バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.7)

                       第6章 変革の波紋



いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方は知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、わたしの証人となります。
                                                                                           【使徒行伝1章7〜8節(新改訳)】


 ご存知のように、この御言葉は「五旬節革命」以前に、イエス・キリストが約束の成就として、弟子たちに語られたものです。そしてこの御言葉は、確かに祈り求めていた百二十人の弟子たち全員に、聖霊の訪れをもって成就し始めました。この聖霊革命に始まった新約の歴史は、今や全世界に拡大し、至る所に於いて聖霊のメッセージが語られ、神の宮の栄光がイエス・キリストの花嫁エクレシアから、輝き放たれていることを神に感謝しようではありませんか!


 しかしそれと同時に、現実には未々聖霊の恵みを知らない(体験していない)、キリストの民が多くいます。そしてイエス・キリストの名を、「知識」として知りながらも、その素晴らしい力ある救いの御業を、受け取っていない人々が多くいることも事実です。又私たちが、何にもまして危惧することは、聖霊の力の恵みを受けた私たち「キリストの証人」が、未だ「力」の分野において、「五旬節革命」の時に起きた神の素晴らしい出来事と、同様の再現が為されていないことです。


 確かに大伝道者を通じて、アフリカ諸国の第三世界において、数十万人規模の救いの証言があるのも事実ですが、現実的にはそのようなカリスマ説教者が、この日本の大伝道大会の講師として招かれ、メッセージを語ったとしても、第三世界に見られる同規模の救いの証しが見られない(勿論、神のご計画によるものですが・・・・)ことも事実です。これは恐らく、私たち日本人キリスト者に、「神の為される御業は、器によらず!」ということを、神は教え導いているものと思われます。


しかし、時至らば
 イエス・キリストが語られたこの御言葉は、一つの遺言(約束の預言)でもあります。弟子たちはこの御言葉が語られる直前まで、師イエス・キリストに対して愚かな質問を繰り返しています。
「主よ!それはいつ、どこに起こるのでしょうか?」
それに対しイエス・キリストは、
「父が神の権威をもってお定めになった御心の時は、あなた方が知る必要はない!」
と強く諭した後で、
「しかし、時至らば・・・・」
次のようなことが起こると述べることになったのが、この御言葉です。
「しかしその時には、あなた方は天からの力を受ける!」主イエス・キリストは、明確に約束の言葉を宣言されました。「必ず受ける!」と。彼は決して、「受けるでしょう」とか、「受けるかもしれません」などと、優しい言葉をもって弟子たちを励ました訳ではありません。それは、神のタイム・スケジュールが、決められた通りに進んでいるように、「その時至らば、あなた方は必ず、天から力を受けるのだ!」と断言している御言葉です。


 私たちにも、「その時」が定められていることを信じますか?一人一人に、神が権威をもってお定めになった「その時」が、必ず用意されています。私たちは時折、「それは、いつでしょうか?」などと、疑問を持つ衝動に駆られます。しかし、神の時は既に決められており、「必ず来る!」ことだけを信じて待ち望む、これが私たちの信仰姿勢でなければなりません。


 百二十人の弟子たちは、イエス・キリストが約束された御言葉の成就を、実際に五旬節の「その時」に体験することになります。集まっていた彼らの上に、神の栄光の「その時」が訪れるや否や、聖霊の炎が降臨し、彼らの全身全霊を「神の力」が覆いました。そうです!「その時」至りて、「神の力」が臨んだのです。そして父なる神の「その時」は、8節に記述されている通りにエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤ、そして地の果てにまで、神の大いなる「力」の現れは拡大して行くのです。


 例えば池(泉、水溜まり)の中に、大きな石を投げ入れた時、果して何が起きるでしょうか?水の中に石がザブンと投げ込まれ、水しぶきをあげて沈むや否や、その投げ入れられたポイントを中心として、円形状の波が第一波、第二波、第三波と次々起こり、それが遠くへ拡散して行きます。この現象を「波紋」と呼びます。百二十人の弟子たちの「霊の泉」の中に、父なる神を通して聖霊が投入されるや否や、神の「力」が拡散して行きました。その拡がった先がエルサレムに始まり、ユダヤとサマリヤ、そして地の果てであり、彼ら全員が余すことなく、聖霊の導きにより拡散しました。


 神の素晴らしい「御国の力」の現れは、最初エルサレムを中心として為されました。使徒の代表ペテロが語った、異言のメッセージ(使徒行伝2・14〜36)を通して、一度に三千人規模の人々が神の救いにあずかり、エルサレムにエクレシア(家の教会)が次々と誕生しました。彼らは、イエス・キリストの遺言(約束の言葉)が成就し始めたのを、「五旬節革命」の初日だけ確認したのではなく、来る日も来る日も次々と体験します。しかし、彼らはあくまで聖霊にのみ従い、自分が先走りすること、つまり自分たちで「宣教計画」を打ち立て伝道団を結成するなどの、愚かなエゴイズムには陥りませんでした。とにかく聖霊様の指示通りに、コイノニア(聖徒の交わり)を基本として、エルサレムから聖霊による「変革の波紋」が拡散して行きました。


 その波紋は、続いて使徒8章の記述によると、このエルサレムの諸エクレシアに対して始まった、「大きな迫害」という事件の転機をもって、更にユダヤとサマリヤ方面に拡散していくことになります。神のご計画は、実に人の考えの及ばない事象の中で進んで行きます。彼らは、自分たちが望んでいる「形」や「方向」で、自らの意思によって拡散して行ったのではありません。神からの一方的な働きかけにより、彼らは再び「逃亡者」の如くに各地に散らされて行きました。何と不思議なことに、イエス・キリストが公生涯で体験した時と同様に、彼らはエルサレムでは受け入れられませんでした。


 そしてサマリヤにおいては、ピリポの派遣によって、「リバイバルの炎」が更に燃え拡がります。ダマスコにおいては、迫害者サウロが聖霊による大変革を受けて、使徒パウロの誕生を見ます。そして「五旬節革命」から十年後、ペテロを通して地の果てに住むコルネリウス一家に、聖霊の波紋は伝わります。そしてこのペテロ自身が、同朋ばかりでなく異邦人の救いの働きにも、携わっていくよう変革されるのです。この後更に十年を経て、エペソという外国(異教)の地に、波紋は拡大して行きます。


敵の攻撃ポイント
 ところで、エルサレムに始まった諸教会に対する「大迫害」は、霊的に如何なる奥義を示しているのでしょうか?ご存知のように、「最初の人」アダム(エバ)は、「神の霊(神の息吹)」に覆われて生きていました。それはあたかも、酸素を吸い込むかの如くに「神の霊(聖霊)」を呼吸しながら、生きることができる存在でした。そして彼らは、神の国の地上のフォーム「エデンの園」に住むことで、神の生ける「命の泉」に浸りながら生活していました。つまり、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ福音書4・14)の御言葉通りに、彼らは渇きを覚えた時はいつでも、自由に神の「命の水」を飲んでいました。


 しかしサタンは、彼らが自由に飲んで「霊」の中に溢れるほど溜めていた、まさにその「霊の泉」の中に、ある「石」を投げ込みました。その石は「自己中心」という、神に対する「頑なな意思」の現れでした。その石は、先ずエバの「霊の泉」に投げ込まれた瞬間、罪の波紋が彼女の全身全霊にまで行き渡り、遂にはその余波が夫アダムの「霊の泉」の中に拡散して行きました。その結果彼らの「霊」は死に絶える、つまり神の生ける「命の水」が、霊的に枯渇してしまったのです。それと同時に、五感を支配していた「霊」が、本来の機能を失ったために、「目」「耳」「唇」などのあらゆる器官が、元々備えられていた神との「親しい交わり」の機能を停止し、文字通りそれは「肉の器官」だけの機能になりました。


 さて私たちは、「聖霊のバプテスマ」を授かっただけで、イエス・キリストと同じ似姿に瞬時に変革され、全てのことにおいて勝利し得る存在になるのでしょうか?毛虫が「蛹(さなぎ)」から「蝶」へと変態し終え、自由に大空を羽ばたくことのできる、最終的な「体」になったとしても、今度は「鳥」という敵が常に狙いを定め攻撃して来るように、敵は様々な状況の中に存在しています。


 あなたの敵が、あなたのどの部分に狙いを定め、そして攻撃して来るかを、あなたはご存知ですか?「聖霊のバプテスマ」を授かったからと言って、自分の霊的フィールドから肉体的フィールド全般に渡って、外敵から侵略されないよう、聖霊様が「助け主」として日々私たちを守って下さる、それ故に私たちが安心して生きられる訳ではありません。大切なことは、敵は私たちの「弱点」を知っていること、そしてその敵に対して私たちは、「肉の力(努力)」では何も為し得ないことを、私たちが学ぶ(知る)必要があることです。


 あなたの敵は、あなたのどの部分を攻撃し、迫害して来るのでしょうか?大抵その攻撃ポイントは、次の三つの部分ではないでしょうか?それは①目、②耳、③唇です。アダムとエバを攻撃したように、この三つの部分に関しては全ての人が「弱点」であり、敵に対して完全に勝利している者は未だ存在しません。例えば、私たちは真実で正確な情報より、偽りの不正確な情報に踊らされて、それを信じてしまう性癖(弱点)があります。私たちを取り巻く環境は、正しい情報より偽りの情報に、多くさらされている危険性があるのです。そして、人々が勝手に考えた憶測とか、又ある種何らかの目的をもって、意図的に情報操作した偽りの情報によって、殆どの人が踊らされていることに気付いていません。


 国民の何人に一人の割合で、携帯電話を所有しているかは定かではありませんが、使用する用途の殆どが、音声による通話パターンではなく、メール(電子文字情報)のやり取りではないでしょうか?本来「メール(male)」とは、「手紙」のことです。文字を紙に直接筆記することで、互いに意思や情報などを伝達し合うこと、これが手紙のやりとりです。ところが今や「メール」は、携帯電話及びインターネット専門用語となり、ボタン操作による文字作成の後に、ピッ!ピッ!ピッ!・・・・と数回発信するだけで、相手方の携帯電話に何と数分も経ないで、文字情報を伝達することを可能にする、そんな便利用語の一つになっています。


 しかし、この「電子文字」は手紙などの作文と違って、短い作文形式になりがちです。できるだけ短時間に、伝えたい「情報」だけを作文する故、簡素な文章が作成されることになります。それに対し手紙などの「ふみ」は、書き手の気持ちや感情などがバラエティーに富んでいて、まるで「ふみ」の中から書き手の意思が、直接読み手の「心の耳」の中に聞こえてきたり、「心の目」に浮かぶが如くに、その「ふみ」は読み手の創造力を掻きたてます。まさしく、書き手の「心」を現すものが手紙です。


 しかし、「メール」は単なる電子文字に過ぎず、しかも文章が短いために、その「情報」は何となく意図的に「正確性」が削除される故、伝えられた「情報」を読む時、その情報に対する「正確性」が、読み手(受信者)の側の「解釈」如何により、判断の仕方が異なってくるのではないでしょうか!例えばある発信者が、「A君が事故を起こし負傷した!」という一つのニュース(情報)を、メールで送ります。するとある受信者Bは、A君の親友ということもあり、すぐにこの発信者に病院や事故の内容について、問い合わせのメールを入れることでしょう!しかし別の受信者Cは、「Aはこの前、俺にひどいことを言ったからなー、天罰が下ったんだ・・・・」などと、事実とは歪曲した解釈をし、Cのメール交換友人に、「Aは不幸な事故に遭遇。気の毒に!」という文字情報を発信した時点で、いかに「メール」の持つ文字情報が、真実性(正確性)から逸脱するかお分りになると思います。


敵の策略
 悪魔サタンは、私たちの「目」「耳」「唇」を攻撃することで、どのようにしようと企んでいるのでしょうか?偽りの情報によってかく乱することも一つの方法ですが、一番サタンが欲していることは、私たちをかく乱することで、本来私たちが「目」「耳」「唇」などの五感をもって、常に向けるべき「神」ご自身から、私たちを遠ざける(背を向ける)よう仕向けることにあります。神が「人」を創造される際、土と塵を練った「粘土」から、ご自分に似せて「ある形状」のかたまりを作製しました。その形状は「立った状態」ではなく、「伏した状態」でした。しかもこの「伏した物体」は、「うつ伏せ」ではなく「あお向け」、つまり顔(目・耳・唇)を常に天に向けるように作製されました。ここに「人」の持つ、本来のあるべき姿(フォーム)が物語られています。即ち「人」は、神の息吹を常に吸い易いように伏せられ、そして顔は天上に在ます父なる神を常に見上げるよう創造されているのです。


 だからこそサタンは、人が神を礼拝する姿勢を忌み嫌うのです。それ故「人」を神の方向に向けるのではなく、自分(自我)の方向へと仕向け、最終的には「世」の方向へ誘惑して行くのです。本来「人」はアダム(エバ)の罪が無ければ、いつでも自由に「目」「耳」「唇」をもって、神との「親しい交わり」に入る特権が与えられていました。神(天上)からもたらされるものは全て、聖なる正確な「ふみ(御心)」であり、私たちはこれを戴くことによって、初めて「生きる」ことができるのです。しかしサタンは、私たちの「霊の泉」の中に、「石の心(自己中心)」を落とすことで悪しき波紋を拡散させ、「目」「耳」「唇」を攻撃して行きます。そして敵は、あなたが神との「至聖所」の交わりに、入ろうとすればするほど容赦なく攻撃し、偽りの思いをもってかく乱するなど、祈りと礼拝を中断させようと試みて来ます。


 サタンは、かく乱することが目的ではなく、私たちが神との「親しい交わり」から離れる(背を向ける)ように仕向け、私たちが神と「直結する」ことを邪魔すること、即ち神とのパイプ・ラインを「通り良き状態」ではなく、何かものが「詰まった状態」にすることが、サタンの「やり口(常道)」です。パイプは、液体やガスを「ストレート」に流すためにあるものです。仮に、そのパイプ口径が狭過ぎたとしたら、大量の液体を瞬時に流すことは不可能で、ましてやそのパイプの中に何かが詰まっていたら、決して勢いよく流れることはありません。敵は、私たちの「肉」「魂」「霊」の全般を支配し、神とのパイプ・ラインを遮断したいと願っています。「目」「耳」「唇」という肉体上のパイプ・ラインが、悪しきもので詰まってしまう時、私たちの「霊」はいとも簡単にかく乱されるのです。


再建の順序
 それ故、私たちは自分の「エルサレム」について、先ず「知る」必要があります。私たちの「エルサレム」という領域は、何処にあるのでしょうか?それは私たちの「霊」の只中にあり、サタンは私たちの「霊」を常に支配しようと進入して来ます。次に「ユダヤ」とは、魂(内面性)の領域のことであり、「サマリヤ」は五感を司る肉体的領域のことです。


 「サマリヤ」が私たちの「体」を表すのに対し、「地の果て」は私たちの「体」とは、別の外界の領域である他の「体」、即ち他者(隣人)を表しています。「地の果て」に至るまで、聖霊の麗しい「命の革命」、即ち生ける「命の水」が豊かに溢れ流れ出るには、先ず私たちの「エルサレム」、そして「ユダヤ」から「サマリヤ」という領域において、完全な神の「命の力」がみなぎっていなければ、決して到達できるものではありません。「五旬節革命」という、聖霊の大降臨の恵みにあずかった、百二十人の弟子たちでさえ、各地でリバイバルの働き人として用いられましたが、至る所において「大迫害」を受け、その度に益々霊的に砕かれていく中で、主イエス・キリストと同じ「試練の歩み」を、全うすることができたのです。それと同時に、次のことも知っておく必要があります。それは、私たちは確かに「その時」、「聖霊のバプテスマ」を受け更に前進して行くのですが、必ず聖霊様が私たちの「エルサレム」を先ず再建し、続いて「ユダヤ」及び「サマリヤ」の再建へと、その霊的「変革のプロセス」を推し進められることです。


 父なる神は、あえてあなたの「霊」の中にも、霊的迫害の時を許されることがあります。それはあなたの「弱さ」を、もっと知らしめるためです。あなたは、自分の「目」「耳」「唇」という領域において、「弱さ」などあるはずがない!などと思っていないでしょうか?「私はいつでも、異言の祈りで勝利していますよ!」などと思っている方がいないでしょうか?いいえ!実際に父なる神からの「力」が注がれなければ、祈りさえ出て来ない時が多々あるのです。現実の私たちは、常に霊的弱さの中にあることを知って下さい。しかし、私たちは感謝しようではありませんか!だからこそ、聖霊様が必要なのです。そして、私たちが聖霊様を求め始めた時から、次のような祈りへと導かれるのです。「聖霊様!私を完全に建て直して下さい!私のエルサレムを先ず再建して下さい!私のユダヤとサマリヤにおいても、あなたの力を現して下さい!私のエルサレムに、霊的迫害が始まったことを感謝します。主よ!どうぞあなたの、聖なる力によって始まった大いなる御業を、私のエルサレムとユダヤ、そして更にサマリヤの中に完全に現して下さいますように!」


 主イエス・キリストは、ある律法の専門家との会話の中で、神の国の律法とは「①心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること、②隣人を自分のように愛すること」であり、この二つを守る(実行する)だけで、律法は全うされることを説明しました。しかし私たちは、この二つの律法の一番目に関して、「肉の力」で神を愛することができないことを知っています。聖霊を通してでなければ、神について何一つ悟ることも、信じることも不可能です。


 かつて、中国の有名な兵法家の一人、孫子が次のような「法」を説きました。「彼(他)を知り、己を知れば、百戦して危からず。」この文言の意図することは、他国(隣人)に関する正しい情報を把握し(知り)、かつ自国(自分)の持つ「力」を正しく認識していれば、たとえ他国(隣人)と何らかの戦い(争い、人間関係のトラブル)になったとしても、一度たりとも失敗(敗北)することはない!ということです。仮に他国(敵)に関することを、正しく知ろうとしないで、自国の驕りや高ぶりから判断し、「大した敵ではない!」などと見下すのであれば、それは一時的に勝利できても、必ず最終的に敗戦の憂き目に遭います(例・太平洋戦争)。私はこの中国の故事から、次のような真理を発見しました。「彼(イエス・キリスト)を知り、己を知れば、百戦して危からず。」


 つまり一番大事なことは、イエス・キリストをより深く「知る」ことが先決で、彼を知れば知るほど自分の「弱さ」が見えて来ます。そして自分の「不足」を謙虚に受け留めることで、よりイエス・キリストを求め、聖霊様の助けに依りすがるようになることです。そうすれば霊的な戦いだけでなく、様々な人間関係という戦いにおいても、私たちは害されることはありません。イエス・キリストも、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しないさい!」と語られたように、主を「知る(愛する)」ことを切に追い求めることで、私たちは「隣人を自分のように愛すること」が可能になるのです。


変革の波紋
 「五旬節革命」にもたらされた聖霊の上からの「力」は、百二十人の弟子たちの肉体上の、どの部分(器官)に先ず現れたのでしょうか?その時の出来事が、使徒行伝2章に明確に記述されています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(3〜4節)この記事から分かることは、先ず①「頭」の上に聖霊の炎が降り、そして次に②彼らの「唇」から、新しい言葉が一斉に語られたことです。即ち聖霊の炎が「頭」の上に降臨するや否や、聖霊の力が「唇」に移行し、その後に「新しい言葉」が流出しました。


 私たちが、神について「知っている」と一番に認識している器官は、まさしく「頭」ではないでしょうか!そして私たちの一番の弱点が、実は「頭」にあるのです。この「頭」を司る器官が、小脳にある「言語中枢神経」であることを、私たちは知識として知っています。例えば「そんなことは、私は知っていますよ!」などと思い上がるのは、「唇」という器官です。私たちの「目」「耳」「唇」というトイアングル(三角関係)器官の中で、一番主要な働きを占めているものが、やはりこの「唇」ではないでしょうか!言葉を認識するこの「唇」に、聖霊の「力」が上からの「しるし」として現されたこと自体、神の驚くべき「ご計画(御心)」にあると感じざるを得ません。


 私たちの「唇」ほど、サタンの「偽りの言葉」に毒されているものはありません。特に百二十人の弟子たちは、自分たちが結局イエス・キリストを裏切った者、つまり偽りの「唇」を持った者であることを十分自覚していました。彼ら全員が主君のもとを離れ、散り散りに逃亡したのです。誰一人として、イエス・キリストに最後まで付き従い、そして共に逮捕される者はいませんでした。ですから私たちは、この「唇」に始まり「目」と「耳」、その他あらゆる器官の隅々に至るまで、「完全な解放」が為されることを願って止みません。「新しい言葉」を伴う「聖霊のバプテスマ」を授かった者にとっても、未だに上からの解放が完全に為されておらず、「目」「耳」「唇」という領域が依然として、弱い状態にあることでしょうか!これら器官の全てが、完全に変革されていくことが聖霊様の願いです。


 私たちの器官は、通り良きパイプではなく、時々「詰まってしまう」ような不完全なパイプです。だから聖霊様は今も尚、「使徒行伝1章8節の御命令に立ち帰りなさい!」と、私たちに強く訴えかけているのです。又聖霊の上からの「力」を授けられた後に、私たちの変革には各段階が用意されてあり、先ず「エルサレム」に始まって、「ユダヤ」から「サマリヤ」へとその変革の波紋(プロセス)が進められ、それぞれの領域において勝利して行かなければなりません。


 それと同時に私たちは、各領域において必ず「弱さ」があることを認め、先ず何よりも聖霊様ご自身を更に求めるべきです!百二十人の弟子たちでさえ、「エルサレム」に始まった敵の迫害の中にあっても、聖霊様の様々な導きに従いつつ、少しずつ変革されながら前進して行ったが故に、「ユダヤ」そして「サマリヤ」の地において、リバイバルの器として用いられ、遂には迫害者(敵)の筆頭サウロの回心を経て、「地の果て」の宣教に導かれて行ったのです。私たちは「聖霊のバプテスマ」を授かり、上よりの「力」を受けたからといって、一気に全てのことが前進し勝利して行く訳ではありません。又、「聖霊のバプテスマを授かった我ら(ペンテコステ派)こそが、最高の働き人である!他の福音派の人々は、力無きキリスト者である!」などと、霊的に見下す「愚かな目」を持つ危険性があることをも、私たちは知る必要があります。


 そして私たちに与えられた「力」が、何のための「力」であるのか?即ち、私たちの「弱さ」に現れた聖霊の「力」は、何の為に授けられたのかを知る必要があります。簡単に「偽りごと」を言ってしまうこの「唇」、イエス・キリストから目をそらしてしまうこの「目」、イエス・キリストの御言葉より人の言葉に、つい耳を傾けてしまうこの「耳」・・・・、これらが完全に変革され、聖められることが何よりも重要ではないでしょうか!


 どうしたら聖められるのでしょうか?「聖霊様、もっともっと力を下さい!」などと祈るだけで、聖められるのでしょうか?そのような祈りをしたところで、何ら聖められることはありません。私たちは今一度、次のことを知ろうではありませんか!「イエス・キリストを知り、己を知れば、百戦して危からず。」と。一番大切なことは、イエス・キリストを「知る」ことを、更に求めることです。そして、その求める霊的飢え渇きを起こして下さる方は、常に聖霊様ですから、私たちは更に聖霊様を求めて行きましょう!


 何のための聖霊の「力」ですか?それは、イエス・キリストを「知る」ための「力」です。私たちの「エルサレム」という「霊」の只中に、イエス・キリストを「礎(いしずえ)」として築き上げる過程で、自分の中にある「罪(弱さ)」が聖められて初めて、聖霊の「変革」の働きがスタートしていくのです。つまり、「エルサレム」から始めなければならない、神の「御業」があるのです。霊の「礎」に、私たちは何を置きますか?サタンのもたらす、霊的に頑なな「石の心」ですか?それとも、麗しい「イエス・キリスト」ですか?イエス・キリストを「知る」ことを、切に追い求めるよう霊的飢え渇きを起こす力は、聖霊の「力」であることを今一度覚えて下さい!


 何か不思議な「しるし」や「業」を起こさせるために、聖霊の「力」があるのではありません!覚えて頂きたいことは、百二十人の弟子たち全員の「共通の弱点」に、聖霊の「力」が現れたことです。それは彼らの「弱き唇」が、「新しい言葉」を語ることによって、イエス・キリストを更に「知る者」として変革され、その語る言葉が以前の「古い言葉」ではなく、イエス・キリストのみを語る「霊の唇」へと再創造されたこと、これが聖霊の「力」の現れでした。


 イエス・キリストを「知る」とは、具体的にどのようなことでしょうか?「イエス・キリストについて知る」のと、「イエス・キリストそのものを知る」とでは、意味合いが違ってきます。「知る」とは、相手と交わることで初めて得られる、関係(状態)を示す言葉です。ですから聖霊様は、常に私たちに言われます。「イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを求め、イエス・キリストに渇きなさい!目・耳・唇から五体に至るまで、あなたの全身全霊をもって、神に喜ばれる生きた聖なる供え物を捧げなさい!」と。


 使徒行伝1章8節の最後の部分で、ルカは「わたしの証人となります。」という、約束の御言葉を記述しました。私たちは聖霊の「力」を授かった後に、必ず「イエス・キリストの証人」となるのです。「証人」の武器は何でしょうか?それは、まさしく「言葉(証言)」です。私たちは、聖霊の用意される「その時」至らば、必ず「証人」として招聘され、「証言台」に立つことになります。そして「証人」として出廷した時に、「証言する」ことになるのですが、その「証言」の内容が、意味不明でいい加減なものであるならば、誰も信じようとはしないでしょう。


 ですから「証人」の武器は、正しい情報と正しい証言、又立証できる「知恵の言葉」などです。先ず私たちは、「正しい情報」を求める「目」と「耳」を持っていなければなりません。第二に「正しい証言」を為す、「力」に満ち溢れた「唇」を持っていなければなりません。第三にその「証言」を立証することのできる、「知恵の言葉」を持っていなければなりません。これらは全て、あなたの中にあるのではなく、聖霊によって語る「新しい言葉」を通して与えられるものです。「新しい言葉」即ち「異言」は、「あなたの力」を生み出すためにあるのではなく、イエス・キリストにある「新しい力」をもって、あなた自身を建て上げるためにあるのです。


 あなたの「エルサレム」は、今どのような状態にありますか?そして、「エルサレム」から聖霊の大変革が為されるよう、次のように祈り求めて下さい!「イェス様、再びあなたを知りたいのです!主よ、私の弱さに現れて下さい!私のエルサレムを再建して下さい!私の全てを打ち砕いて下さっていることを感謝します。イエス・キリストを再び、霊の礎として置いて下さいますように!私の枯れ果てた井戸の中に、聖霊様の生ける命の水を豊かに注いで下さいますように!私のユダヤとサマリヤという領域においても、あなたとの命のパイプを、通り良き管(くだ)に造り変えて下さい!そして、敵からの攻撃にも臆することが無いほど、あなたとの強固な関係(交わり)を直ちに築いて下さいますように!そうすることによって、私は更にあなたを知ることができますから・・・・。私はあなたに渇いて止みません!私に始まった聖霊様の力が、注がれた『その時』を感謝します。私は必ず、あなたの『証人』になります。あなたの『証人』として、仕立てて下さることを信じます。」


 「聖霊の力」は着せられるものであり、そのように仕立て上げられるものです。決して「自分の力」によって、打ち立てていくものではありません。私たちの「霊」そのものに攻撃して来る、敵の足音にも敏感に察知できる、「霊の耳」を持とうではありませんか!そして普段何気なく会話し合う、その日常の会話の中にサタンは、霊の領域にまで踏み込んで来て、汚そうと企んでいることを知らなければなりません。サタンは私たちの「霊」の中に、「神の宮」が確立されるのではなく、「この世」を求めること、つまり神の忌み嫌う偶像(神から引き離すもの)を、確立することに奔走しています。


 何度も繰り返しますが、聖霊は何のために、その「力」を与えて下さるのですか?それは、私たちが再び神を見上げる者、つまり神を礼拝する者に創り変えるためです。聖霊による「変革」の御業が、益々私たちの「エルサレム」を建て直し、そして「ユダヤ」から「サマリヤ」を経て、更に「地の果て」に住む他の隣人たちへと至った時に、神の国の麗しい生ける「命の水」が、私たちの変革された「目」「耳」「唇」などの五感を通して、豊かに溢れ流れ出ますよう、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する