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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.44)

                    花婿来りて・・・・




全てを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来て下さい。
                                                          【黙示録22・20】


何を待つのか?
 イエス・キリストが、ある喩えの中で紹介された、愚かな「五人の乙女」は、最初から愚かな者だった訳ではありません。賢い「五人のグループ」と同様に、最初の頃は主人から命じられた「ご命令」を、忠実に守り行っていたことでしょう。しかし、いつしか主人の帰って来る「その時」を、「自分の時」とすりかえて、「いつ帰って来るか分らないんだから、私たちは自分たちで計画を立てて、このように準備しておけば対処できるでしょう!」などと、「自己中心」的な判断から「その時」を設定するようになりました。


 聖霊様は、実は私たちの信仰生活においても、次のように問い質しています。「あなたは、何のために備えをするのですか?つまり、あなたは何を欲し、何を求め、何を信じて、花婿が帰って来られるのを待っているのですか?」と。殆どのキリスト者は、こう答えるでしょう。「勿論、私は主イエス・キリストの、再臨の時を待ち望んでいます!ですから、主が来られる時までに様々な準備を為し、できるだけ多くの人々が、キリストの花嫁として救われるよう、私は宣教(伝道)の業に勤しむのです!」などと。この種の信仰告白をする人々の中には、純粋に花婿を待ち望んでいる者もいるでしょう。しかし、殆どの人にとってこの表明(告白)は、単なる「タテマエ」であって、パウロがかつて「サウロ」であった頃に為していたように、「宗教行事」や宗教的に熱心な「奉仕活動」に見られる、言わば「人間的な業」を行うことに、熱中しているだけではないでしょうか!


 私たちの愚かな「五人の乙女」に対するイメージは、何となく「何も為していない、怠惰なグループ」という捉え方をしがちであります。しかし聖霊様は、「決してそのような人々ではない!」と、はっきり言われます。むしろ、どちらかと言えば賢い「五人の乙女」の方が、人間的に見てマリヤ(マルタの妹)のように、「何も為さない消極的な者」であり、残りの五人のグループの方が人間的には、非常に模範的なマルタ・タイプ(一生懸命に働き、又熱心に準備活動する者)のように写ります。ですから、この五人の熱心的「マルタ・グループ」は、只待っているだけかに見える、「マリヤ・グループ」に対して常に、
「皆さん方は、只座って待っているだけじゃないの!そんなことでは、ご主人様に喜ばれないわよ!ご主人様を待っているだけではダメ!私たちのように、もっと立派なことをしましょう!」
などと皮肉を言いながら、人間的な活動(行為)に勤しむよう誘いかけました。しかし、彼女たちは満面に笑みを浮かべながら、
「勿論私たちも、いつもご主人様に喜ばれることを、真面目に考えながら待っています。しかし私たちは、一つのことしか願っていません。それは、ご主人様が帰って来られた時に、如何に自分がご主人様に喜ばれる花嫁であるか、そのことだけに関心があります。ですから私たちは、毎日同じことの繰り返しですが、ご主人様がいつ帰って来てもよいよう朝早く起き、全ての身だしなみを整え、美しくありたい!と望んでいます。これが、私たち花嫁の待つ姿勢であると心得ていますから・・・・。」
と答えました。すると、これを聞いていた「マルタ・グループ」の一人が、
「何言っているの!いつ帰って来るか分らない人に対して、そんなことをすることは、はっきり言って化粧代がかさむだけで、無駄な出費よ!それより、帰って来た時に喜んでもらえるよう、経済的なことを万全に計画して、貯金などして待っていましょうよ!ご主人様が帰って来た時、困らないでよいように、私たちが代わりに準備しといた方がいいからね・・・・。」
と切り替えしました。


 聖霊様は、この二つのグループの「考え方」の相違から、実は私たちに対する霊的促しとして、「重要なメッセージ」を投げかけています。主人(花婿)は、十人の乙女(花嫁)の元を離れ、そして出発するに当たり、如何なる「命令」を彼女たちに残して(託して)行かれたのでしょうか?ところで、私たちが忘れてならない重要な「イベント」があります。それは、花婿(主人)が帰って来られる「その時」が、「婚礼(祝宴)の時(フィナーレ)である!」ことです。ですから主人が、次のような「命令」を与えたとは考えられません!「婚礼(式典)の準備を頼むよ。君たちは非常に熱心であり、いろんな事ができるから、又賜物にも優れているから、準備を滞りなく整えておくように!私は、今から出かけなければならないが、あとは宜しく頼んだよ・・・・。」


 どの花婿であっても、何らかの理由で愛する花嫁と、離れなければならない時に言うことは、次のような言葉ではないでしょうか!「式の日取りは、このようになっているからね。だから心配しなくてもいいよ。全てのことは、私が準備しておくから・・・・。あなたは、私が迎えに帰って来ることだけを、楽しみに待っていておくれ。私は今から、準備のために出かけなければならないけど、きっと早めに帰って来るよ、待っていてね!」そうです!私たちの霊的「花婿」イエス・キリストが、愛する花嫁に命じられる(託される)言葉は、「愛する者よ、私はすぐに帰って来るから、待っていておくれ!私はいつでも、あなたの元に帰って来られるよう準備しているから。」この一言です!


 この「ご主人様」の只一つの命令に対して、賢い花嫁たちは「はい!分りました。主よ、早くお戻りになられて下さい!」と喜んで答えます。このように、花婿と花嫁の「愛の言葉」の交わりは、とても単純なものです。私たちの愛する主イエス・キリストは、決して「複雑な命令」を言われる方ではありません!主人が「私は、すぐに帰って来るよ!」と言われたら、私たち花嫁が言うべき言葉は、「はい!すぐに帰って来て下さい。」と、単純かつ謙虚に応答するだけでよいのです。


 聖霊様から見て、愚かな「マルタ・グループ」の特徴は、自分の「肉の力」で様々な「活動(業)」や、「準備」に明け暮れていたことです。勿論、リバイバルのために様々な「宣教活動」、又「奉仕」や「ミニストリー」などを展開していくことは、とても重要な働きの一つであり、聖霊様もその一つ一つの働きに対して、主導権を行使されることでしょう。しかし主イエス・キリストが、間もなく来ようとしておられる時に、私たちは霊的に如何なる準備(備え)を為しておくべきか?このことに関する正しい霊的ガイダンスを、聖霊様から教えて戴く必要があります。


備えるべき三つのもの
 先ず第一の霊的備えは、「愛する方の御顔を、慕い求めて待ち望むこと」です。愛する方、イエス・キリストの「御顔」のみを追い求める者、例えばモーセやパウロがそうであったように、彼らは花婿の「御顔」だけを、自分の命を賭けて激しく求めた結果、自分自身の内側から外側に至るまで、「美しい花嫁」に変革されました。自分の帰りをひたすら待ち続ける、花嫁の元へと急ぐ花婿にとって、その心を支配しているイメージは只一つ、愛する花嫁の「美しい顔」だけです。「あー私の愛する方は、どのような顔をして待っているのだろうか?早く花嫁の元に帰り、彼女の美しい顔を見て安心したい!」などと。では、逆に待つ側の花嫁の心境はどうでしょうか?帰って来る「その時」が、いつ頃になるか定かではありませんが、とにかく愛する花婿の「御顔」を、直接見ないことには安心できません。実際に再会して、「顔」と「顔」を付き合わせるまでは、「不安」と「ときめき」が交錯するだけでしょう。


 第二の備えは、「油(オイル)を切らすことなく、常に用意しておくこと」です。この「オイル」は、何のために使用するのでしょうか?これは単純に考えるならば、「ご主人様」が深夜に帰って来た際に、暗がりの中でも「灯火」を照らすために、必要な燃料として使用する、「その時」の備えです。この「灯火」は、愛する方の「御顔」を暗がりでも、「見ることのできる力」を備えています。「灯火」用とは、別の種類の「オイル」になるものですが、「香油」という素晴らしいオイルの備えも必要である!と聖霊様は命じています。即ち、「ご主人様」の疲れた体を、芳しい香りで優しく包み、「美しい御体」に整えるマッサージオイルが、この「香油」の働きです。ある面で、婦人の方々が化粧する際に「ファンデーション」を、体の一部(特に顔)に塗ることが、この「香りのオイル」と同種のものではないかと思います。


 イエス・キリストの御足にそっと近づき、自分の長髪をもって、高価なオイルを塗った罪深い女性が、この第二の備えの「雛型」です。何故、花嫁は「美しくありたい!」と欲するのでしょうか?祝宴に集った人々の前で「自分の美」を誇ったり、又称賛されるために美しくあろうと努力するのでしょうか?花嫁が美しいウェディングドレスに身を包まれ、美しく化粧を施して「祝宴」に臨む最大の理由は、愛する花婿と永遠の「愛の契約」を結ぶ時に、「自分自身の全てをもって、愛する花婿の御前にて、最高の美しさを現したい!」からです!この第二の備えは、神ご自身が「人」を創造した時点で、既に「人」の中に「美」を現すなど、霊的特質として与えているものです。それ故に、「人」は神の「美」を現すことを求めるのと同時に、自らも聖霊様が与えて下さる、「聖なる油」の注ぎをもって、霊的にキリストの「美しい花嫁」として、変革されることを強く欲するのです。


 しかし、愚かな「マルタ・グループ」に見られるように、「自己中心」的に様々な「宗教行事(奉仕活動)」や、「人間的な業」に明け暮れることが、あたかも神を喜ばせる最大の務めである!などと思っている人々にとって、賢い「マリヤ・グループ」の姿勢は理解できないことであり、「神の務め(働き)に怠惰な人々」と写り、かえって裁かれるでしょう。聖霊様は果して、この「自己中心」的な備え(準備)を、期待されているのでしょうか?答えは明白です。賢い五人の乙女は、すかさず次のように答えます。「私たちは、皆様方に喜ばれることをしている訳ではありません!私たちは、只一つのことにしか関心がありません!愛するご主人様が、いつ帰って来てもよいように、最高に美しい状態(有様)でお会いし、又お迎えしたいからです。」


 第三に準備すべきことは、「言葉の備え」です。前章で学びましたように、聖霊様が私たちに期待される言葉は只一つ、「来て下さい!」です。そして「その時」至りて、花婿が遂に帰って来られた時に、私たちが用意すべき言葉は、如何なる「言葉」でしょうか?私たちの花婿は、突然思いもかけない時刻に、ご自身を現して下さいます。「その時」は、ある者にとって深夜(夜中)かも知れません。忘れてならないことは、私たちの愛する花婿イエス・キリストは、「再臨の時」そのたった一回の時だけ、私たちと霊的に再会するために、「天上」で待機している訳ではありません。イエス・キリストご自身は、常に聖霊を通して私たちの「霊の戸口」に立ち、私たちが思い(予想)もしなかった時刻に、ノックして下さいます。つまり、神との「親しい交わり」の時は、いつ如何なる時においても聖霊様が準備し、「その時」を備えて下さることです。


 イエス・キリストが、訪問して下さったその「足音(臨在の時)」、そして「愛する花嫁よ、開けておくれ!私はあなたと親しく交わりたいから。」という語りかけ(霊的ノック音)を聞くことなく、「ゲッセマネの園」の弟子のように眠りこけていたら、私たちは「数少ない機会(チャンス)」を逃すことになります。少年サムエルは、最初その「御声」の出所を判別できませんでしたが、エリ先生のアドバイス通りに、「言葉の備え」をして待機していました。「主よ、あなたは誰ですか?私はあなたの語りかけを待っていました。どうぞお語り下さい!」と。


すぐに来られる方
 私たちの愛する花婿「主イエス・キリスト」は、突然来られます!その到着される時が、いつになるか定かではありませんが、実際に「来つつある(I am coming soon)!」のです。イエス・キリストは決して、「今から帰って来るからね(I will come)!」などとは言われません。そうです!帰って来つつあるのです。どの場所まで来ているのか分りませんが、実際に花嫁の元に来つつあり、それはすぐ目前に迫っているかも知れません。あなたがこの章を読んでいる最中にも、あなたの「霊の戸口」の前で、ノックして下さっているかも知れません。


 私たちは、実際花婿が帰って来られた時、「え!あなたは確かI will comeと言ってましたが・・・・。」などと、眠そうな顔をして答えるでしょうか?イエス・キリストは、今すぐにも「来つつある」のです!「来つつある」このイメージは、もうノックする状態に近づいていると把握すべきです。そしてこの時の「soon」とは、「間もなく」とか「いずれ」を意味する言葉ではなく、「すぐに」と訳してもよい程の、間近に迫り来るイメージの言葉です。私たちの愛する花婿は、決して「御座」にだけ座しておられる、遠い遠い存在ではありません。私たちの愛する花婿は、いつでも聖霊様を通してノックして下さる、近い近い(親しい)方です。


 前述したように、霊的に愚かな人々はそのノック音に対して、「え!私は全く聞こえませんでした。」などと答えるでしょう。何故彼らは、花婿の立てる「御音」が聞こえないのでしょうか?彼らは「自分の業」を為すことに専念していたからです。つまり賢い五人の乙女のように、主イエス・キリストの臨在を、敏感にキャッチすることができるほど、霊的に研ぎ澄まされた感性を、彼らは持っていません。


 だからこそ、聖霊様は言われます。「言葉の備えをしなさい!あなたの愛する花婿が、愛のメッセージを携えて持って来た時に、あなたは霊的に如何なる言葉をもって、備え待ち臨みますか?」と。私たちが備えるべき、「霊の言葉」は只一つです。「私の愛する方!お帰りなさいませ。私はあなた様のお帰りを、心からお待ちしておりました。」ですから私たちは、聖霊様を通して与えられる「霊の言葉」をもって、只一つのことをひたすら願って止みません。「花婿なる主イエス・キリストよ、早く来て下さい!私の元に、今すぐにでも帰って来て下さい!あなたを求めています。あなたと永遠の愛の契りを結び、一体化されるその至福の時を待ちわびています。聖霊様、もっと私の霊の只中から、美しく造り変えて下さい!花婿との最高の出会いの時に、ふさわしく美しく整えられますように!私の顔からイエス・キリストに対して、本当に美しい愛の耀きを、放つことができますように!私の耳が愛する方の足音に、敏感にキャッチすることができますように!私の眼、唇、あらゆる器官が、愛する主イエス・キリストとの交わりだけを求める、聖なるパーツとして造り変えて下さい!私に足らぬところがありましたら、どうぞ聖霊様、備えて下さい!


 花婿なる主イエス・キリストは、今まさにあなたの「霊」の只中に、入って来られようとしています。「その時」にあなたは、霊的に何も備えができていない、愚かなグループに属していることを望みますか?たとえ他人から、「何ら大きな主の働きをしていない者」、「何のミニストリーにも携わろうとしない者」、「何の役にも立たない者」などと軽蔑されても、只ひたすら主イエス・キリストとの、聖なる麗しい「婚礼(祝宴)の時」にあやかりたい!そして愛する花婿と一つになりたい!と熱望する、賢いグループの一員に連なりたいのであれば、霊的に「三つの備え」ができているかを、毎回聖霊様にチェックして戴きながら、日々聖霊による「新しい変革」を受け取ることが必要です。そうすれば、聖霊様はあなたをエステルの如く、特別に美しい「最高の花嫁」に仕立てて下さいます!


 最後に、もう一度問います。「あなたは、花婿なる主イエス・キリストが、あなたの元に今まさに近づきつつある、その足音が聞こえていますか?


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

英語版(エステル処方)は以下から! 


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