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言葉の革命(No.6)

                        第5章 言語革命



  アダムとエバに与えられた「言葉」は、本来創造主である父なる神との、「親しい交わり」のためにのみ用いられていました。そして彼らは、父なる神との交わりからもたらされる、「命の水」を自由に飲み、その後に夫婦の間でその「命の水」を分かち合うなど、神聖な「言語体系」が確立されていました。


 この「言語体系」の基本は、イエス・キリストがある律法の専門家との会話の中で言及された、御言葉の中に見られます(ルカ福音書10章)。それは、「神の国の麗しさというものは、只私たちが神との交わりを通して、私たちが全身全霊をもって求め続ける時に与えられること、そしてその求めに応じて、神の国から確かな『愛の言葉』が流れ始めた時に、己を愛するのと同じように、他の隣人にまで、神の国の麗しさが『神の国の言葉』となって、潤し満たし続ける。」という、一貫した神の国の「言葉のシステム」のことです。


 アダムとエバが罪を犯すまでは、この一貫した神の「言語体系」の法則が、彼らの言葉全体にありました。即ち、彼らは霊と真をもって(心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして)、父なる神を礼拝し、そして愛し求めた時に、神の国から「命の水」が豊かに流れ始めました。そして彼らの「霊」が、神の「命の水」で満ち溢れた時に、今度はその「命の水」を愛の言葉として表現し、「夫婦」で共に分かち合うという、素晴らしい関係が成立していたのです。


 しかしご存知のように、彼らは罪を犯しました。それは、「神との交わりから離れたこと」です。サタンの策略は、いつも同様のパターンで、人々を簡単に誘惑してきます。私たちが手と手を互いに取り合って、神の名のもとに一致し合う時に、神の国の「力(命の水)」は何の妨げも無く、勢いよく人々の間に流れていくのですが、サタンはこの「一致」を破壊するために、先ず神と私たちとの関係(親しい交わり)を、離そうと試みてきます。その誘惑の最初の犠牲者が、アダムとエバでした。


 この時の罪の結果、本来彼らに与えられていた、神の麗しい「言語体系」が基礎から崩壊し始め、その後「夫婦」という最初の人間関係の言葉を、自分の「肉の努力」で築き上げなければならなくなりました。そこには、かつて「エデンの園」で保持していた「永遠の聖さ」、「永遠の交わり」という「永遠性」は失われ、限りある一定期間内の一致(有限の一致)しかできなくなりました。その結果、既婚者の方々は多分思い当たる節があるでしょうが、ある時には果てしなき「エゴの闘争(ぶつかり合い)」が夫婦間で為されるという、神の国の麗しさとはかけ離れた、人間(自己)中心の「言語体系」が確立されていくことになったのです。
 
第一の言語革命


世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「煉瓦を作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりに煉瓦を、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いに言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
                                                                                                           【創世記10章1〜9節】


 先ず私たちが知らなければならないことは、父なる神の歴史における第一の言語革命は、「バベルの塔」建設時代にあったことです。そこで私たちは、「バベルの塔」の崩壊時の前後に、いったい何が起こり、それまで当時の人々が使用していた「言語体系」は、どのようなものであったのかを検証しながら、この第一の言語革命の持つ、霊的教訓について学んで参りましょう。


 先ず、彼らの共通言語の根幹となるものは、「エゴ」であったことです。「エゴ」のシンボルである「バベルの塔」の崩壊こそが、第一の言語革命でした。当時全ての民族が、共通の「言語体系」の中で生活を営んでいました。そのうち彼らは、共通した一つの目的をもって一致するようになります。そして遂に、その一致が大きなアクションとなって、実際に企てられ活動し始めたのです。「我々の手で一致して、世界最高の塔を建てようではないか!」という標語を掲げながら、工事が始まりました。


 ところで、日本史の戦国時代において、何故武士同士が合い争い、競い合って「一国一城」の主(あるじ)となるべく、築城に専念したのでしょうか?果して、敵国(他の領地の領主)からの侵入を防ぎ、自国の領域に暮らす平民たちの生活を守るために、例えば岐阜城や安土城(信長)、長浜城や大阪城(秀吉)などを、名高い戦国の大名の幹部武士たちが築城したのでしょうか?勿論「天下統一」という大使命(大義)の目的で、いずれは戦争終結のために、領土拡大を図る一つの布石として築城していったことが、主要目的であったかと思われます。


 しかし殆どの武士は、「一国一城」の主(あるじ)となって、例えば頭領である織田信長に自分の実力を認めてもらうなど、一つの「野心」から生じる目的(小義)でした。彼らは信長の配下にあって、石高を誇り合う武士集団に過ぎませんでした。彼らのつまらぬ野心のために、平民は戦乱の中で荒れ果てた農地や商業地から税を搾り取られ、或いは兵役を強いられるなど、築城のために過酷な労役を科せられました。彼らは誰一人として民を守るために、築城の前に城下町を整備する者はいなかったのです。全ては「親方様」のために、「自分の名」を誇り合う・・・・そんな時代だったのではないでしょうか!


 バベルの町に集まって来た人々は、一つの目的をもって遂に工事に着手しました。「バベルの塔」という、言わば「エゴ城」の築城に専念し出したのです。工事の方法は、どのように行われていったのでしょうか?3節には「石の代わりに煉瓦を、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」と記述されています。


 一般的に「煉瓦」は、土と藁をこねて混ぜ合わせ、全てが同一形として製品化するために、「型」に入れて乾燥させます。その後に釜の中で焼き上げるだけといった、建築材としては簡単かつ短時間で製品化できるものです。又「アスファルト」は、砕石や砂利などを重油と混ぜ合わせたもので、これも簡単に造り上げることができます。それに対し「石材」や「木材」は、先ずそれらが存在する「山」に奥深く入って行き、そこから切り出す(搬出する)など、手間と労力を要する作業工程です。「煉瓦」のように、形の整った石が最初から山に散在しているのであれば、只運搬するだけでいいのでしょうが、殆どの場合「岩山」に奥深く入り、岩盤をダイナマイトで爆発させて打ち砕き、その後ハンマーやのみを用いて何日もかかって切り落とし、ある程度必要な形に整えます。その後にようやく運搬に持ち込めるといった、非常に手間のかかる作業です。運搬された石材は全てが同一形ではないので、今度は一つ一つの石材を、隙間なく積み上げていく作業が待っています。これも非常に根気の要る、時間のかかる仕事です。


 「しっくい塗り」という壁工事にしても、石の粉(石灰)を先ず準備しそれを練り上げ、それを積み上げられた石材の内側や外側に、満遍なく塗り上げる「左官工」の技術が必要です。今日の壁工事は、最初から製品化された「石膏ボード」を、軽鉄にネジで打ち付けていくといった、単純かつ短時間作業で済みますが、当時は石切工から左官工に至るまで、全ての職人が協力し合って工程を進めていかなければならず、その工程には必ず根気の要るスケジュールもありますから、お互いに仕え合う姿が見られました。しかし、この時の「煉瓦」と「アスファルト」による工程は、「お前は土を練っておけ!俺は土を焼く!」など、表面的な連携プレーがあるだけでした。


 つまり「俺は、これだけすればいい!」という「自己中心的」作業の流れにより、ある面彼らは「奴隷(道具)」のように扱われ、労役に駆り立てられていたのです。良い表現を使うなら、「職業の専門分野化」のように見えますが、そこには人材を大切に取り扱いつつ、協力し仕え合う一致ではなく、一つの巨大なプロジェクトの企業理念に組み込まれた、ライン作業の連携プレーに過ぎなかったのです。ですからバベル工事においては、役に立たない者は即リストラされ、上役に従順で能力のある者のみが重用され、一般工員や土木建築作業員は、一つの道具としてしか扱われなかったのではないでしょうか!


 ところで、彼らの巨大な企業理念とは何だったのでしょうか?それは4節に記された、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようしよう」の言葉です。何故彼らは、「天まで届く塔のある町」を造らなければならなかったのでしょうか?それは「有名になる」ためです。トミー・テニーが指摘している、「エキュメニカル運動」の落とし穴がここにあります。彼は厳しく、次のように述べます。「敵は、偽りの一致を、いかにも賢そうな装いで持ちかけてきます。それは人間の造った煉瓦です。支配から生まれた、真理を忘れた、同化の上に成り立つ一致です。エキュメニカル主義(教会一致主義)は、薄められた教義と、作られた偽りの一致を提供してきました。エキュメニカル運動は、私たちの最高の召命と目的ではなく、最小公倍数を探し出し、それを保ち続けることを基盤としたものです。」(注1)


 キリスト教の諸グループが、一つになっていくこと自体は、良き事のように思われます。今日の日本経済を含めて、社会全体が「再編」という名目のもとに、一つになっていく傾向にあります。例えば銀行などの金融機関が、「合併」という方式で再編統合されていますが、何故昨日までライバル(商売敵)であった、他の銀行と「合併」するのでしょうか?それは生き残りを図ると同時に、経営陣自らの「名」を残そうとするからに他なりません。「名」が残りさえすれば、存続できるという単純な思惑があるからです。


 ところで大半の日本企業は、1980年代後半から、中国を始めとする東南アジア諸国に、工場を移して操業してきました。彼らの企業理念は、「人」を大事にするのではなく、あくまで「コスト(経費)」重視の経営です。アジア人労働力の方が、「日本人」を雇用するより、生産コストをかなり落とせるという理屈です。新聞の発表によれば、フリーター150万人、失業者375万人、ホームレス10万人と書かれていますが(平成14年3月時点)、実態は把握できない程の人数ではないかと思われます。しかもその数は、悪化(増加)傾向にあるのではないでしょうか!日本企業が「名」を残し生き延びるために、「日本人」を切り捨てる時代、これが今の日本の現実の姿です。


 キリスト教界の中にも、当然この種の再編(一致)が出て来ています。表向きは、「一致することで、神の国の働きが拡大し前進する!」ために一致していくのですが、それと同時に再編に組み込まれていく過程で、当然組織化された巨大集団になる訳ですから、その組織の実行委員職に就く教役者の「肩書き」や、「知名度」も「有名」になっていきます。ですから、そのような組織を「金太郎飴」のように横に切っていきますと、「タテワリ行政」の形しか見えてきません。つまり「ピラミッド化」された「上下支配型組織」です。そのような組織においては、「私は石切り、或いはしっくい塗りに徹します!」などと、率先して仕える者は殆どおらず、大抵の者が「私は監督をするから、未だ年若い君たちは煉瓦造りでもしていなさい!」と指示するだけです。


 「キリストの花嫁」と呼ばれる教会の中に、年功序列が幅を利かしていないでしょうか!世の中と同じシステムになっていないでしょうか!イエス・キリストは、「世」とは逆のシステム(神の国)造りに命を懸けられました。トミー・テニーは次のように述べます。「神がこの地上でなさりたいことは、人間が作った構造を捨てるときに実現されるでしょう。」(注2)神の国は幼子のような、純粋な心を持った人々にしか与えられません。イエス・キリストの元に集まって来た、弟子たちのプロフィールはどうでしたか?彼らは人々から蔑まされ、馬鹿にされたり邪魔者扱いにされるレベルの者たちでした。猟師、取税人、娼婦、女たち、子供たち、年寄り、病人・・・・皆社会的に「無力」な存在です。かつてサウロと呼ばれていたパウロ以外、エリートは殆どいません。ですから神の国のシステムは、「この世」とは違う次元にあることを、今一度覚えて下さい!


 バベル工事に従事した人々は、何故「有名」になることを目論んだのでしょうか?それは、世界一高い塔を建てることで、この「塔の偉大性」の噂が各地に広がり、引いては全世界の人々がこの塔を見るために集まって来る、つまり全ての人々を人間の造り上げた最高のシステム、「バベルの塔」の下に集め膝をかがめさせるという、サタンの意図する偽りの「一致」を完成することでした。彼らの目的は、「これこそが世界の中心都市」として、人々を偽りの「一致」に集め支配することだったのです。余談になりますが、「我こそは・・・・」という叫び合いの世界が、日本の戦国時代でした。つまり、自分こそが天下統一の明主(頭領)であると競い合った、まさしくバベルの人々と変わり無き「エゴイズム」が存在する時代、それが戦国時代でした。この「〜こそは」という概念は、例えば「私たちの地域から、日本のリバイバルが起きる!」などの、地域型一致運動から生まれる「掛け声」にも、時々見受けられるのではないでしょうか!トミー・テニーは、「リバイバル」という言葉を使うことに関して、次のように注意を喚起します。「神が為さりたいことに代わって人間の模範を立て上げてしまう」(注3)と。


 さて、父なる神は地上をご覧になって、このバベルの人々の始めた巨大プロジェクトが、もはや何人をもってしても、妨害はおろか中断することさえできないことを知りました。基礎工事から段々と、塔は天上に向けて築き上げられて行きます。人間中心主義という、「エゴ」の言語体系によって、彼らの間に巨大な一体化(一致)が生まれ、もはや神の「御心」に戻ろうとする者は、一人もいなくなったのです。そこで神は、彼らの一致をもたらした、この「エゴ」という言葉の根底を覆されました。それは人間中心主義の一致の中に、様々の「未知の言語」を降り注ぐことによって、言葉の混乱をもたらしたことです。この時にも、彼らの共通言語体系に、「異なった言葉」がもたらされました。しかしこの時は、神からの「祝福の賜物」としてではなく、神の「御心」に反した人間中心主義の計画を破壊するためでした。その結果、彼らは再び散らされていくことになり、バベルの塔を完成させることなく、建築途上でその場を去り、誰もこの「築城」に協力する者はいなくなったのです。


 そしてバベルの塔は、再び「土」と「塵」に帰することになる訳ですが、人間はこの「土」と「塵」から、神と同じような創造を試みたのです。ご存知のように父なる神は、「土」と「塵」から私たち人間を創造しました。創造する過程で彼らと違う点は、神はご自分の創造した作品(人間)と、親密な交わりをする目的で、「土」と「塵」を練り上げ、人の形を造り上げた時に、土くれに過ぎない物体の鼻に、ご自身の聖なる唇を重ね合わせ、「命の息吹(霊)」を吹き込まれた過程があることです。人間には、神のこの創造の過程を真似ることはできません。それ故「人」は罪を犯した結果、「土」と「塵」から、「自己中心」という人間の王国を造り上げることに、奔走することになったのです。しかし人は、「土」と「塵」から造ったものに、いかなる「力」を吹き込むことができません。


 そして神の国は、只神の側からの「命の息」によってのみ、「新しいもの」が産み出されていくという真理(創造の法則)が、ここから導き出されるのです。私たちが、神の「創造の法則」に素直に聞き従って、「主よ!同じように創造の御業を、あなたの霊(命の息)によって、今私の上にも為して下さい!」と、へり下って祈り求める時に、父なる神は私たちの「霊」の只中に、神の国を建設し始めるのです。それは只、命の息吹なる方「聖霊様」の働きによって為されていくのです。ですから、人間の一時的掛け声によって、如何なる「組織」や「力の共同体」を生み出したところで、それは決して神の国ではありません。「神の国は言葉ではなく力にある」(第1コリント4章20節)と記されているように、神の国は人間中心から生まれ出る、「古い言葉」にあるのではなく、只聖霊様が与えて下さる、「新しい言葉」によって現れ出る、神の国の「力」にあるのです。


第二の言語革命


・・・・炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
                                                                                                         【使徒行伝2章3〜4節】


 言語革命の「第二の革命」は、「五旬節(ペンテコステ)」の時です。この「五旬節」という時期に、ユダヤ民族は外国の各地(居留地)から、「五旬祭」を祝うためにエルサレム市街に集まって来ました。当時のエルサレムで語られていた共通語は、「アラム語」でした。故郷の祭りを祝うために、一時帰省し集まって来た人々にとって、「アラム語」は唯一の標準的な共通語であり、何の通訳を介することなく、コミュニケーションを図ることのできる、統一された言語システムでした。彼らが「アラム語」を語る時は、「五旬祭」の時のように、同朋との再会の時に限られていたもので、自分の出身地(居留地)に戻ればその地方の国語を語るという、最低二ヶ国語以上の会話能力がありました。


 仮にこの「五旬祭」で彼ら諸外国からの訪問者たちが、「アラム語」ではなく自分の出身地の母国語で、めいめいに語り出したら、祭りそのものが「お祝いムード」から一変して、バベル革命の時と同様の大混乱、恐らく外国語vs外国語という喧嘩状態に突入したのではないでしょうか!この祭りの流れを唯一支え、諸外国からのユダヤ人を一致させていた言語システム、それが「アラム語」だったのです。言わば「アラム語」による、人間中心主義の「一致」の只中に、突然聖霊による天上からの、「革命の炎」が降臨(点火)したのです。


 まるで爆弾でも落ちたかのような大音響の後に、ある屋敷の二階の大広間から訳の分らない大音響が、吼え猛るライオンの唸り声の如くに響き始めたのです。そうです!あの弱小集団百二十人全員の「唇」から、「アラム語」を吹き飛ばす程の、「新しい言葉」即ち諸外国語がほとばしり出たのです。百二十人の弟子たちは、「アラム語」しか語れないユダヤ人でした。一斉に始まったこの「異言」の放流水は、当然集まって来ていた人々の「耳」に流れ込んで行きます。殆どの者が、訳の分らぬ状態に包まれていく中で、一人一人が自分の出身地の母国語を、騒がしいサウンドの中から聞き取っていくのです。


 ある者は、
「ねー!あなたは今、彼らの言っていることを、うなずきながら聞き入っていたけれど、いったい彼らは何を語っているんだね?」
と尋ねます。すると理解でき始めた者たちが、次々と告白し出しました。
「彼らは、神の国の偉大な御業について語っているみたいなんだ!」
「そうそう、イエス・キリストは、今も尚生きておられ、私たちに新しい神の国の到来を告げ、そして聖霊という方を送って下さるべく、祝福して下さるそうだ!そのために彼らは、神から遣わされたキリストの証人である!と。」
「どうやら、彼ら全員が同じ内容のことを、彼らが話したこともない、新しい言葉によって語っているみたいなんだ!」


 集まって来た人々は皆、最初は異様なものでも眺めるかのように、この状態を遠巻きに見ていたのですが、弟子たちの告白の証言を聞くにつれ、驚きから感嘆へと移行していきました。そしてある者が、首をかしげながら次のように語りました。
「確か、あいつらは・・・・、イエス・キリストが十字架で処刑された時点で、逃亡した弟子のグループの一員のはずだが・・・・。」
「そう言えば確かに奴らは、ローマ総督府から指名手配された一員だ!何で一箇所に集まっているんだろう?まさか、暴動でも起こそうって気じゃあるまいな?今さらそんなことしたって、ローマ兵が駆けつけて来たら、皆逮捕され処刑されちまうぞ!」
「それもそうだ!彼らは噂によると、恐れの余り隠れ家にこもるほど、ビクビクしていたのに・・・・。見ろよ!今のあいつらの顔つきは、いったいどうしたことか!大胆な顔つきではないか!」
「いや違うね!あいつらは自暴自棄になって、多分気が狂ってしまっただけだよ!」
「そうそう!昨日の夜、遅くまで大酒を食らって、朝酔いが続いているんじゃないの?」
そんな会話が、次第に大きな情報源となって群集の間を駆け巡り、遂には何千人もの大集団へと膨れ上がりました。


 ところで百二十人の弟子たちは、この「五旬節革命」を迎えるに至って、何らかのプロジェクトを企画したり、革命を起こしていく上で、何らかの「目的」を持っていたのでしょうか?又、彼らは二階の奥座敷から一斉に外に出ていった時に、何か「行動プラン」を揚げるなどの、具体的な行動を始めたのでしょうか?弟子たちが、綿密に事前打ち合わせをした上でプロジェクトを立ち上げ、その後に実行に移っていったのでしょうか?いいえ!それは、まるで巨大な岩盤から突然噴出した、「間欠泉」のような出来事だったのです。つまりこの出来事は、誰も予期できないレベルで、彼ら百二十人の唇から始まり、アメリカのイエローストーン公園にある大噴水の如くに、神の国の偉大な御業が「新しい言葉」となって溢れ出したのです。


 その結果、百二十人の弱小集団の周りに大群衆が押し寄せ、ペテロの「異言のメッセージ」を聞くことになるのです。神の国の働きは、実に不思議な方法で為されます。必ず人知を遥かに超えた次元で、聖霊様主導の下に為されます。人間主導の下に為される働きは、必ず表面的には成功するかのように見えても、最終的にはバベル崩壊現象に至るものです。彼ら百二十人の唇を通して一斉に神の国の福音が、「新しい言葉」をもって語られ始めるや否や、散らされていた人々を集めることになったのです。百二十人の弟子たちが、言わば「百二十の言語(異言)」を聖霊主導の下に語り出す時に、百二十のグループが出来上がっていくのです。彼らがプロジェクトを立ち上げた訳でもないのに、一斉に神の国の宣教命令が「新しい言葉」をもって、ある面勝手に(神の御心通りに)動き始めたのです。彼らの為したことは只一つ、それは神の国の福音を、彼らの共通言語体系「アラム語」によってではなく、神の国の言語体系である「新しい言葉」、つまり「異言」をもって、聖霊が語らされるまま語り出したのです。彼らは自分の意志で、何かを語りたいと思ったのではありません。聖霊が語らされるままに、神の国の福音を伝えただけでした。


 彼らによって始まった神の国の建築工法は、如何なるものだったのでしょうか?それは、バベルの時とは逆の工法、即ち「霊的へりくだり」という基礎工事が、主要な工法でした。霊的に百二十人全員が、以前は頑なな「石の塊」であったのに、「五旬節革命」の訪れの時までに、様々な「エゴ」が打ち砕かれ、最終的には「石の粉(セメント)」へと取扱われました。そして、永遠の命の源「生ける石」なる主イエス・キリストが、彼らの信仰の基礎の上に、土台として固く据え付けられたのです。この神の国の工事を指揮する監督は、聖霊様であることを覚えて下さい。彼らは、誰が「リーダー(組織委員長、主任〜)」であるとか、職長(実行委員)であるとか言い争うこともなく、只互いに仕え合って、皆惜しみなく愛を出し合って、聖霊の指揮の下で前進していくのです。私たちが聖霊の監督の下に導かれる時に、「聖書的には、私たちは全員がしもべとしてお互いに相互的に服従すべきです。教役者たちが人々のしもべとなり、人々が教役者たちとお互いのしもべとなる時に、真の聖書的な一致が成し遂げられるのです。」(注4)と、トミー・テニーは指摘します。ですから、神の国の現場監督は聖霊様お一人であって、私たちは互いにイエス・キリストを中心として仕え合う、「しもべ」に過ぎません。


あなたにも革命の時が
 「五旬節革命」はこの時以来、今日も尚聖霊による「変革の炎」として燃え続け、拡大していることを忘れてはなりません!この「聖霊革命」を支配している言語体系は只一つ、神の国からもたらされる「新しい言葉」、即ち「異言」です。私たちに与えられる新しい言語体系は、本来のアダムとエバに与えられていた、神との「親しい交わり」の中で用い始めていく時に、必ず神の国から麗しい永遠の「命の泉」が流れ始め、散らされているキリストの民を集め、神の国の建築に携わるよう招かれていくのです。


 ですから私たちは、母親を慕い求める幼子(赤子)のように、更に主イエス・キリストに飢え渇き、激しく慕い求めましょう!百二十人の弟子たちが、「石の粉」にまで砕かれていく過程で、涙の叫びをもって祈り求めたように、私たちも父なる神に、「聖霊様!イエス・キリストという麗しい命の水が、もっと私に必要です!渇き求める私の異言に、どうか耳を傾けて下さい!」と泣き叫んで下さい!必ず「革命の炎」があなたの「舌」に、激しい「霊の言葉」となって降臨することでしょう!聖霊による「言葉の革命」は、まさにあなたの「霊」の泉から流れ出る、「異言」をもって推し進められていくでしょう!


注1、トミー・テニー著『神のドリームチーム』(生ける水の川)65項から引用
注2、トミー・テニー(ハーザー1999・11月号)54項から引用
注3、     〃
注4、トミー・テニー著『神のドリームチーム』(生ける水の川)82項から引用


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