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終末のエクレシア(No.34)

   「神の時」の法則を悟りなさい!




「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近付いたことが分かる。それと同じように、あなた方は、これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近付いていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらの事がみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」
                                    【マルコ福音書13章28~32節】


正しく「学ぶ(悟る)」ことの重要性
 創造主なる神が定めた「Xデイ(完全な終わり)」の時に向けて、御子イエス・キリストは、いよいよ行動される訳ですが、何の「兆し(予兆)」も無いまま、突然に来臨されることはありません。今回イエス・キリストが示される、九番目の「備え」は、簡単に言えば「学びなさい!」ということです。


 私たちが幼子の如くに、純粋に「神の時」に関して、①絶えず渇き続け、②激しく慕い求め続け、③熱心に叩き続け、その法則に従って④一歩すづ前進し続ける者には、必ず正しい「気付き」が備わって行きます。先ず私たちが知らなければならない、今回の重要ポイントは、①「人の時」の法則ではなく、「神の時」の法則の中で生きることが、霊的に正しい(安定した)道である!という点です。


 例えば「朝令暮改」の故事にあるように、人が為す事柄の殆どは、必ず「人の時」如何によって変わる、つまり不安定なものです。また別の故事として「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という、有名な「戒め」があります。これは、過去に被ったトラブルや、失敗などの嫌な経験を、喉元の「熱さ」に喩えていますが、その「熱さ」を忘れた者は、必ず同じトラブル、若しくはそれ以上の失敗を繰り返します。このように「人の時」は、一時的な「学び」は出来ても、正しく継続できる「学び」には至りません。


 しかし「神の時」の場合、これは一時的なものではなく、永遠に続くものですから、その法則も変わることがありません。「神の時」の不変の法則は、「アルファでありオメガなる方は、創始した事柄を必ず完成へと至らしめる!」ことです。ですから、神による天地創造が開始された以上、その「完成(終わり)の時」が、既に定められていることを、先ず覚えておくべきです!この「神の時」の法則を、正しく学びさえすれば、私たちは信仰を働かせ、「神の時」の法則に従いながら、「その時」に備えることが出来ます。そう!「完成の時」である、イエス・キリストの来臨に向けて。


「いちじくの木」から学ぶこと
 「神の時」の不変の法則に関して、イエス・キリストは今回、「いちじくの木」を喩えとして説明しました。実は「いちじくの木」の成長過程は、イスラエル民族の歴史を指しています。即ち彼らの歴史を学ぶことで、彼らの「今」が如何なる時にあり、それが全世界に如何なる「実(影響)」を及ぼしているのか等、「神の時」にある彼らの霊的位置付けが、必ず見えて来るからです。


 今の「いちじくの木(イスラエル)」は、非常に重要な「時」に至っています。アブラハムから始まった、父なる神とのイスラエルの民との、麗しい祝福の「契約」は、遂に「オメガの時」を迎えているからです。そうです!イエス・キリストの「救い(贖い)」のご計画が、最終的に完成されるのが「今の時」です。いよいよ彼らが「豊かな実」を結ぶ国家として、世界の至る所に枝を張り巡らす、「いちじくの木」に成長している訳ですが、やがては秋の収穫を終える「冬」、即ち「オメガの時」を迎えます。


 イエス・キリストは今回の喩えにおいて、何が近付いているのかを、①先ず見て、②小さな音も聞き逃さず、③「神の時」の中で「今」がいつ頃なのかを、絶えず学ぶ(探り求める)必要があることを、強く警告しています。つまり「いちじくの木」の葉が、いつ頃生い茂るのか、正しく探求して行く如くに、イエス・キリストが戸口に近付いていることを、私たちは悟る(キャッチする)ことが重要です。


 「悟る」者は必ず、①正しく学んで、その後に②備えることに移行します。ですから人の子(イエス・キリスト)が、戸口に立つべく近付いていることを、私たちは「今の時」から霊的に学んで、いつ来られても良いように、(お迎えすべく)準備しておくことが、非常に重要となります。イエス・キリストが、「戸口」に立つ理由は何でしょうか?そして「誰」の戸口に立つのでしょうか?


見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。
                                    【ヨハネ黙示録3章20節】


 「見よ」とは、(対象物を)見ることではなく、原語としては「(ある音を)聞きなさい(耳を澄ましなさい)!」です。如何なる音を聞くのでしょうか?人の子が戸口に立つ(優しく近づいて来て、しっかりとした足取りで立つ)音です。そして人の子が、戸口に立って叩いた時に、その音を聞いて「待ってました!」とばかりに、戸口を開ける者が居るから、人の子は戸口に立つのです。そして中に入り、「その者」と共に食事(親しい交わり)をする為です。「その者」とは、賢い乙女(キリストの花嫁)です。


 人の子が戸口に立つのを聞き逃す者は、「その時」が来ても分からず、遂には「ニセモノ」をメシアとして受け入れ、獣の刻印(666コード)を打つことになります。しかし「小羊の刻印」を押された乙女たちは、いちじくの木が如何なる時にあるのか、即ち人の子(イエス・キリスト)がイスラエルに対して、如何なる「実り(ご計画)」を結実しようとしているのかを、ひたすら学び続けるのです。「その時」に備える為に。


 聖霊様は乙女たちを励まします。「もう、そろそろです!備えに怠りはありませんか?油は足りていますか?人の子は、あなた方を迎えに来て、共に食事をすることを、一番に楽しみにしておられます!」と。主なる神は聖霊様を通して、私たちキリスト者に対して、霊的なシグナル(アラーム)を、絶えず発信しておられます。「見よ(耳を澄ましなさい)!」と。


 私たちは、日々「世」に暮らしている以上、世的な事に追われている、それが現実です。しかし「朝」に「夕」に、先ずは「戸口」に座して祈り、「その時」に備えることが、私たちが一番に為すべき、大切な「務め(霊的レッスン)」です!「学ぶ」とは、①過去及び現在(今)において為した、様々な「熱さ(失敗、愚行、逸脱した経験等)」を顧みて(霊的な教訓として学び)、②神の新しい「御業」を待ち望みつつ、正しく備える(身構える)ことです。


 「今の時」は、極端な言い回しになりますが、もはや「直前の時」、即ち「人の子」が戸口を叩く、その動作に移る最終段階です。そういう意味で、日本の「いちじくの木」は、非常に危険極まるシーズン(冬の前)に入っています。多くの日本人が益々、悪魔の奴隷と化しているからです。しかし「秋」が終わった訳ではありません!大収穫に備えるべく、日々「鎌」と「鋤」を研ぎ続ける、賢い「ルツ(乙女たち)の群れ」が、いよいよ出かけて行く、そんな「神の時」が用意されています。


 素晴らしい神の「栄光」の訪れの時が、いよいよ間近に迫っています。賢い乙女たちは、その麗しいゴールのみを描きながら、「人の子」が戸口に立つのを、熱心に待望しています。そうです!私たちは、「朝」起きた時から霊的に学び、備え待つのです。イエス・キリストが戸口に立つ、その麗しい「足音」を聞き逃さない為に。


 イエス・キリストの麗しい「来臨の時」が、いよいよ近付いている最中に当たり、あなたが更に目を覚まし、正しい「気付き」を聖霊様から示され、神の新しい「御業」を、日々謙虚に悟ることが出来ますよう、主イエス・キリストの御名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年10月23日メッセージ)


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