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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.10)

                第三の波紋−神の栄光の力−




モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」と言うと、主は言われた。「私はあなたの前に全ての私の善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、尚生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所が私の傍らにある。あなたはその岩の側に立ちなさい。我が栄光が通り過ぎる時、私はあなたをその岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、私の手であなたを覆う。私が手を離す時、あなたは私の後ろを見るが、私の顔は見えない。」
                                                                                             【出エジプト記33章18〜23節】


御顔を求め続けたモーセ
 神の人モーセは、神の「栄光の御顔」を求めて止まなかった、第一人者の一人です。彼はイスラエルの指導者として召し出される直前、燃える柴の中に臨在される、父なる神の「御声」を一度聞きました。しかしこの時は、父なる神ご自身の「御顔」を拝することができませんでした。ですからその後の彼は、イスラエルの民を指導していく中で、様々な苦境を乗り越えていく時にも、神の「御声」を先ず求め、その後に神の「御声」に聞き従う姿勢を貫き通します。


 神は決して、イスラエルの民を苦しめるために、砂漠に引きずり出したのではなく、神の「御心」に沿う「正しい方向」へと誘うため、麗しく力ある「御業」をもって導いていることを、モーセは父なる神との「親しい交わり」の中で、常に感じ取っていました。しかし、イスラエルの民の殆どの者が、父の「御声」の真意を理解することなく益々反逆して行き、その度に「懲らしめ」を受けます。


 そしてその中で、モーセは度々「主よ!あなたの善意は、どこにあるのですか?」などと問いかけますが、神が語られる「御声」に聞き入る時、彼は聖霊の促しに更に従って行くようになります。そして従って行けば行く程、神の「御心」がこの地に現されるのを目の当たりにする時、父の「御声」を聞くことだけに満足することなく、「語りかけて下さる父ご自身にお会いして、直接面と向かって語り合いたい!」などと願う、激しい「飢え渇き」が増していったのではないでしょうか。


 そして遂に、彼は二度目のシナイ山登頂の時に、父なる神に訴え出ます。「どうか、あなたの栄光をお示し下さい。」・・・・このモーセの言葉は、単に父なる神の「栄光」、即ち「輝かしい光」を見せて下さい!などと、神に懇願している言葉でしょうか?例えば、私が愛する妻に何かを訴える(お願いする)時に、妻の「顔」を見ないで「訴え(願い)」を語ったとしたら・・・・。「あなたー、誰に言っているの!?」などと、すぐにも怒られてしまうことでしょう(逆のケースも同様ですが・・・・)。


 私たちが、ある人に何かを訴えたり要求する時には、必ずその人の「顔」、特にその人の「眼」を見て語っています。又、その人に直接対面して(近づいて)話さないでしょうか?それと同様に、モーセが神の「御顔」を見ることを求め始めた時に、彼の心を捕らえて離さなかった「霊の渇望」は、父の麗しい栄光に満ちた聖なる臨在ばかりでなく、臨在から輝き出る栄光の源、即ち神ご自身の「御顔」を追い求めることだったのです。ですから、モーセはこの言葉を語りながらも、彼の「霊」の激しい要求(うめき)としては、「あなたの麗しい、輝きに満ち溢れた栄光の御顔を、この私に向けてお示し下さい!」と訴え出たのです。


自己に死す時
 しかしモーセの「訴え」に対する、父なる神ご自身の回答は、「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」という、厳しい内容のものでした。この神の回答に関してトミー・テニーは、父の「御心」の真意を「私はこれ以上近づけない。何故なら、もし私が近づいたら、あなたの肉は破壊されるからだ。もしあなたが死ぬなら、私もあなたに近づけることを理解して欲しい」(注1)と解釈しています。更にテニーは、この神の御言葉に関する奥義として、「神は、神の栄光を運ぶことができる死んだ者を捜しておられます。自分の計画に死んだ者を求めておられるのです。」(注2)と述べています。「死んだ者」のみが「見る」ことができる、これは奥義の中でも非常に重要な真理であり、パウロ神学の中心がここにあります。


 私たちが、「我」という自我の中に生き続ける限り、神ご自身の「御顔」を見ることができません。しかし私たち自身が、イエス・キリストと同じように十字架につけられ、「我」に頼って生きることを放棄し、イエス・キリストと共に「自我」に死ぬのであれば、イエス・キリストと同じ聖霊の「力」にあずかり、聖霊によって共に復活し、新しい「霊の次元」の中でイエス・キリストと相まみえ、かつ「親しい交わり」を持つことが可能になります。この「イエス・キリストにあって生きる」ことを可能にする、「霊的再創造」の恵みについて、パウロは自らの体験をもって述べています。この点についてA・マーレーは、次のように教え導いています。「私たちが日毎に死に、イエスの死を身に負い、肉と自我が常に十字架につけられ、殺され、神による死の宣告が、いつも私たちの内にある時、イエスの命は私たちの内に現されるのです。」(注3)ですからモーセに語られた、父なる神のこの御言葉は、非常に重要な奥義であることを、私たちは再確認する必要があります。


モーセがシナイ山を下った時、その手には二枚の掟の板があった。モーセは山から下った時、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
                                                                                                    【出エジプト記34章29節】


 その後モーセは、自分の「肉眼」で神を見ることはできませんでしたが、父なる神は彼の立っている場所から、ほんの二、三メートル位の距離にまで近づき、聖なる臨在の中で彼に話しかけられました。モーセは神と語り合う中で、自分の顔が「神の栄光」の輝きを放っていることに気付かない程、神の臨在に覆い尽くされていました。彼は、直接神の「御顔」を見ることはできませんでしたが、「霊」と「霊」の語り合いの中で、「神の栄光」に覆われる時、つまり神の麗しい「御顔の輝き」が、自分の「霊」全体を覆い始める時、自分の「顔」が「神の栄光」を放つ顔に、造り変えられていたのです。


 それと同様に、私たちの「霊」が「神の栄光」に覆われていく時、主イエス・キリストを追い求める「霊の言葉」が、「生ける水」のように私たちの唇からほとばしり、私たちの「顔」そのものも、「神の栄光」の輝きを放つ、美しい「顔」に造り変えられることを約束しています。つまり、私たちの五体が聖霊の「新しい力」によって、イエス・キリストと共に「十字架」上で死す時、今度は「霊」そのものが復活し始め、私たちの五体(特に眼・耳・唇)は、もはや「古い体」ではなく、新しい「イエス・キリストの肢体」として、「霊の眼」や「霊の耳」、そして「霊の唇」などへと、それぞれ造りかえられます。そして遂には、イエス・キリストの「御顔」に接することのできる、新しい「霊の次元」にあずかるようになるのです。


 もう一度繰り返しますが、私たちの顔(体)が「肉の次元」に覆われている限り、神の麗しい「御顔」を見ることはできません。しかしイエス・キリストによる、「十字架の血潮」によって私たちが聖められ、聖霊によって「新しい力」を着せられた(覆われた)時から、私たちの「霊」が復活し始め、イエス・キリストを追い求めて止まない「霊の眼」、又イエス・キリストの「栄光」の御名を讃美する「霊の唇」、そしてイエス・キリストの「御心」を、捜し求めて止まない「霊の耳」が活動し始めるのです。


サウロとパウロ



サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、何故、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたの為すべき事が知らされる。」・・・・ところで、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。幻の中で主が・・・・「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名の為にどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」そこで、アナニヤは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「・・・・主イエスは、あなたが元通り目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになった。
                                                                                                        【使徒行伝9章1〜18節】


 「サウロ」という名前の持つ霊的意味合いは、肉の次元に生き、肉の力、つまり「自分の栄光」を追い求める者を指し示しています。それに対して「パウロ」とは、霊の次元に生き、霊の源である「イエス・キリストの栄光」を追い求める者のことです。このように「サウロ」と「パウロ」とでは、霊的に180度違った生き方をする対立した名前です。


 かつて「サウロ」であったパウロは、ご存知のようにエリート(高学歴)出身で、語学に堪能であった人物です。彼は数ヶ国語の言語を巧みに操り、しかも雄弁なメッセンジャーとしての才覚に恵まれていました。彼は若い頃から出世街道をひた走り、しかも「出世頭」として期待される新人の一人でした。いずれは律法の専門家(教師)として、指導的地位に就くことを約束された人生を歩んでいました。又当然のことながら、彼は律法に精通していましたから、律法の教えに背く者をことごとく軽蔑し、違反者には厳重な裁きをもって懲らしめることを使命とする、そんな若者だったのです。


 彼は常に、「肉の眼」をもって人々を見下しました。そして彼の両眼は、律法に背く者をことごとく罰するために、又違反者たちを追跡する(捜し求める)ために、四六時中眼に「力」がみなぎっていました。そして彼の唇は、肉的には数ヶ国語を話す「力」を持ち、彼の耳は律法の教えに背く者の情報を、常に漏れなく聞き逃さないようにと、全精力を「律法の裁き」に傾けていたのです。


 最終的に彼は、旧約の教えに反する新興勢力、即ちイエス・キリストの弟子たちの拡大を抑えるべく、祭司長グループから特捜部隊のリーダーに抜擢されます。この特捜部隊は、言わば特高警察(或いは旧ソ連時代のKGB)のような非合法権力組織であり、律法に背く者を追跡し逮捕するためには、如何なる手段を行使しても許可されるなど、絶大な権限を持っていたのです。


 「聖霊革命」以後のイエス・キリストの弟子たちは、決して「逃亡者」として逃げ回っていた訳ではありませんでしたが、サウロは彼ら一味をことごとく逮捕するべく、吼え猛る獅子の如く追跡し続けました。ある面で彼は、名目上は追跡と逮捕に携わっていましたが、「人間狩り」に夢中になっていたのではないでしょうか!ナチスが、「ユダヤ人」を地上から全て抹殺するために、「人間狩り」を実行したのと同様に、サウロはキリスト者全てを刈るべく、血眼になって追跡したのです。そして恐らく、彼は自分が逮捕し処刑した、その実績(人数)を誇っていたことでしょう。ですから「サウロ」とは、まさしく「肉の次元」に熱狂し、「肉の力(栄光)」を頼みとした人物だったのです。彼は、自分の栄光のために「キリスト者」を追跡し、逮捕し連行する仕事(ミッション)に明け暮れていました。ところで、何故彼の両眼は神に打たれたのでしょうか?それは、「肉の次元」に生きる彼の両眼が、「追跡者の眼」だったからです。


 その後彼は、ある事件に遭遇します。彼の信じていた律法の価値観を、根底から覆す程の出来事に、彼の肉眼が釘付けになります。そして、その出来事のシーン一つ一つが、彼の脳裏から消し去ることができない、強烈なインパクトとして残ることになります。彼はその事件の時、「傍観者」のつもりでした。彼は直接、その逮捕(事件)に携わった訳ではなく、只人々を扇動したに過ぎません。彼は、その事件の被告人の「処刑」が始まった時も、決して「裁きの石」を手に持つことはなく、群集を挑発しただけです。


 彼は、いよいよ「石打の刑」が始まろうとした時に、「よし!これで、連中の中で有力な使徒の一人を、この世から抹殺できるぞ!」などと自己満足に浸りながら、「その時」を待っていました。つまり、この使徒が死ぬ間際に、如何なる命乞いをするかを期待しながら、「処刑の時」を待っていたのです。逮捕したキリスト者の殆どは、イエス・キリストを否定することなく、刑罰を受けていくのですが、中には途中で挫折する者も極少数いた経験から、恐らく死刑の中でも極刑の一つ、「石打の刑」に対してこの使徒は、今でこそ強気の態度をしていても、石が投げられ自分の体が傷つけられていく途中で、「止めてくれ、お願いだ!あなた方の言うことは何でも聞くから、命だけは助けてくれ!」などと命乞いするだろう・・・・と。


 ところが、実際「石打の刑」が始まって、これ以上投石すると死んでしまう状態に差し掛かっても、この使徒ステパノは命乞いするどころか、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい。主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」と、神に祈り出したではありませんか!どうして?どうしてそんな事ができるんだ!・・・・彼はその場に平静に立ち続けることができずに、とうとう座り込んでしまったのです。


 「石打の刑」が終わると群集はその場を去り、誰もいなくなった訳ですが、サウロの眼にはこの出来事の、最初から最後までの各シーンがリプレイされ、しばらく呆然と座り込んだままでした。そして、彼の目の前には余りにも無残な、血だらけに腫れ上ったステパノの「むくろ」が、横たわっているのです。しかしよく見ると、ステパノの「死顔」からは、決して苦痛に耐えかねた恐ろしい形相ではなく、生きた人間でも今まで見たことがない程の、「真の喜び」に満ちた「顔の輝き」が、生きているかのように放たれているではありませんか!


 サウロはこの時から、良い意味での「悪夢」にうなされ始めます。その夢の中では、必ずステパノの「顔の輝き」と、群集から吐き捨てられる悪しき「ののしり」が繰り返されます。そして、ステパノが祈った最後の言葉が、夢の中の彼の眼と耳を苦しめ、サウロは起きている時にも苦しむようになります。「何故あいつは、命乞いして回心しなかったのか?何故あいつの顔は、あんなにも栄光ある麗しい顔で、死んでいくことができたんだろう?」などと自問自答を繰り返しながらも、何ら明らかな解答が得られないまま、彼の眼には何度も何度もあの時のシーンが繰り返され、焼き付いて離れません。ステパノは「石打の刑」に遭いながらも、「神の栄光」に包まれ、彼の顔からは「喜びの輝き」が、常に放たれていました。そして彼の唇からは、少しも「死」を恐れることなく、大胆に「神の栄光」を讃美する、「喜びの歌」が死ぬ直前まで流れていたのです。


 そしてサウロは、遂に「神の力」によって打たれることになります。打たれ方が、実に興味深いところです。彼は、自らの「両眼」をもってキリスト者を追跡し、逮捕し懲らしめたのと同じ方法で、神ご自身が直接サウロの「両眼」を打たれたのです。追跡者として、重要な働きをする彼の「両眼」から、神は「肉の光」を奪いました。その瞬間、彼は地に倒れました。何もできなくなったのです。主イエス・キリストの「栄光」を、肉の眼で見たが故にサウロは失明しました。ここに素晴らしい真理があります。つまりサウロは、肉の眼で「神の栄光」を見てしまった結果、彼の「肉なるもの」が死んだのです。彼はたとえ失明しても、尚特捜部隊の指揮権を持っていましたから、再び立ち上がり部下に対して、今まで通り必要な指示を与えてもよかったはずです。しかし彼は、何も為し得なくなったのです。この時の彼の状態を、ルカは正確に記述しています。サウロは、天からの光(神の栄光)を見た瞬間に、「地に倒れ」たのです。


 神が人を創造する際、土と塵をこねた人の造形を立った状態ではなく、伏した(横たえた)状態で創作しました。そして、この横たわった造形(状態)の中に、神は「聖霊の息(命)」を吹き込まれました。私たちが、自らの足で(肉の力によって)立つ限り、聖霊様は決して働かれません。むしろ私たちが「自己(自我)」に死に、自分の「弱さ」を完全に明け渡した状態、即ち霊的に横たわった時に初めて、天上から「新しい命」を、聖霊様は注ぎ込んで下さるのです。


 地に倒れたサウロは、次に主イエス・キリストの「御声」を聞くことになります。主イエス・キリストご自身が直接語られた、その「御声」を聞いた瞬間、彼の「霊」の只中にイエス・キリストが、生きるようになりました。そして、今まで迫害し敵と思っていたキリストの弟子の一人、アナニヤの按手の祈りにより、彼は再び視力を回復し、新しいキリスト者「パウロ」として、「見る」ことが可能になります。即ち、かつての「人間狩り」という「追跡者の眼」から、今度はイエス・キリストを「見る」ことを、追い求める者の眼に変革されたのです。「人」を見ることで、「自分の栄光」を追い求めるのではなく、全ての栄光の源主イエス・キリストを、「見る」ことを追い求める者に変革される、これは全て「聖霊の力」によるものです。又、サウロの肉の両手が、キリスト者を「縛り上げる」働きをしていたのに対し、パウロは自分の命を捧げ尽くし、この世の人々を霊的に「解き放つ」など、聖霊の手に造り変えられました。キリスト者を逮捕できる、この世の力(権力)によってではなく、人々をキリストの御元に捕らえることのできる、「天上の力」に仕える「聖霊の器」が、まさにこの時誕生したのです。


うろこが落ちる時
 ルカは、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになった。」と記述しています。アナニヤはルカに、正確に証言しました。彼の肉眼で、はっきりと見ることのできる何らかの物質が、パウロの失明した「肉眼」からポトリと落ちたのだと。その物質は、目に見ることのできる、「うろこ」の形状をした、一つの「膜(シールド)」でした。神の力によって、このシールドが除去された時に、彼の眼に「光」が差し込み、再び生き始めたのです。実はこの出来事の中に、私たちが霊的に知るべき、重要な奥義が示されています。


 私たちの「肉」を覆っている、「暗闇の勢力」を取り除くことのできる「力」は、神が用意される新しい「霊の次元」に生きるべく、「聖霊のバプテスマ」という、新しい「霊の扉(入口)」を通過しなければ、決して与えられません。ご存知のように、私たちは聖霊によってイエス・キリストを、「主(救い主)」として受け入れ、「水のバプテスマ」を受けます。しかし、私たちがこの「水のバプテスマ」の段階に生きている限り、決して「暗闇の勢力」というシールド(覆い)が、全て取り除かれる訳ではないことに気付きます。このことは、「聖霊のバプテスマ」という、新しい「霊の扉」を通過した後に気付くことですが、実際「聖霊のバプテスマ」を受けると、「何か」が変り始めます。


 何が変わり始めるのでしょうか?大きな変化は、先ず「肉の次元」で生きることを、放棄するようになることです。即ち「肉」が死の方向へと転換されて行き、「霊」がイエス・キリストによって復活し始めます。次に起こる霊的次元の最大の変革は、私たちの五感が「霊」の源であるイエス・キリストを、追い求めるようになることです。


 例えば肉体器官の「鼻」であっても、良き花の香りに喜びを感じ取るように、私たちの霊的嗅覚は、麗しい香り良き「シャロンの花」、主イエス・キリストを捜し求めるよう、霊的に研ぎ澄まされていくのです。麗しい主イエス・キリストの、「御顔」を見る「霊の眼」、麗しい主イエス・キリストに、「親しい交わり」の言葉をかける「霊の唇」、主イエス・キリストが語りかけられる、天上の力に満ちた「御声」を聞く「霊の耳」、そして何よりも主イエス・キリストご自身に接近して、麗しい「御顔」に直接触れることのできる「霊の手」、どの器官も「聖霊の力」によって、新しく再創造されていくのです。


 私たちが、「サウロ」のように「肉の次元」に生き続ける限り、私たちの「霊」は「肉のシールド(垂れ幕)」に覆われているため、私たちは自分の「肉の力」で、このシールドを破ることも取り除くこともできません。しかし、私たちの先駆者である主イエス・キリストが、既にこの「肉の覆い」を完全に取り除いて下さったこと、この事実に眼を向けましょう!「私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです。」(ヘブル書10章19〜20節)


 私たちの主イエス・キリストは、十字架上でご自身を「はん祭」として捧げられたことにより、全てのシールドを完全に打ち破られました。そして至聖所から、聖霊による「新しい光」が解き放たれる時に、「サウロ」が「パウロ」へと聖霊によって変革された時と同様に、私たちの唇は「新しい言葉」を語り出すことによって、「古い言葉」の覆いを打ち破ることが可能になります。そして、私たちはこの「新しい言葉」をもって、大胆にかつ自由に至聖所に入り、私たちの霊的花婿主イエス・キリストと、より親密に交わることのできる、素晴らしい特権が与えられています。その結果、私たちは変革されたパウロと同じように、主イエス・キリストの「御顔」だけを追い求める、「真の追跡者」へと変革されていくのです。


何のための変革か?
 マグダラヤのマリヤは、より多くの愛をもって、主イエス・キリストを追い求めました。同様に、私たちが主の「御顔」を更に求める時、モーセの顔から「主の栄光」が輝き出たように、麗しい「神の栄光」が私たちの「霊」の只中から、五体を通って輝き出ることを信じて下さい!私たちの「肉の力」で為し得なかった「霊」の支配の法則が、麗しい主イエス・キリストの、栄光の「御顔」を追い求める時に、私たちが神の素晴らしい栄光を現す器、即ち御子イエス・キリストに似た者へと、自然に変革されていることに気付くでしょう。


 え!?私たちはサウロと同程度、「肉の次元」に支配された者ではありません!などと言い切れるレベルの者でしょうか!人を見下す「眼」を持っていませんか?人の言葉に、簡単に騙される「耳」を持っていませんか?人を言葉でもって、平気で傷つける「唇」を持っていませんか?自分の利益のためなら、人を平気で押しやる「手」を持っていませんか?自分だけ先のもの(ゴール)に行こうとする、「足」を持っていませんか?あたかも、満員電車の中に鮨詰めにされた状態の中で、自分のポジションを必死に守ることはあっても、あえて自分の場所を差し出す人は一人もいない、これが「肉の次元」に支配された、私たちの「現実の姿」です。


 特に今日の日本において、いつ自分がリストラされるか分らない状態にあっては、他人を顧み憐れむ人は殆どいないのではないでしょうか?その人の職業や身分(出身)、そして家柄や性別によって「見下す」、或いは偽りの眼で「見上げる(尊敬する)」ことが、私たち人間の常であります。サウロも、そのような人間の一人でした。自分の為す行為だけが正義であって、その他の人々に対しては、律法に違反する者は誰であろうと容赦なく裁きを下すなど、常に人を上から見下ろす態度を取っていました。


 このようなサウロの人生に対して、イエス・キリストはアナニヤの唇を通して語られました。「異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名の為にどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう。」サウロはイエス・キリストによって、何のために選び召し出されたのでしょうか?決して、「今後、更なる業績を上げるために選び召した。」などとは語られていません。それは、「私(イエス・キリスト)の苦しみにあずかる」ためです!


 これは、どういうことでしょうか?私たちは、キリストの栄光の「御顔」を追い求めます。又、キリストから約束として与えられる、素晴らしい「賜物」を求めます。更に「天上の力」を求めます。それは「私の業績」や、「私の力(実力)」を誇るためでしょうか?いいえ!何度も繰り返しますが、「私(自我)」の中(内側)から何一つ「良きもの」が、生まれ出ないことを常に悟って下さい!「私(自我)」が、十字架上でイエス・キリストと共に死す時に初めて、聖霊が私たちの「霊」を復活させ、イエス・キリストの「力」を帯びた者として、生きることが可能になるのです。


 ですから、私たちが主の「御顔」、主の「力」を求める目的は、主ご自身を求めることに他なりません。パウロ、つまり「新しいキリスト者」として歩み始めた彼の証言は、常に「迫害か!試練か!何ものも私と主から引き離すものはない!」などの力強い宣言であり、彼はもはや「主イエス・キリストの十字架以外に、誇るものは何一つない!只一つあるとすれば、弱い私を誇るだけだ!」と言い切れる程、喜んで「キリストの苦しみ」にあずかる人生へと、変革されたのです。


 私たちはこの世にあって、偉大なリバイバルの「働き人」の一員として、人々から賞賛されることを求めますか?それとも、「イエス・キリストの苦しみ」にあずかる人生を、全うできることを祈り求めますか?「苦しみの種」を蒔いた後には、何が待っているのでしょうか?聖書は、明確に約束しています。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩篇126篇5節)


 キリストの「苦しみの道」は、この世とは逆の方向に歩くことです。私たちが、イエス・キリストと共に苦しみに遭えば遭う程、イエス・キリストの「御顔」が更に近くなり、キリストにある「真の喜び」を見出すようになります。どうか聖霊の助けによって、私たちの「霊」がイエス・キリストの麗しい「御顔」を、捕らえて離すことがないように!又、私の中にある「サウロ」的な肉のシールドが、主イエス・キリストの十字架の血潮で、完全に取り除かれますように!自分の「肉の力」で何も為し得ないことを、常に教え導かれますように!イエス・キリストの、麗しい「御顔」のみを追い求める「弱い私」が、神に喜ばれる生きた聖なる「生贄」として捧げられますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


注1、トミー・テニー著『神を追い求める』(生ける水の川)108項から引用
注2、トミー・テニー(ハーザー1999・12月号)61項から引用
注3、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)243項から引用


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