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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.31)

     「苦難」の中で何を思うか?




「この私が、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者を私は立てる。群れはもはや恐れることも、怯えることも無く、また迷い出ることも無い」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。私はダビデの為に正しい若枝を起こす。主は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。・・・・
                                               【エレミヤ書23章3~8節】


「苦難」の中にあっても・・・・
 今回の御言葉は、イスラエルとユダという二つの国家が、敵国によって散々に散らされた結果、国家存亡の危機を迎えるなど、様々な「苦難」からの回復が、預言的に描かれています。主なる神は、たとえ私たちが苦難から苦難、そして迫害に次ぐ迫害など、様々な試練に遭遇したとしても、それを「良し」とはされません。何故彼らは、更なる「苦難」の状況に陥ったのでしょうか?主なる神が示す、「御心」に沿う道があるにも関わらず、彼らは「苦難」の時に、信仰の歩みを放棄して、立ち止まったからです。


 はっきり言って彼らは、神の「御心」の全てに不従順でした。今の時代と、非常に似通っています。アメリカ国家は、以前は強大な政治力をもって、世界の民主主義を引っ張る程の、素晴らしいリーダー的立場でした。しかし今は、敵対国家から散々に馬鹿にされています。実は殆どの民主主義陣営の国家も、同様の流れにあり弱体化しています。


 さて私たちが経験する、様々な出来事の中には、今回の記事に似通った事が多々あります。「試練」や「苦難」に関して、あなたは如何なる「思い」で捉えていますか?その「捉え方」如何によっては、今回のイスラエルとユダと、何ら変わり無き状態に陥ります。彼らは「苦難」や「試練」を前にして、「今まで神は、私たちを滅亡の道に至らせなかった。だからきっと、今の中にも奇跡が起きるから、心配しなくても大丈夫!」など、何となく肯定的捉え方をします。しかしこの捉え方の中に、サタンが巧妙に仕掛ける、思考上のトリックがあります。


 覚えて戴きたい点は、私たちの人生や信仰の歩みにおいて、例えば「星占い」や「おみくじ」に頼るなど、楽観主義的な捉え方をすべきではありません。聖書に登場する信仰者の殆どが、「試練」や「苦難」の連続でした。使徒パウロの場合、彼はサウロと呼ばれていた時代は、「栄誉」と「出世」に満ちた、輝かしい人生でしたが、その後の彼は「苦難」と「迫害」の連続で、最終的に殉教します。


神の「言葉」に固く立つ
草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。イザヤ書40章8節】


 この御言葉が、今回覚えるべき第一の重要ポイントです。実は、この言葉の前(6~7節)に書いてある御言葉が、8節につながる重要な意味を示しています。「肉なる者(被造物)は皆、草に等しい。永らえても、全ては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。」この表現から分かることは、「肉なる者(被造物である人)」が、たとえ長寿を望んで、様々に肉の努力をしたところで、いつかは野の草花のように、枯れ果てることを、教え示しています。


 主なる神が吹き付ける「風」が、良き風であろうが、悪しき風であろうが、いつかは被造物を枯れ果たす「力」を有しています。ところが主なる神の「言葉」は、決して枯れ果てること無く、永遠に固く立ち続けるのです。ということは、私たちの「信仰」の歩みにおいて、主なる神が「風」を吹き付けることがあります。何の為に?私たちを苦しめて、遂には枯らす為では無く、霊的な「気付き」を教え示す為です。


 多くの国民に対して、今「神の風」が吹いています。それは「熱風」の如くに感じられるものもあります。しかし「神の風」は、あなた(私)を更なる神の次元へと、霊的に引き上げるものです。それ故に私たちは、この風を次の霊的ステップに至る、「良き風」として受け取りましょう!主なる神の「御言葉」に固く立って、ひたすら前進し続ける為に・・・・。


 イスラエルとユダの場合は、「神の風」が吹いた時、呑気に構えながら、さほど心配する次元に無い!と捉え、逆に「奇跡の時」を待つべく、信仰の「歩み」を止めてしまいました。その結果彼らの信仰は、草花の如くに枯れ果てました。何故そうなったのでしょうか?神の御声(御言葉)ではなく、己の「肉なる声」に聞き従ったからです。


 このことから、私たちの信仰の歩みは、次の二種類のグループに分類されます。第一のグループは、①神の「御言葉」に固く立ち続ける人々です。彼らは御言葉にある、神の「永遠性」を求めることで、次の段階に示される、神の「救い」に飢え渇き続けます。そうです!神の奇跡ではなく、神の「贖い(救い)」を求めるのです。「奇跡」は単なる結果に過ぎません。


 仮に私たちの「信仰」の歩みに、先ずは肉の努力を放棄し、神の「御言葉」を聞く!という姿勢ではなく、肉なる「思い」のみを優先し、ひたすら「己の声(言葉)」を貫く者は、一時的に成功(繁栄)しても、最終的に枯れ果てます。そうです!肉なる「判断」や「肉の声」が、如何に不安定なもの(風に揺らぐ葦)に過ぎないものであるか、聖霊様はこの重要ポイントを、霊的「気付き」として教え示されるのです。


 私たちの「思い」には、様々な「肉の声」が語りかけます。その中から一番妥当な「声」を受け入れることで、私たちは安心感を得ようと欲します。同様に私たちが「苦難」に遭遇した場合に、一番都合の良い「肉の声」を選択しながら、何とか解決しようと肉の努力をします。しかし聖霊様の場合は、必ず私たちの「霊」に対して、「ストップ(放棄しなさい)!」と、私たちの肉の「歩み」を停止させます。即ち主なる神が用意する、私たち自身に対する神の「御思い」に、私たちの全身全霊を向けさせる訳です。


 そうです!主る神は私たちを、永遠から永遠へと続く、神の「救い」に導いて下さいます。ところが第二のグループは、②常に「肉の声」に依存しながら、自分の「歩み」を確立する為、すればする程「肉の深み」に溺れる人々です。私たちが「苦難」に出会って、ふと悲観的になったり、否定的「思い」に捕われそうになった時、実は主なる神は私たちに対して、激しく臨んでいる時です。つまり神の用意する、祝福の「テーブル」に着く、最大の「祝福の時」です。


 「その時」に私たちは、次のように告白しましょう!「主よ、私の歩みに間違いが無いでしょうか?今このような試練(苦難)に、私は遭遇しています。どうか、あなたの知恵によって、あなたの導きによって、私をあなたの御心の領域へと、引き上げて下さい!私は、あなたが語って下さる知恵の言葉と、あなたが確実に導いて下さる、真理の道に信頼します。何故なら、あなたの言葉こそが、永遠の真実だからです。私の判断は、草花の如くに枯れてしまいますから、それら全てを放棄します。」と。このように、私たちが今の「試練の時」を、どのように考えるかによって、神の「御言葉」に固く立つのか、それとも自分の「己の判断(肉の声)」に従うか、この二つに分かれます。


永遠に「然り!」なるイエス・キリスト
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会・・・・全ての聖なる者たちへ。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神が褒め称えられますように。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神から戴くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。キリストの苦しみが満ち溢れて私たちに及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また、私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることが出来るのです。あなた方について私たちが抱いている希望は揺るぎません。何故なら、あなた方が苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。兄弟たち、・・・・是非知っていてほしい。・・・・自分を頼りにすること無く、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました。神は、これ程大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私たちは神に希望をかけています。・・・・人間の知恵によってでは無く、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、私たちの誇りです。・・・・私たちの主イエスの来られる日に、私たちにとってもあなた方が誇りであるように、あなた方にとっても私たちが誇りであることを十分に理解してもらいたい。・・・・神は真実な方です。だから、あなた方に向けた私の言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。・・・・それで、私たちは神を讃える為、この方を通して「アーメン」と唱えます。私たちとあなた方とをキリストに固く結び付け、私たちに油を注いで下さったのは、神です。神はまた、私たちに証印を押して、保証として私たちの心に聖霊を与えて下さいました。・・・・あなた方は信仰に基づいてしっかり立っているからです。【Ⅱコリント書1章】


 今回覚えるべき第二の重要ポイント、それはパウロのこの書簡の中で、主なる神が私たちに対して「然り!」という、素晴らしい「祝福」の次元へと、常に導いて下さる方であることを、私たちにも教え示している点です。そうです!たとえ私たちが、「苦難」や「試練」の中にあっても、イエス・キリストを通して、主なる神は私たちを「然り!」として見られ、ねんごろに取扱われます。イエス・キリストが「然り!」という、祝福のテーブルを用意して下さる限り、私たちは永遠の「慰め」を得ることが出来ます。


 しかし私たちの側が、「否!」と拒絶する限り、「肉の声」に翻弄されるだけです。それ故にイエス・キリスト、即ち永遠に「然り!」なる方の、真実の「御声(言葉)」を求めましょう!そして神との親しい「交わり」の時を、熱情なる「思い」をもって、飢え渇き続けましょう!神との「交わり」の結果、厳しく指摘されることが、たとえあったとしても・・・・。


 創造主なる神が、六日間に渡る天地創造の後、七日目に「安息の時」を設けられた、その最大の目的は、ご自分の「手の業」を休める為でした。永遠の「約束の保証」として、聖霊様を与えて下さる神が、私たちに「さそり」や「蛇」を与えるはずはありません。ですから、私たちも神の「安息」の領域に入り、神と共に休むのです。つまり自分の「手の業(肉の努力)」を放棄し、永遠に「然り!」なる方、主イエス・キリストに、全てを委ねるのです。


 主なる神は、この「安息日」に、ご自分の「祝福」を、神の子たちに分かち与えようと、強く望んでおられます。ご自身が親しい「交わり」をもって、創造する側(神)と、被造物の側(私たち)が、共に親しく交わる時が「安息日」です。主なる神は、決して「否!」なる方ではなく、私たちと永遠に「然り!」なる関係を持つべく、唯一の「救い主」イエス・キリストを通して、直々に導いて下さいます。


 それ故に、私たちは「苦難」の中にあっても、決して恐れる必要がありません。「永遠の真実」を、保証として与えて下さるイエス・キリストが、私たちの「前(先)」を行かれているからです。私たちが「苦難」の中にある時、イエス・キリストが光輝く時です。永遠に「光」なる方は、私たちに「正しい道」を照らして下さいます。


 是非あなたが、「暗闇」の中を歩く時にも、イエス・キリストを通して、正しい「真実の光」が照らし出されますように。如何なる時にもイエス・キリストを、熱情の愛をもって求めて続けることが出来ますように。あなたがイエス・キリストに、全面的に明け渡すことの出来る、賢い乙女でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年9月5日のメッセ-ジ)


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