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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.8)

               第一の波紋−異言のメッセージ−




「すると、ペテロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住む全ての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けて下さい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。・・・・・・・・イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。・・・・・・・・神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなた方は、今このことを見聞きしているのです。・・・・・・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペテロと他の弟子たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペテロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子供にも、遠くにいる全ての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」・・・・・・・・ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人程が仲間に加わった。
                                                                                              【使徒行伝2章14〜41節】


言葉は流れるもの
 ペテロのメッセージは、アラム語によるものでした。彼は集まって来た大群衆に対して、理解できる共通言語をもってメッセージした訳ですが、私は彼の語ったメッセージの内容は、聖霊の炎が降臨した後に、聖霊自らが「アラム語」という人間の言語を用いて、神の意図する「天上のメッセージ」を、彼の「唇」を通して語ったのではないかと推測します。つまり、ペテロという「代弁者」の唇を通して、聖霊による「新しい言葉」を語る、言わば「異言のメッセージ」であったと確信しています。


 ところで「言葉(言語)」というものは、「話し手」と「聞き手」との間を結ぶ媒介手段であることを、私たちは知っています。話す者がいて聞く者がいる、その話す時に使われる手段、また聞く時に伝わっていく手段が「言葉」です。それは、互いに意思疎通する時に必要なものであり、「話し手」の意志によって、語る内容が様々に変化してきます。私たちは、心に考えていることを「言葉」に表します。ですから、意志が働いた時に初めて「言葉」となって現れ、その現れも様々に変化します。そして、語る言葉の内容がどのようなものであれ、ある面でそれは「メッセージ色」を帯びてきます。また語る人の思いや情報などを、「聞き手」に訴えかけたり届けるために、一つの流れとなって唇から溢れ出るもの、それが「言葉」です。


 このように言葉は、「水流」のように働くものであることを覚えて下さい。たとえ、その語る内容が正確な情報(事実)であれ、又意図的に作り上げた偽りの情報であっても、いったん流れ始めた言葉は川の流れのように、「聞き手」から更に次の「聞き手」へと、流れ進んで行きます。例えば一つの言葉を無責任に語るならば、必ずその言葉の流れは「聞き手」の心(思い)の中に、澱んだ溜まり水として残ります。ですから常に「聞き手」は、語る者の言葉が本当に正確な情報であるのか、吟味した上で聞くという姿勢を持たなければなりません。澱んだ溜まり水は、「聞き手」の「霊」を必ず弱体化させますが、正しい言葉は必ず「霊」を生かす「命の言葉」になります。一つの言葉の水流は、最初に語った内容が、「聞き手」から「聞き手」へと拡散していく中で、様々に解釈されるなど、最終的には最初の事実とかけ離れた内容で伝わっていくことも、私たちは知っています。このように言葉というものは、まさしく川の水流のように変化性に富んでいます。


 異言という「新しい言葉」も、父なる神が百二十人の弟子たちに、「聖霊の炎」の訪れをもって臨んだ時、その大いなる力は、どのように流れ出したのでしょうか?この問いは、私たちが未だかつて経験したことがない聖霊の訪れが、今日も使徒行伝時代以上の流れをもって、果して私たちの唇から流れ出るのか?という、霊的課題につながります。


第一段階の流れ
 ペンテコステ革命において始まった、神の新しいしるしである「新しい言葉」は、ある面で大激流の如き現象でした。先ずこの大水の流れはどのように溢れ、又どの方向に流れて行ったのか?この二点について検証します。そこで私たちは、聖霊の炎の降臨が「百二十人の弟子たち全員に、余すこと無くもたらされたものである!」、この事実を再認識する必要があります。彼らはこの時に至るまで、決して「一致した群れ」ではありませんでした。彼らは一見、五百人から百二十人まで絞られた(選抜された)、「特別チーム」のように見えますが、聖霊から見たら未々「野合の群れ」に過ぎませんでした。


 彼らは、一つの目的(使命)のために一致した集団ではなく、適当に集まって群がっただけのものでした。しかしこの「野合の群れ」が、聖霊によって一つのまとまった、「神のチーム」に造り変えられていくのです。そして彼らは集まった際に、何らかの企画を立てた訳でもありません。又、将来に関する打ち合わせを綿密にした訳でもないのに、聖霊の炎が全員に降った時に、一斉に彼らの唇から神の国の奥義が、大水の流れとなって溢れ流れ出したこと、これが「神のチーム(エクレシア)」の誕生につながっていくのです。


 彼らは、聖霊が語らされるままに語り出したのですが、自分の意志でその語る内容をコントロールすることもできず、次に何を語るべきか、全く分らない状態にありましたが、只大きな流れが始まったことだけは分りました。自分の唇から「新しい言葉」が、止め処も無く大水の如くに溢れ流れ出したからです。彼らの語る大水の流れのサウンド(轟音)を、エルサレムに集まって来た人々が次々と聞くことになり、次第にその数は膨らみ、遂には何千人もの大群衆が、弟子たちの周りを取り囲むことになりました。


 当時の技術(文明)水準を想像して下さい!彼らは今日使用されているような、巨大な音響機器(スピーカー類)をもって、「リバイバル大伝道集会」という企画の広報(宣伝)活動を、数ヶ月前から準備し、情報を流していた訳ではありません。聖霊の炎が降臨した後に彼らが為したことは只一つ、聖霊が語らされるままに「新しい言葉」を、全員が同時に一斉に語り出し、しかも彼らの唇から発せられるサウンドが、とてつもない大轟音だったことです。それは、あたかも死火山が突然息を吹き返し、活火山として噴火した時のサウンドに似通っているかも知れません。


 彼らは、百二十カ国の言語をもって神の奥義を語り、神を礼拝し始めました。ある面で、彼らの百二十個の唇が聖霊によって、一つの巨大なスピーカーの役割(効果)を果たしたのではないでしょうか!その巨大なスピーカーから、大轟音が大水の流れとなって拡散し、何千人もの大群衆を彼らのもとに集めました。聖霊様の為される音響効果は、実に素晴らしい宣伝効果をもたらします。聖霊は「アラム語」という音声をもって、何らかの「しるし」を伝えた訳ではなく、大水の流れるが如くに凄まじい轟音をもって、人々に伝えただけです。その巨大なサウンドによって波紋が生じ、次第に拡散していく過程で、人々の耳から耳へと「ある噂」が伝わって行きます。
「何かが起こり始めたぞ!」
「とてつもない音がするぞ!」
「音源はどこなんだ?行ってみようじゃないか!」
などと。ルカはこの時の様子について、何も詳細に記述していませんが、恐らくこの巨大なサウンドの出所を確かめようとして集まって来た人々は、最終的には「一万人」規模の単位であったと推測できます。


 彼らは次々とサウンドの音源、即ち彼らの唇から流れ出る「新しい言葉」を聞きました。そして頭の中で分析し始めました。
「あれ?あいつらの語っている言葉は、最初訳の分らぬものであったが、その中に私の出身地でしか、語られていない言葉があったぞ!彼らは生粋のユダヤ人だから、生まれてこのかたアラム語しか喋ることができないはずなんだが?・・・・。」
そして彼らの中から、次のような判断を下し始めた者が続出しました。
「あいつらは、只酒に酔って絶叫してるだけだ!」
「そうだ、そうだ!酔った勢いで、気が狂ったように訳の分らぬ言葉を語っているだけだ!」


 この判断は、悪魔サタンから来たものでした。つまり、サタンは集まって来た人々に対して、人間的な思い(判断)を入れることで、神が始められたナイアガラ瀑布のような大水の流れを、堰き止めようとしたのです。彼らの思考の中に、「弟子たちは、単なるこの世の酒に酔っているだけなんだ!」などと判断する、巨大な「言葉のダム」が、サタンによって築き上げられました。


第二段階の流れ
 しかし、一度堰き止められたかのように見えた神の大水の流れは、第二段階へと推し進められることになります。それは、いったん始まった聖霊の御業は、誰にも止めることができないことを教えるためでした。ペテロが十二弟子の代表として、聖霊に促されるまま第二段階、即ち「異言のメッセージ」を語り出しました。堰き止められた群集の耳に、
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません」(15節)
と切り出した後に、ヨエルの預言から大いなる「神の国」の奥義について、更に詳しくメッセージを続けました。


 最終的に、一万人規模にまで膨らんだ大群衆に対して、僅か十二人という弟子の代表者たちが、いったい如何なる方法をもって、メッセージを伝えたのでしょうか?有名なカリスマ伝道者が、現代の数万人収容可能なスタジアムを借りて、マイクを手に取り巨大な音響機器から全会衆に向けて、同時にメッセージを伝える(届ける)など、大掛かりな方法(大集会形式)を取った訳ではありません。ましてやこの時代に、そのような音響技術は存在しません。百二十人の弟子たちが、隠れ家としていた屋敷に群がって来た人々全員に、果してメッセージを同時に伝えることが可能でしょうか?いくらメガフォンをもって、大声を張り上げて語ったところで、限界があります。最も遠い位置に立っている人々には、耳を澄ましてみて小さな唸り声程度の音が、かすかに聞くことができるでしょうが、恐らく雑踏の賑わいの中で、殆ど掻き消されてしまう程度のものではないでしょうか!


 今から記述することは、聖霊によって教え導かれた推測の域です。忘れてならないことは、ペテロが語ったメッセージは、確かに彼らの共通語である、「アラム語」によるものでしたが、聖霊が語らされるままに語った「新しい言葉」と、同じ延長上にある「異言のメッセージ」であることです。弟子たちがいくら自分の「肉の力」によって、イエス・キリストから教えられた「神の国」の福音を伝えたところで、当時の人々は悟ることも信じることもあり得ませんでした。しかし聖霊の促しにより、代表ペテロに始まり残り11人の弟子たちの唇から、イエス・キリストが復活され、今も尚生きて働かれているなどの、数々の「証言」が「アラム語」によって語られ始めると、ある方法をもって集まって来た人々全員に、伝播することが可能になりました。


聖霊の方法と流れ
 そこで、私たちが先ず忘れてならないことは、「十二人」と「一万人」を結ぶ方法に視点を向けるのではなく、十二使徒ではない名も無き残り「百十数人」の弟子たちの存在をも、聖霊様は重要な人材として群集の中に配置していることに気付くべきです。そうです!彼ら(十二使徒+百十数人の弟子)は同時に「聖霊の炎」を受け、同時に語り出したのです。決して一部の「代表者」だけが、語り出した訳ではありません。つまり彼ら全員の唇が、神の国の奥義を語る「パイプ」としての働きを担ったのです。だからと言って、十二使徒たちの「パイプ」の方が、百十数人の弟子の「パイプ」よりも、大きなサイズ(スピーカー)だった訳でもありません。


 聖霊様が与えて下さる「神の力」は、皆に等しく与えられるもので、「賜物」の種類という違いはあっても、同じ神の国の「力」に満ち、そして同じ「神のチーム」として「神の国」の奥義を語るという、非常に重要な役割を与えるものです!ですから、この「異言のメッセージ」をペテロが語り始めた時に、残り百十数人の弟子たちは全く何もしないまま、「ペテロ先生にお任せします!」などと突っ立っていたのではありません。そうです!聖霊様が為される方法はいつも「同時」に、そして「平等」に起こります。


 ペテロが威厳をもって大声で語り出すや否や、弟子たち全員が一斉に一万人の群集の中に拡散し、そして溶け込んで行ったのではないでしょうか!そして聖霊が全員各々を、最適ポジションに配置し終えたまさに「その時」、ペテロのメッセージと同時進行で、彼らの唇から同時進行で「異言の説き明かし」が為されました。ペテロの唇を通して語られた「聖霊のメッセージ(アラム語)」が、他の百十数人の弟子たちの唇から同時に、ペテロの語るメッセージと同じ内容の、「新しい言葉(説き明かし)」として流れ出したのです。


 この時に起きたイメージは、あたかも聖霊様が神の国の巨大な「貯水タンク」から、一万人規模の大群衆に行き届く長さをもった「配水管」を通じて、百十数ヶ所に設置された「回転式自動散水装置」を通して、大量の「生ける水」を散水(放出)し出した、そのような出来事だったのです!神の広大な畑(宣教フィールド)において、「神の国」から流れ出る聖霊の「生ける水」を放出するには、一本の長い「大き目の配水管」を使って散水するよりも、ジョウロの出口のような、百二十人全員の唇(霊的パイプ)を用いて散水した方が、より効果的ではないでしょうか!


 今日のペンテコステ信仰に立つ教会において、この時と同様の聖霊の働きは、未だもって現れてはおりません。確かに「異言のメッセージ」と、それに伴う「異言の説き明かし」が為されている教会はあります。しかし礼拝における主要な働きは、教役者(主に牧師・教師)が講壇という「高き所」から語る、「礼拝説教」に依存していないでしょうか?仮に私たちの教会に、「日本語」を全く理解できない来客があり、礼拝に出席したとしたら如何でしょうか?しかも双方に通訳できないような、「未知の言語」を彼らが語っているとしたら・・・・、この時が本当の意味で聖霊に対する信仰、特に「異言」に対する信仰が試されるのではないでしょうか!


 しかし「異言のメッセージ」は、「人」が理解するのに不可能な霊的領域であっても、聖霊が働かれる時に同時進行で、聖霊の準備した人々の唇を用いて、「未知の言語(異言)」をもって説き明かされることがあります。過去のリバイバルにおいて、小規模の放水ではありますが、この種の証言が数多くあります。アメリカで起きた事例から一つ紹介します。


兄のロバート・E・マカリスターは既に故人ですが、彼がロサンゼルスにいた頃次のような出来事があって、それを私に知らせてきました。その話に登場するキャスリン・スコットという女の子は私もよく知っていますが、そのいきさつはその子の両親からも聞いています。その出来事が起こったのは、昔のアズサ街集会所として知られている場所で、世界中から調査のために人々が集まってきていました。広いホールと、二階には『屋上の間』が設けられ、集会所は昼夜の別なく開かれていました。日に二回か三回、説教の行われる集会があり、人々は昼も夜も屋上の間で祈っていました。説教が終わると、人々は祈るために屋上の間に上がって行き、説教の時間になって誰かが鐘を鳴らすと、みんな降りてきて集会に出るのでした。当時、十代の少女だったキャスリンは屋上の間にいました。集会が行われている最中でしたが、一人の男がその建物に入って来て人々の祈る声を耳にすると、思い切って二階の祈りの部屋に上がって行きました。彼が足を踏み入れた瞬間、御霊に動かされたキャスリンは立ち上がると、階段を上がり切った所に立っていたその人を指し、母国語ではないどこかの言葉で話し出し、それが何分間か続きました。皆説教の集会に来るように、という合図の鐘が鳴って、それが中断されました。人々は一斉に立ち上がると階段の方へ足を運びます。例の男は、キャスリンが階段の所に近づくとその腕を取り、下に連れて行くと説教台のところに進み出てホール中が静まるのを待ってから、次のように話し出しました。『私はユダヤ人で、この異言を調べるためにこの町へやって来ました。この町の人は誰も、私の名字や名前は知らないはずです。私は本名を伏せてここに来ているからです。また、私の職業とか私に関することは、この町の人たちに知られていません。実は、説教者たちの話を聞いて説教を抜き取り、キリスト教信仰に反対する講義に使おうとするつもりでした。ところがこの少女は、私が部屋に入るとヘブル語で話し始めたのです。彼女は私の名字と名前を告げ、私が何故この町に来たのか、私の職業は何かなどを語りました。そして、この町にいる人々には知り得ないような私の生活に関する神秘を明らかにし、私に悔い改めるように呼びかけたのです。』そこでこの人は、崩れるように膝まずくと、心も張り裂けんばかりに泣いて祈ったのでした。」(注1)


 百二十人全員の唇を通して、同時に神の国から流れ出た大水の流れ(異言のメッセージ)は、諸外国から帰省し集まって来たユダヤ人の、各出身地の言葉(新しい言葉)として、「支流」が完成したことが分ります。


 自然界における川の流れには、時々不思議な現象が起こります。大抵は各谷間から小さな川が流れ出て、上流部の「支流」となります。その各支流がある地点で集中し、寄せ集められて中流の川となり、最後は下流付近で「湖」や「海」へと合流していくなど、これが一般的な川の流れです。しかし合流地点の地形が殆ど「平野」に近い傾斜地では、大水の川の流れが再び拡散し何本もの「枝の川」となる、つまり支流化することが度々あります。このような形状地を、地理学用語で「デルタ地帯」と呼び、その中でもナイル川は巨大な「支流」の川が、多く地中海へと流れ込んでいる有名な地帯です。


 神の起こした大水の流れは、いったん堰き止められたかに見えましたが、その瞬間に大量の水が集中し始め、爆発的な力を伴って「堰(ダム)」を押し流し、その流れは至る方向に拡散(デルタ化)していったのです。その結果、同時多発的な大水の支流、即ち「異言のメッセージ」の拡散によって、一度に三千人にのぼる回心者を起こしました。「異言のメッセージ」が流れた瞬間、干からび乾き切った人々の「霊」の只中に、生ける「命の水」が絶え間なく注ぎ込まれます。すると、たちどころに彼らの「霊」が生き返り、「兄弟たち!私たちはどうしたらよいのですか?」(37節)と問うなど、メッセンジャーが「招き」の言葉を促さなくても、自ら弟子たちの元へ一斉に集まって来たのです。


 「三千人」という回心者の総数は、後日分ったことです。決して集まり始めた時に、集計した訳ではありません。点在した百二十人の弟子たちの元へ、次々に救いを求めて霊的に飢え渇いた人々が、悔い改めながら「私にも命の水を下さい!」と集まって来るのですから、数える余裕すらありません。ですから弟子たちは、一人一人に「信じて水と聖霊のバプテスマを受けなさい!」などと教え導くだけで精一杯でした。その後、回心者は相互に交わりを為すため、弟子たちの「コイノニア」に合流し、そこで初めて一人一人の身分や出身地などが明らかにされ、最終的に数えてみたら「三千人程」であることが分ったのです。このことは、決して一度のメッセージを語っただけで、三千人を新会員とする「大教会」が誕生したことを意味するものではありません!


 新しく救われた人々の大半は、恐らく異邦の地に住むユダヤ人であったものと推測できます。「五旬祭」を祝う為に里帰りをしていただけですから、彼らは再び自分の住む土地へと帰って行きます。中には家族全員で里帰りをし、その家族全員が「救い」にあずかったケースもあるでしょう!それらを考慮してみても、この時から始まった「聖霊革命」によって、初日だけで小さな「エクレシア」が、「千」以上誕生したと言っても過言ではありません。三千人の「新しい命」を聖霊様がこの世から獲得した時、「千」以上の家族が新しい「神の家族」に加わり、そして変革され出したのです。そうです!彼らは「千人教会(大教会)」ではなく、千個の「生きたエクレシア」として霊的に歩み始めたのです。


証言の中心事項
 「異言のメッセージ」は当然のことながら、第一コリント14章に記されているように、「異言の説き明かし」があって初めて、聞く者が理解できます。「異言」を語る者は、自分自身でも何を語っているのか分らない場合が、殆どではないでしょうか!


 「異言のメッセージ」に限らず「異言」を語る時、果してその語る(祈る、讃美する)内容は、どのようなことを語っているのでしょうか?その内容は、①イエス・キリストは生きておられ、②今も尚私たちに、「上からの力」を与え、③聖霊による「新しい命の法則」にあずからせ、④私たちの「生きる意味」を教え、⑤更に私たちが、「真の礼拝者」として造り変えられるなど、天的要素を含んでいます。


 「異言」を語る者は、イエス・キリストが生きておられる、その「存在証明」を提示することで、次に示す内容をペテロと同様に、「イエス・キリストの証人」として証言していくことになります。「メッセージ」は、ある面で「証言(証し)」に当たります。裁判では、「証人」が数々の「証言」を語ります。「様々な証拠をもって、自分の語る証言の内容が事実であることを、陪審員や裁判官に知らしめる」者、これが「証人」です。つまり「知らしめる」行為そのものが、「メッセージ」になっていくのです。


 「証言」の中身(立証事項)について言えば、第一にイエス・キリストとは何者であるか?という問題提起をした上で、第二にイエス・キリストは「神の御子」であることを証言します。その後第三に、自分とイエス・キリストの関わり方の中で、彼が「私の主なる方」であり、自分は彼に喜んで仕える「しもべ」であるなど、イエス・キリストとの「新しい関係」を証言します。そして第四に、イエス・キリストが自分にとって、何よりも変え難い「メシア」である、つまり私の「救い主」として自分を常に購って下さる方である!と力強く宣言した後に、最後の素晴らしい証言に至ります。それが第五の証言「イエス・キリストは約束通りに、信じる全ての者に約束の賜物として、聖霊を与えて下さる!」ことです。私たちが「異言のメッセージ」を語る時、このような「証言の中身」を意識する必要があります。


 私たちは「イエス・キリストの証人」、即ちメッセンジャーとして、大胆に「新しい言葉」をもって力強い「証言」を証しする時、それは大きな川の流れになっていくのです。つまり、私たちがイエス・キリストと、更に「親しい交わり」を求めて行けば行く程、イエス・キリストは私たちを、「霊的花嫁」として如何に愛して下さり、花嫁が自分(花婿)の元に帰って来ることを、何よりも望んでおられるかを、より深く「知る」ことになります。また私たちの唇から、讃美が「命の大水」となって溢れ流れ出る時に、豊かな神の国の奥義が更に「新しい言葉」となって、私たちの「霊」を満たすことでしょう!


 そして私たちの唇が、遂に新しい「礼拝の唇」として聖められていく時、私たちの語る言葉が豊かな「命の水」の流れとなって、砂漠のような干からびた「この世」に、生きる人々の「霊」の只中に注ぎ込まれる、まさに「その時」、神の国の麗しいエデンの「花園」が、この地に再現する「大変革の時」を、私たち自身が体験し、そして実際に「見たり」「聞いたり」「語ったり」することで、「知る」ようになるのです。


聖霊の御名による一致
 かつて、アメリカの有名なTV伝道者が、讃美していた「讃美」の中に、次のような歌詞がありました。


     イェス様、貴方の御名を呼ぶだけで
     花は咲き、砂漠は甦る
     冷たい冬の火の様に 純な貴い金の様に
     イェス様、貴方の御名を呼ぶだけで


     イェス様、貴方の御名を呼ぶだけで
     花は咲き、砂漠は甦る
     嵐の夜のただ中で 船乗り見る灯台の様に
     沈みかけた船にとっての 港の様に
     飢えた心の糧の様に
     渇いた魂に対する、清流の様に
     イェス様、貴方の御名を呼ぶだけで
     イェス様、貴方の御名を呼ぶだけで
     花は咲き、砂漠に咲き匂う
     花は咲く 二度、三度、四度と


 沈み溺れ行くペテロを、イエス・キリストが力強い御腕をもって、引き上げて下さったように、私たちの「霊」を更に高い次元へと、引き上げて下さる聖霊様の生ける「命の水」が、あなたの「霊」の只中に流れていることを信じて下さい!そして「新しい言葉」をもって、花婿なるイエス・キリストを讃美し証しする時に、あなたの唇は「真の礼拝者」として、神との「親しい交わり」の言葉を語り出すように変革され、あなたの「霊と真による礼拝」を通して、この時と同様の、いやそれ以上の多くの人々が、イエス・キリストを求めて群がって来ることを信じて下さい!


 この時に救われた三千人の新しいキリスト者が、神の国の「新しい精鋭部隊」として、いずれはローマ帝国を根底から揺り動かし、最終的には国家そのものを覆す程、大きな「原動力」となっていくのです。ですから、「後の雨」は「先の雨」に優って、大いなる「神の川」の流れとして、溢れ流れ出ることを信じようではありませんか!


 聖霊の約束通り、この大いなる神の川の流れは、誰の唇から流れるのでしょうか?それは「新しい言葉」、即ち「異言」を語る人々から始まるのです!「異言」を語る人々だけが、特別に神から祝福されると言っているのではありません!「異言」は、神学(教義)上の様々な論争を引き起こし、教会に混乱をもたらす忌まわしき「代物」として、多くのキリスト者(ペンテコステ信者を含む)が敬遠しています。しかし「異言」を語る人々が、更にイエス・キリストを慕い求め、測り知れない神の国の奥義を語り出す時に、人間的な一致ではなく、神の御名の下に一致(調和)し始め、「霊と真による礼拝」が、教会(教派)という「壁」を超えて為されていくことでしょう!


 「その時」には、今まで聖霊派どうしでいがみ合っていた関係が、聖霊様の不思議な方法によって修復され、主任牧師(教役者陣)だけが講壇から語るという、伝統的な説教中心の礼拝形式(講壇そのもの)が撤去され、全ての者が神の国の奥義を語り出し共に仕え合うなど、「しもべたちの群れ」が拡大していくようになるのです。これが、トミー・テニーの言わんとする、「神のドリームチーム(エクレシア)」に他なりません。今は、対立し合う時ではありません!聖霊の御名の下に、自ら率先して仕える「しもべ」に変革されるよう、祈り求める時であります!


 「その日」、新たに三千人が神のチームに加わった!これをもたらした聖霊の第一の驚くべき現れは、百二十人全員の「唇」から溢れ流れ出た、「新しい言葉」を伴うメッセージであったことです。この神の「ご計画」は、非常に重要な出来事(摂理)です。トミー・テニーは、次のように明言します。「新しい契約の時に、神が更なる偉大な一致の記念として表された異言を語らせる奇跡によって一致させようとされたのは、決して偶然ではありません。」(注2)「野合の群れ」に過ぎなかった百二十人の弟子たちが、「聖霊の炎」の訪れと共に「神のチーム」として、イエス・キリストと「一体化」した時に、イエス・キリストが約束として語られた、「(私よりも)もっと大きな業を行うようになる。」という預言が、まさに「三千人」という数字となって実現したのです!


祈り
 「五旬節」にもたらされた、「聖霊の炎」の訪れは、百二十人の弟子たちばかりでなく、今に生きる私の人生にも同様の、いやそれ以上の「ご計画」をもって、もたらされることを信じます!又、素晴らしい「新しい言葉」の賜物が、与えられていることを感謝します。私はこの「霊の言葉」をもって、霊的な事柄を説き(語り)、イエス・キリストとの「親しい交わり」の中に、更に奥深く入ることができますように!そして、イエス・キリストと「一つ」とされますよう、聖霊様導いて下さい!私はイエス・キリストを、更に求めます!イエス・キリストの、御心のみを求めます!聖霊様、イエス・キリストの御元へと、どうぞ導いて下さい!主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注1、ジョン・L・シェリル著『異言を語る人々』(生ける水の川)67〜68項から引用
注2、トミー・テニー著『神を追い求める』(生ける水の川)108項から引用


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