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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

終末のエクレシア(No.11)

     バック・トゥー・ザ・エデン!




イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆が・・・・押し寄せて来た。イエスは、二艘の舟が岸にあるのを御覧になった。・・・・そこでイエスは、その内の一艘であるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わった時、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。・・・・漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・・これを見たシモン・ペテロは、イエスの足元にひれ伏して、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と言った。・・・・すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで彼らは・・・・全てを捨ててイエスに従った。
                                              【ルカ福音書5章1~11節】


「エデンの園」に立ち返る
 英語の「Buck to ~」とは、「return(戻る)」という言葉に、意味合いが似通っていますが、本来のポジションに「立ち返る」ことです。ですから今回のメッセージのタイトルは、日本語で言えば「再びエデンの園に暮らしましょう!」となります。


 「終末のエクレシア」として、私たちが立ち返るべき、最終的なポジションは「御国の園」ですが、その前段階として地上の楽園を、創造主なる神が用意される訳ですが、それは王の王イエス・キリストによる、「千年王国」の時です。「その時」に向けて、私たちは何を為すべきでしょうか?「千年王国」に至る、霊的準備をすべき時が、まさに「今の時」なのです!多くの民が、遂に帰還する(立ち返る)時が、目前に迫っているからです。


 私たちが立ち返るべき霊的ポジション、それが「エデンの園」です。確かに「今」は、アダム(エバ)が犯した「罪」の故に、それが閉じられたままで、見ることも出来ません。しかし「神の時」が来れば、再び開かれ実体が見えるようになるのです。恐らく、如何なる「汚れ」も「悪しき状態」も、全てが一掃される程に、神の「聖さ」と「麗しい状態」が、満ち溢れた世界が現れ出るのではないでしょうか!


 「エデンの園」には、如何なる神の「聖さ」が満ちているのでしょうか?今の現実には、決して存在しないものであり、私たちにはそれを知る(見る、受ける)術がありません。聖くなければ神の「至聖所」に入ることも、神を見ることも出来ないとは、如何なる状態のことでしょうか?今回のメッセージは、ペテロという一人の人物に焦点を当てます。彼は結論から述べれば、彼の人生の殆どが「失敗者」であり、頑固一徹な性格の持ち主でした。


 ところが、その彼が最終的に選んだ、人生の花道が「逆さ十字架」による処刑でした。「終末のエクレシア」においては、イエス・キリストが「真実の主」として、ペテロにお会いして下さったのと同様に、私たちがイエス・キリストに従うだけで、ペテロが為した以上の素晴らしい業(神の仕事)を、私たちが為すことになるのです!


ペテロの「舟」を用いられる
 覚えて戴きたいことは、漁師ペテロと彼の仲間たちは、夜通し漁の仕事に携わりました。彼らは熟練した漁師(プロ)でしたから、この季節には何処に網を投じれば、大漁になるかを熟知していました。その彼らが夜通し働いても、その時は「一匹の魚」も網にかからなかったのです。すると見知らぬ男性が、彼らの元に近付いて来ました。しかもその後方には、大群衆が付いて来る訳です。ペテロは一瞬、その光景に興奮しましたが、それ以上に虚脱感と疲労感に襲われ、再びウトウトし始めました。


 ところがその男性は、遂に彼らの元に到着した時、突然ペテロに向かって語りました。「この村のお方よ、非常に申し訳ないが、あなた方の舟の中で、この舟(ペテロ所有の舟)を貸してくれないだろうか?」と。ペテロは「はん?何で俺の舟を・・・・」と思ったか定かではありませんが、その男性の懇願する声(語り方)に、断る理由も無く従いました。


 今回のメッセージの重要ポイントは、世界規模で「恐怖」の大波が押し迫る中、この時のペテロ同様に、「あなた(私)の舟」をイエス・キリストは選び、そして直接召し出されることです。「ペテロの舟」の意味することは何でしょうか?彼にとって「舟」は、当然のことながら「商売道具」です。ところが、ここ数日彼の「舟」は、「商売」になりませんでした。と言うことは、「明日の糧(生計)」にも支障をきたす訳です。


 今の日本も、この時のペテロと何ら変わりありません。自分の「網(仕事)」を何度も投じて、家計の足しにしようと努力しますが、一向にゆとりが生じません。しまいには、明日への希望が失せてきます。イエス・キリストが、わざわざ「ペテロの舟」を選ばれた、この素晴らしい「神の事実」には、物凄い意味があります。しかしペテロは、現実主義者でした。イエス・キリストは間髪を入れずに、ペテロに命じました。「沖へ漕ぎ出でよ!」と。そこで、ラビの勧める漁場(ポイント)へと、ペテロは仕方なく舟を漕ぎ出しましたが、「(昨晩もやってみましたが)そこは無理です!」と答えるなど、イエス・キリストの「言葉」を信じませんでした。


 仕方無く、ペテロは網を投じます。すると、網が湖水の中に沈み込むと同時に、ペテロは自分の両手の指先に、強い「引き」を感じました。「な、何が起きているんだ?重すぎて手が引きちぎれそうだ。おーい、アンデレ。助けてくれー!」と、湖岸に立って見ている、アンデレに叫び声を発しました。そうです!イエス・キリストが命じられる通りに、嫌々ながらも彼が実行した時に、「現実」を引っくり返す程の、「神の事実」が現れ出たのです。その結果、彼らの不信仰の脳裏には、明日に対する「恐怖」が、もはや消え失せていました。


 その後、岸辺に戻ったペテロは申し訳なさそうに、イエス・キリストに顔を向けられませんでした。しかしある事に気付きました。それはイエス・キリストが、ペテロの目を何の変りもなく、じっと優しく見ていて下さるばかりか、次のような「言葉(御声)」をかけて下さったことです。「シモン、ペテロよ!これからあなたは、多くの人をキャッチする(すなどる)ことの出来る、新しい仕事を与えよう!」と。


全てを捨てて、イエス(新しい舟)に乗る
 ペテロは、その意味することを、理解出来ませんでしたが、素直に「はい、主よ!」と聞き従いました。そればかりか彼は、何の躊躇もなく「商売道具」を捨てて、新しい「主人(イエス・キリスト)」の弟子となります。以前の彼であれば、今回の大漁の魚を売って、当面の生活資金を得るところでしたが、その時の彼は一切、この世的な計算をせずに、ストレートに聞き従ったのです。ペテロとアンデレたちは、イエス・キリストの「御声(福音)」を、素直に信じました。「新しい事が始まった。必ず何か良き事が起きる。ラビに付いて行くだけで、明日への希望が見えて来る程の、素晴らしい神の次元が開かれる!」と。


 これからの時代に必要となる、「終末のエクレシア」のモデルが、まさに今回の記事に描かれています。それはイエス・キリストが、わざわざ「ペテロの舟」を選ばれ、そして実際に使用したことです。しかもペテロが自分の舟を、とても大事にしていることを分かった上です。イエス・キリストは、「漁」をする為に舟を用いたのではなく、多くの人々に「福音」を語る為に、「ペテロの舟」を用いたのです。


 ペテロは最初、その理由が分かりませんでした。しかしイエス・キリストが、福音を語り始めた時に、何故自分の舟を選び用いたのかを、目前に見ることになります。しかもその後、イエス・キリストが命じられた通りに、湖水のあるポイントに、「網」を投じただけで奇跡が起き、彼の舟は大漁故に沈みそうになりました。これが第二の理由です。即ち、ペテロの「現実主義(不信仰)」を、完全に沈め封じる為です。


 「恐れ」というものは、自分の力で大事なものを、強く抱きかかえている時に増大します。自分の「命」、自分の「生活の糧」や「貯蓄」も然り。しかしイエス・キリストが現れ、「命の言葉」を発せられる時には、それらのものは全て無価値なものになります。イエス・キリストが全てを相働かせて、「益」として下さる時には、私たちが心配する先において、「神の事実」が既に用意されているのです。それ故にイエス・キリストは、私たちに強く命じます。「恐れることはない!」と。


沖に漕ぎ出しなさい!
主はシオンを慰め、その全ての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。私の民よ、心して私に聞け。私の国よ、私に耳を向けよ。教えは私のもとから出る。私は瞬く間に、私の裁きを全ての光として輝かす。私の正義は近く、私の救いは現れ、私の腕は諸国の民を裁く。島々は私に望みを置き、私の腕を待ち望む。
                                          【イザヤ書51章3~5節】


 この御言葉は、まさしく「今の時代」にタイムリーな福音です。シオンに対する神の「熱情の愛」は、今が「最大の時」と言えます。それ程に国々が、世界的「恐れ」の拡大によって、次々に廃墟(荒れ地)と化しています。ウクライナ、アメリカ、ヨーロッパ、日本も然り。しかし私たちキリスト者が、安心して沖に漕ぎ出すことが出来る、その最大の理由は、イエス・キリストの「血潮」の守り(救い)があるからです。


 私たちの中にある、全ての「救い」の源は、今も尚働いて下さる、神の「熱情の愛」にあります。私たちは、この唯一の真理を知り、体験しています。またその「恵み」を受けている民です。その私たちを通して、「エデンの園」を回復する!と、主なる神は約束して下さいます。


 イエス・キリストが、私たちエクレシアを操縦し(操舵し)、沖(至る所)へと漕ぎ出しています。そうです!今まさに沖へと、私たちが漕ぎ出されている、大いなる「収穫の時」と言えます。私たちが為すべきことは、イエス・キリストが示すポイントに、単純に網を投じるだけで良いのです。ですから信じて下さい!私たちが進み行くべき、霊的「沖」が必ず用意されていることを。


 「終末のエクレシア」は、私たちが単純に出かけて行き、イエス・キリストの「御名」によって、次のように「網(福音)」を投じるだけで、必ず奇跡が起きるポイントとなります。「イエス・キリストの血潮によって命じる。恐れの霊よ、直ちにこの場から出て行け!」と。私たちが、いよいよ「網」を投じる時が来ています。私たちが見るべきポイントは、「現実」ではなく「沖」にあります。そこに於いて、私たちが為すべきことが、沢山用意されていることを、是非信仰をもって受け留めて参りましょう!


 あなたが、選ばれた一艘の「エクレシア(舟)」として、また「後の雨」の大収穫に間に合う、神の「働き人(人間をすなどる漁師)」として、今まさに「訓練(備え)の時」にあることを信じて、益々霊に燃え、神が与えて下さる「聖い油」を、豊かに受け取って前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年3月20日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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