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言葉の革命(No.5)

                   第4章 聖なる炎の訪れ




キリストには永遠の命があります。全人類に光を与える命です。その命は、暗闇の中でさん然と輝き、どんな暗闇も、この光を消すことはできません。イエス・キリストこそ本当の光です。(リビングバイブル訳)
                                                                                              【ヨハネ福音書1章4〜6節】


 神が天地を創造される以前は、暗闇が「この世」を支配していました。しかし、神はこの暗闇の勢力に対して、ご自身が直接「命の言葉」を発することを通して、新たな「神の力」を帯びた勢力を誕生させたのです。神から発せられる、この「命の言葉」こそが、暗闇に対して新しい「永遠の命」をもたらし、この命が「神の光」となって現れ出た時、次第に暗闇の勢力が縮小され、「神の光」に歩む神の作品である、キリスト者の誕生が拡大されていくのです。


 旧約期において神は、例えばモーセが荒野をさまよう中で、燃える柴の中からご自身の「光」を発せられ、その結果彼は燃え続ける聖火の前で、神の臨在にひれ伏し礼拝することになりました。又ダビデの時代には、新しい幕屋の中で神は、御自身の麗しい臨在を、求める者に公平に現されました。エリヤやエゼキエルなどの預言的な働きをする器に対しても、神は「光」を通して、ご自身の「御心」を現し民を導いています。


 そして新約期の始まりである、イエス・キリストの誕生の時には、まさしく「聖なる光」がベツレヘムを訪れ、その「聖なる光」の導きを通して三人の博士たちは、御子の誕生した馬小屋へと誘われ、霊と真をもって礼拝することができました。新しい神の契約の時が、「神の光」を通して、「真理の光」であるイエス・キリストの誕生へと導き、この方を通して「新しい契約」がスタートしたのです。


 イエス・キリストが十字架上で処刑された時、一時的に暗闇の勢力がこの世を支配したかに見えましたが、イエス・キリストが命を引き取られた、まさに同時刻にエルサレム神殿の、至聖所を覆っていたシールド(垂れ幕)が破り裂け、「神の栄光」の耀きが至聖所から放たれたのです。そして、この至聖所における「神の栄光」という光の投影は、五旬節の「その時」につながります。


 暗闇を照らす光の源は何でしょうか?今日ではエジソンの発明により、電子エネルギーから発せられる、「電気」などの照明器具が一般的でありますが、それ以前の光源の基本は、「火(炎)」であったことを私たちは知っています。つまり暗闇の領域に対して、明るく照らし出すことのできる光源は、「火」の光です。ですから、五旬節にもたらされた「聖霊の炎(光)」は、「神の栄光」の訪れの時であったことを覚えて、使徒行伝2章の記事について簡単に学んで参りましょう。


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
                                                                                                     【使徒行伝2章1〜4節】


同等の炎を受ける時
 先ず1節には、「一同が一つになって集まって・・・・」と記述されていますが、この「一同」とは老若男女合わせて、百二十人の群れのことです。このあらゆる年齢層、即ち幼子から年寄りに至るまで、又男女という性別を問わず、百二十人全員が一人も漏れることなく、同時に「聖なる炎」の訪れにあずかったこと、これが第一の重要ポイントです。


 旧約期においては、神に特別に選び召し出された者のみ、例えば大祭司や少数の預言者だけが、「神の栄光」の臨在の訪れの時にあずかることができたのに対し、五旬節の「その時」は百二十人全員に対して、又等しく価値ある器として公平に聖霊の炎が与えられたこと(等価分与)、これは非常に重要な出来事、即ち歴史的転換のイベントでした。


 又、十二使徒たちに降臨した聖霊の「炎」の方が、一般の弟子たちの「炎」よりも、火の「強さ」とか「大きさ」が優っていたのでもありません。その「聖なる炎」は、全てが「同時刻」に「同等」に、かつ「同じ形」で百二十人一人一人に分与されたのです。仮に、指導的立場にあったペテロが、午前九時に一番乗りに分与され、その後秒刻みに有力的使徒から一般の弟子へ、最後は年寄りと幼子へと、炎が聖火リレーの如くに点火されたとしたら・・・・・・依然として彼らは、この世の法則の次元に生きる弟子のままであったと思われます。しかし、ルカは正確に記述しています。「同時」に百二十人全員に「炎」が降臨したのだ!と。


 この第一の重要ポイントは、イエス・キリストを信じる全ての者が、「神の光」を帯びる者として召し出されていることを教えています。ですから信じる者全てに対して、この時と同じ「聖霊の炎」の訪れが、一人一人に等しく「神の光」として分与され、誰が偉いとか誰の「賜物」の方が優れているかなどの、この世の三次元レベルのものではなく、同じ神の「賜物」を戴いた者として、又一人一人が等しく価値ある神の働き人として、召し出されていることを覚えて下さい!これは素晴らしい真理です。神の国には、ピラミッド型組織(江戸時代の士農工商)のような、働きの大きさや「賜物」の優劣によって、奉仕の職分が分けられるなど、いわゆる霊的差別主義(牧師などの教役者階級と一般平信徒階級というような、分け隔てを意味する言葉も含む)は存在しません!


 再度強調しますが、全ての者がイエス・キリストの「真理の光」を帯びる時、聖霊は神の国を建て上げるために、一人一人を神の貴い器(良き作品)として、重要なポジションに立たして下さっていることを、覚えようではありませんか!


聖霊の大音響と共に
 燃えるような炎が降臨する前に、大きな強風のうなるような響き(サウンド)が存在しました。「聖なる炎」の訪れは、この大きな響きという革命のサウンドの後に、弟子たちが語り出す「新しい言葉」という大音響(雄叫び)となって噴出したのです。


 これは「神の光」、即ち聖霊からもたらされる聖なる炎を、百二十人全員が霊的に帯びたまさに「その時」、一斉に新しい「命の言葉」が、永遠の「命の泉」となって溢れ流れ始めたことを意味します。この聖霊のサウンドが起こるまで、彼らは一生懸命祈り続けていたのですが、実際に起こるまで彼らの殆どが、「不安」と「疑い」などの暗闇の次元に縛られていました。


 しかし「天上の窓」の扉が開かれると、「神の光」が豊かに放たれ、暗闇に支配されていた弟子たちの霊的フィールドに、「神の光」が差し込んだまさに「その時」、彼らの「霊」の只中から永遠の「命の泉」が噴出し、新しい「命の言葉」が霊の雄叫びとなって溢れ流れ始めたのです。しかも、誰もこの現象を押し止める者はいませんでした。


 神が為されたこの一方的な出来事、即ち「神の光」が「聖なる炎」となって発せられ、この光を同時に受けた人々に現れた、新しい「しるし」の源は「くちびる」でした。


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
                                                                                                                【創世記2章7節】


 父なる神が天地を創造される際、特に「最初の人」に命を吹き込まれ創造された時、永遠の「命の息吹」は、神の「くちびる」から発せられたことを思い起こして下さい!神の「くちびる」から流れ出る永遠の「命の息吹」によって、「言葉」が音声(サウンド)となって発せられ、かつ「命の息」として人の「霊」の中に注ぎ込まれた時、人は「生きる者」となったのです。このことに関し、アンドリュー・マーレーは、次のように説明しています。「天地創造のみわざにおいて、神の霊は自ら暗黒と生命のない混沌とした事物を覆い、その生かす力によって、命と繁殖の力をお与えになりました。それらのものが、神の霊によって生かされた後においてのみ、神の言葉はこれに形を与え、私たちが今見るような命と美の各様の形状を呼び出すことができたのです。人間の創造においても同様で、地の塵によって造られたからだの中に吹き入れられたのは霊であって、人はこれにより生きたものとなりました。」(注1)


 このように父なる神の「創造の法則」は、五旬節革命の時にも同じ有様で起こっていることが分ります。神の命から発せられる「聖なる炎」の訪れは、信じる全ての者に等しく分与され、その「しるし」の現れ方は、暗闇の勢力に対抗するために帯びた力が、「新しい言葉」を語る「くちびる」に現れたことです。


新しい命の誕生
 神からの約束を待ち続けた、百二十人全員の一致した信仰の働きに対して、神は一方的に神の側からの「約束の賜物」として、アダムを創造する際に「命の息(聖霊)」を吹き込まれた時と同じ有様で、再び聖霊を「聖なる炎」として注ぎ込んで下さいました。


 そして聖霊による「新しい言葉」、即ち永遠の「命の水」の流れは、まさしく「新しい命」の誕生であり、教会(エクレシア)は「新しい言葉」つまり「異言(霊の声)」を伴って、まるで新生児が「産声」を発するかの如くに、この世に誕生して来ました。


 実は、臨月を迎えた母親の子宮から、赤ちゃんが押し出される時、神は「人」に対して創造(出産)の「しるし」を与えています。赤ちゃんは押し出される際、先ず頭部から出て足のつま先が出終わった後、今まで命の源であった胎盤(古い命)と、自分の体を結合していた臍(へそ)の緒が裁断されます。そして遂に新しい創造の世界の光を、未だ見ることのできない視覚の範囲内で感じ取ったまさに「その時」、「オギャー!オギャー!」と一斉に鳴き始めます。その泣き声の音階は、どの民族の赤ちゃんも共通していますが、A(ドレミファ・・・・のラの音)の音域を発することです。そして、この赤ちゃんは子宮の中にいた頃は、臍の緒から間接的に供給されていた酸素を、体内の血液に取り入れるという唯一の方法によって、生き長らえることができた状態から、「A」の音声を発した時点で今度は、新しい世界から直接自分の口と鼻で、「新しい命」の空気である酸素を、自由に取り込むことが可能になります。つまり、産声の発声と同時に、新しい呼吸が始まるのです。


 それと同様のことが、百二十人の弟子たち全員に起こりました。聖霊による「新しい光」の訪れが為される以前の彼らは、「古い概念」という暗闇の勢力に打ち負かされていましたが、五旬節革命の「その時」、イエス・キリストは約束されたことを、決して違えることは為されない!ことを、聖霊による新しい「聖なる炎」をもって証明されました。それと同時に、「神の栄光」の訪れの中で全員が等しく分与され、一人一人が今まで語ったことも聞いたこともない、「新しい言葉」を次々と一斉に語り出したものですから、彼らはこれこそが、神の約束の時だと瞬時に悟り、「霊」が奮い立たされ霊の雄叫びを上げることで、彼らは更に強風の響き以上の音声(サウンド)を発したのです。


 そのサウンドの凄まじい大音響効果により、五旬節の祭りに見物に来ていた通行人や群集の中に、「聖霊の波紋」が拡大していくことになるのです。即ち、聖霊が始められた「新しい言葉」という永遠の「命の泉」が、百二十人の弟子たちの「くちびる」から、ナイアガラ瀑布の激流の如くに流れ始めた時、イエス・キリストを知らない人々の「霊」の只中に、生ける「命の水」が天の国の祝福の流れとなって、注ぎ込まれることにつながっていくのです。


革命のシンボル
 世界史の中で、「革命」ある所に必ず何らかの、革命のシンボルが存在します。革命というものは大抵、暗闇の時から始まります。そして、暗闇の力が支配している状態に対して、必ず何らかのシンボルを掲げます。それは、革命を起こす人々が必ず手に持つ、「のろし」という一つの「火(炎)」です。「のろし」とは、何らかの一大事を起こす、きっかけとなる行動(アクション)を始める時、それを人々に指し示す、「燃える炎」というシンボルです。


 それと同様に、神の大いなる「栄光の訪れ」の時は、ローマ帝国の圧政(弾圧)という暗闇の勢力に怯えていた、百二十人の弟子たちの「霊」の只中に、天上から「革命の火」を点火し、「新しい言葉」の到来という聖霊の現れをもって、この「革命」のアクションは前進していくのです。


 しかも、この「聖なる炎(光)」の素晴らしい働きは、人間的なものによって産み出された、即ち演出されたものではなかったことです。マイク・ビックルの言葉を借りるならば、「イエスのミニストリーのユニークな点の一つは、決して集会の案内や宣伝をなされなかったことです。それにも関わらず、大勢の人たちが集まったのです。もし本当に神の権威と力が顕されているなら、人々は引き寄せられるように集まってきます。・・・・いったん本当の火がついたら、もはや宣伝は不要です。」(注2)


 この「聖なる炎」は、神からの一方的な働きかけ、つまり聖霊ご自身が直接、「天上の窓」を開いて下さるという、素晴らしい働きを通して、神の大いなる恵みの時、即ち「新しい約束(契約)」の時が開始されたことに尽きます。実際彼らは、この大いなる「神の時」が訪れるまで、何が起こるのか全く見当も付かなかったことでしょうが、彼らにとってこの出来事(一大イベント)は、まさしく「神の栄光」の訪れであり、それは今まで経験したことがない、神の国の「恩寵(恵み)の時」になっていくのです。そして彼らは、この神の国の栄光の「光」を帯びていく時、唇から出る言葉は常にイエス・キリストのことだけ、つまり「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも永遠に変わることがなく、私と共に生きておられます!」と力強く宣言(証言)し、かつ栄光あるイエス・キリストの御名を讃えながら、聖霊様の導きの中で前進していったのです。


注1、アンドリュー・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)192項から引用
注2、マイク・ビックル(ハーザー2002・6月号)11項から引用

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