感じます。」、「聖霊様が今、この部屋に入って来られました。」などと語ることがありますが、これはまさしく「霊」の宮で叩かれる、主の「ノック音」をキャッチできる人の霊的特性です。


 このように、聖霊様の麗しい臨在がある所では、イエス・キリストの麗しい「御力」の現れが、霊的に必ず「見える」のです。ある方が、私たちの「霊の戸口」でノックする際に、それが「サタンの足音」なのか、それとも「聖霊様の足音」であったのかを、私たちの「霊の眼」と「霊の耳」が、明確に判断できるよう変革されたいと思いませんか?そのためには、聖霊様が常に私たちの「霊の戸口」で、ノックして下さっていることに対して、私たちも常に「オープン」な状態、つまり「いつでも、お越し下さい!」と、へり下って求めることが大切です。


 聖霊様が、私たちに臨まれる最大の理由は、私たちの「五体」から「人生」に至るまで、全てを支配し(覆い)たいからです。そして私たちが、更にイエス・キリストと一体化することで、私たちを見たら「イエス・キリストが見えてくる!」などと、未信者も明確に「見る」ことのできる、新しい「キリストの花嫁」に造り変えること、これが聖霊様の「一番の願い(望み)」であることを、今一度覚えようではありませんか!聖霊様は、今あなたに言われます。「あなたの五感(五体)を見て御覧なさい!現実的に見て、未々罪に支配されている部分が多くあるでしょう!私の足音が聞こえましたか?私の語る言葉の内容を、正確に捉えることができますか?私の臨在を感じ取ることができますか?・・・・だからあなたは、私と更に霊の言葉をもって交わりなさい!」と。


 「朱に交われば赤くなる」という格言、これは「戒め」を意味する言葉ですが、この格言を霊的にアレンジして「主に交われば聖くなる」、つまり生ける「命の水」を通して、永遠の「聖さ」を流して下さる方、つまり「聖霊様」と私たちが霊的に交わるのであれば、聖霊様と同じ霊的次元に生きることのできる、新しい「キリストの花嫁」に造り変えられます!ですから、私たちは「異言」を絶やすことなく、益々「新しい言葉」をもって、聖霊様との「親しい交わり」にあずかりましょう!


花嫁の呼び声
これを聞く者も言う(語る)がよい
 私たちが、「キリストの花嫁」に仕立てられるには、新しい「霊の次元」の言葉をもって、花婿に語るように命じられています。私たちは、「新しい言葉」をもって「何」を求め、「何」を語るべきでしょうか?それは只一つのこと、「イエス・キリスト」のみを待ち続け、イエス・キリストに対する愛のメッセージ、「愛する花婿よ、早く来て下さい!」と語るだけでよいのです。花嫁が発する呼び声は、単純な内容であり、只一つの語りかけ「愛する方よ、私はあなたを愛しています。だから早く帰って来て下さい!そして共に、聖なる婚礼の場へと導いて下さい!」、この言葉で十分です。


 私たち「キリストの花嫁」と、「花婿」イエス・キリストとの関係は、どこか遠くへ行ってしまい、いつ再会できるか分らないという、薄っぺらな関係ではありません。私たちの愛する主イエス・キリストは、間もなく来られます!この世の「時刻」は、もう「終りの時」を迎えようとしています。「その時至らば・・・・」ではありません!「その時」は、既に近づきつつあります!


 いよいよ「その時」が、間近に(目前に)迫っている時に、私たちは五人の愚かな乙女(偽りの花嫁)のように、「いやー、いつ帰って来るか分りませんからねー・・・・」などと語るレベルに立つのではなく、「いつ帰って来ても万全です!愛する方よ、今帰って来て下さい!」と常に告白し、待ち続けた五人の賢い乙女(真の花嫁)として、霊的に整えられて参りましょう。そして聖霊様が促して下さる、聖なる飢え渇きから来る呼び声、「主イエス様、早く来て下さい!あなたを求めています!あなただけを愛していますから・・・・。」などの「愛の言葉(飢え渇き)」を、私たちは絶対にストップしてはなりません。
 
 私たちの「花婿」主イエス・キリストは、間もなく帰って(再臨して)来られます。私たちは「その時」に、歓喜の雄叫び(雌たけび?)を上げて、
「よくお戻りになられました。お帰りなさいませ!私たちは、ご主人様に会えるこの日を、心から楽しみにしておりました。」
と語ることになるでしょう。


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