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バルナバ・ボイス(No.13)

イエス・キリストの13の問いかけ−その13


       『何故あなたは、私を迫害するのか?』




さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、何故、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。・・・・」
                                                                                                         【使徒行伝9章1〜5節】


「肉の次元」に生きるサウロ
 ご存知のように、このストーリーに記されているイエス・キリストの質問は、直属の11人の弟子たちに対して語られたものではありません。何故なら彼らの殆どは、イエス・キリストが昇天された後、聖霊体験という「天の恵み」を受け、素晴らしい変革の歩みの途上にあったからです。以前の彼らは、イエス・キリストが十字架によって処刑される時点で、単なる「裏切り者」であった訳ですが、「聖霊のバプテスマ」を授かった後は、何と驚くべきことに「死」をも恐れないで、イエス・キリストの「福音(教え)」を、様々な地域で宣べ伝えました。その過程で、彼ら全員がイエス・キリストと同様に、様々な形(逮捕、拷問、鞭打ち刑、処刑)で迫害を受けました。


 しかし、この時点におけるサウロは、イエス・キリストの「復活」の事実も知らずに、台頭して来た新興勢力、「ユダヤ・キリスト教」の信者に対して、その全ての活動を迫害(殲滅)すべく、至る所において陰謀を企てながら、彼らを逮捕し処刑する仕事に従事していました。この「迫害者」サウロに対して問いかけられた、見えざるイエス・キリストの「問いかけ」は、聖霊を通して彼の「霊の耳」にだけ、直接投げかけられたものです。


 この時までサウロは、当然神の「御声」を聞いたことがありませんでした。誰よりも「律法」に精通していた彼ですが、主なる神の「声」を未だ耳にキャッチ出来なかったのです。しかし彼の霊的願望の中には、「律法」を単なる学術的レベルで探求したのではなく、恐らくローマ帝国の圧政下にあって、如何にして「神の国」を実現できるか?、そして主なる神の「御心」を、どのようにして現していくべきか?と、肉的ではありましたが様々な方法を模索するなど、激しく飢え渇き求めていたのではないでしょうか!


 そのような「肉の次元」に生きるサウロにとって、新しく台頭して来た「キリスト教」は、格好の「餌食(反ユダヤ主義グループ)」に写りました。何故なら、彼らが訳の分らぬ「呪文(異言のことですが・・・・)」を唱え、しかも大胆に「神の国」の福音(教え)を人々に説き示していた、このようにサウロには見えたからです。自分が必死に願い求めていた「神の国」の次元を、彼らがいとも簡単に公言するその姿勢に、保守主義のサウロは我慢なりませんでした。しかし、彼らの語る「神の国」の教えは、サウロの求めていたレベルとは、懸け離れた天的次元のものであり、サウロにとって既に過去の人物(死者)、そして反動者であるイエス・キリストを、今も尚「生きた真の神」として、仰ぎ求める彼らの信仰及び活動に対して、彼は益々激しく憤り迫害したのです。


「迫害する」とは?
 このような「肉の次元」を生きるサウロの元を、聖霊様が輝かしい「栄光の光」として直接訪れて下さり、イエス・キリストの「問いかけ」を投げかけられました。「サウロ、サウロ、何故、私を迫害するのか」と。それに対してサウロは、「主よ、(私に問いかける)あなたはどなたですか」と答えていますが、彼は「その時」すぐ悟りました。つまり彼が「主よ!」と告白した時点で、その「問いかけ」の発信者が、単なる「人」や「邪霊」ではなく、生きた真の神である!と彼は理解したのです。


 そしてその「御声」が、まさしく自分が必死に願い求めていた「神ご自身」であることは、何となく分るのですが「まさか自分が、主なる神を迫害していたなんて・・・・。そのように尋ねるあなたは、一体どのような(名前を持つ)神ですか?」と、逆に不審に思いながら問い直した訳です。続いて「私は、あなたが迫害しているイエスである。」と告げられた時、彼の「霊」の中に見えざるイエスの「御声」が、グサリ!と突き刺さりました。彼は当然、かつてイエス・キリストに出会ったこともありません。イエス・キリストを「メシア」と信奉する人々を、正統派ユダヤ教に回心させるべく、ただ一生懸命に働いてきたつもりでした。


 実は、このイエス・キリストの「問いかけ」は、今に生きる全てのキリスト者に対しても、聖霊様を通して投げかけられていることを、あなたはご存知でしょうか?「え!この私が、イェス様を迫害してるですって?私はイェス様を信じていますから、そんなことは在り得ません!私はイェス様のために礼拝にも出席し、伝道などの良き業にも務めているではありませんか!」などと、誰もがこの「問いかけ」には反論することでしょう。


 迫害するとは、英語で「persecute」と言い、主要な意味としては虐待する(虐げる)など、他者に対して実際に被害を与える行為のことです。人は自分で立向かうことの出来ない、不可能な状況に追い込まれた場合に、様々な行動に移ります。ある者は「家(自分の殻)」に引きこもったり、実際に自分に被害(精神的に傷つけることも含む)を与えた人物を、出来るだけ避けようとするなど、逃げの行動に移ります。これらの行動全てを「persecute」と言います。ギリシャ語の「迫害する(ディオーコー)」では、更に詳細な意味を含んでいますが、例えば様々な圧迫などから逃れるべく、それとは逆の方向に自然と向かう、「思い」や「衝動」のことも意味します。


 この「迫害する」という概念は、聖書の共観福音書の中において、多く記述されている訳ですが、それはイエス・キリストの「公生涯」において、多く見受けられる現象です。そしてイエス・キリストが復活された後、この「迫害」という言葉を一番使用した弟子が、実はこのストーリーの主人公パウロでした。私たちは、とかくこの「迫害する」という言葉に関して、例えば「先生からメッセージで裁かれた!」、また「ある奉仕グループにおいて、私は村八分にされた」などの体験から、すぐに自分が「霊的迫害」を受けているような錯覚に陥ります。しかし「霊的迫害」とは、そのような人間関係レベルの言葉ではなく、私たちの「霊」の中において、「何」が霊的に格闘しているか、そのような霊的レベルにおいて、私たちが是非知らなければならない、重要な概念が含まれていることを、私たちは先ず知るべきです!


 聖霊様は厳しく言及します。「あなた自身の霊の中で、イエス・キリストに対して迫害している部分が必ず存在する!」と。ところで、私たちの物理的反応においては、例えば外側から圧迫するものが到来した場合、私たちの三次元反応(思考)では、「何故私に、このような事が起きるのか?」などと、必ず「私」という存在が「霊」の中で格闘し始めます。覚えて戴きたいことは、イエス・キリストも「人の子」であったが故に、私たちと同様の様々な「圧迫」を、外側から一方的に被ったことです。そしてイエス・キリストの場合、「その時」実に不思議な行動に導かれたことが、新約聖書に多く記されています。


 イエス・キリストの場合、私たちの如くに「私」対「あなた」という格闘(立向かう)を、「肉の力」をもって行使していません。結論から申し上げれば、イエス・キリストはそのような状況に追い込まれた時、直ちに「逃げる」行動を選択して(聖霊によって導かて)います。弟子たちの殆どが、「我らのリーダーは、何て臆病な弱き器なんだろう!」と思ったことでしょう。そして「何故イェス様は、あの不思議な天の力(癒しなどの奇跡)をもって、この事態(問題)に立向かわないのだろう?バプテスマのヨハネは、逆に彼らに対して言い負かしたではないか!何故先生は、いつも逃げ腰なんだろう?」などと、口惜しがる者もいたことでしょう。


イエス・キリストの「逃げ場」
 イエス・キリストは、いつも何処に行かれた(逃げた)のでしょうか?実はイエス・キリストは、常に聖霊様の導きを通して、父なる神の「ふところ(全能者の陰)」に逃げ込んでいたのです。では、私たちはどうでしょうか?私たちは大抵、自分の好まない悪しき事態に遭遇しますと、自分(自己)の殻に逃げ込んで、「何故いつも私に、このような事が起きるのか?」などと呟きます。しかし「その時」に、イエス・キリストは囁きます。「何故あなたは、私の元に逃げ込まないのか?」と。覚えて下さい!「真の迫害」とは、私たちを必ず「命の源」イエス・キリストの御元へと至らせる、父なる神の取扱いの一つであることを!聖霊様は常に、私たちに対して警告を与えます。「あなたの霊の中心に、私という自我(エゴ)がある限り、本来そこに座すべき方(イエス・キリスト)を、あなたは迫害しているのです!」と。


 「私の霊の中心に、イエス・キリストが座していなければ、私は無きに等しき者です。イエス・キリストがいらっしゃらなければ、私は生きることが出来ません!」と告白する者にとって、何か「悪しき事」が起こったとしても、「主よ、あなたが全てご存知です!ですから私は、あなたの御元に逃げ込みます。主よ、あなたの御心を示して下さい!私は為すことが出来ません!私が仮に、自分の肉の力で乗り越えたとしても、それは失敗に終わります。」と、神の主権の下に「私(エゴ)」を置きます。


 それに対して、「自分」を霊の只中に据える者は、たとえ唇で「主イエス・キリストは素晴らしい方です。賛美します!」と唱えていても、必ず最終的に「自分」を誇るようになります。そうなると、変革される前のサウロの如くに、いつの間にかイエス・キリストを霊の片隅に追いやって、「自我」を霊の城主として確立することになります。その時にイエス・キリストは、「何故あなたは、私を迫害する(追いやる)のですか?」と、悲しみの声を発せられるのです。


 パウロはガラテヤ書4〜5章の中で、この「迫害」について怒りを顕わに記述しています。「私の子供たち、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。出来ることなら、私は今あなた方のもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなた方のことで途方に暮れているからです。」(4章19〜20節)特に4章19節以降の御言葉は、聖霊様ご自身の「御思い」としての記述です。彼は自分の「霊」の中で、如何に愚かな三次元の「肉なるもの」が、聖なる「霊なるもの」を汚し占領しているかを、自分自身が一番に理解していることを、ガラテヤ書及びローマ書8章の中で述べています。


 私たちの「霊」の中には、イエス・キリストを「救い主」と知っても、なお格闘し続けなければならない、「霊的戦い」が存在するのです。つまり私たちの「霊」の中において、常に「サラの子(神の次元)」を欲する思いと、逆に「ハガルの子(肉の次元)」を欲する思いという、霊的格闘が続いています。このことは私たちの「霊」の中にも、実は自分が「神」の為に何かを為すことで自己満足に陥ったり、自分が為した「行為(業)」を基準として、自分が「キリスト者」であると錯覚している部分があるのです。


 しかし聖霊様が望まれることは、私たちの「霊」の只中に「キリストが・・・・形づくられる」ことのみです。つまり、私たちが「自己」を現すのではなく、「イエス・キリスト」だけを現す「器」に造り変えられることを、聖霊様は望んでおられるのです。そしてイエス・キリストは、「あなた」という本来の麗しい器が、花婿なるイエス・キリストと結び合わされて、「迫害者」ではなく「共同相続人」として、大いなる祝福の実にあずかって欲しく望んでいます。聖霊様はその為に私たちを、様々に取扱うべく働いておられるのです!


 ウォッチマン・ニーは次のように述べています。「神の器、神の執事とは、神を認識する人を言うのです」(注)つまり「神の器」とは、神のために何かをする者ではなく、神を正しく認識する者のことです。この神を認識するとは、神に関する「情報」や「知識」を習得することではなく、本当に神との「親しい交わり」を通して、「神」無くして「自分」が存在し得ないという、霊的次元にまで導かれることです。私たちの「霊」は、何を欲しているのでしょうか?霊(命)の源なる方イエス・キリストに近づき、もっと更にイエス・キリストの「み体」の肢体として、「自分」が結び合わされていくことです。


 それに対して、「肉なる次元」へと誘うサタンは、「否、違う!あなたはもっと神のために、何か大きな働きをするため、あなた自身(自我)が今よりも、更に偉大な器として確立されるべきです!」と囁きかけます。「その時」にイエス・キリストは、聖霊を通して「あなたは更に、私を迫害するのですか?」と、改めて問い質されます。


結び
 今まで13回に渡って、イエス・キリストの霊的問いかけ(問診)を、私たちは戴いて参りました。これら13の問いかけは、「イエス・キリスト」が①あなたの人生全般に渡る、唯一の主権者(支配者)であられ、そして何よりも②イエス・キリストがあって初めて、あなたの存在の「意義」、また「器」としての目的(意志)が、明確に現されて(実現して)来るために、あなたに投げかけられているのです!ですから、私たちは絶対に自分の「意志」で、自分の人生の「意義」や、器としての「目的」を確立しようとしないで下さい!これは全て、悪魔サタンの霊的「罠(トリック)」です。


 私たちが為すべきことは、賢い五人の乙女の如くに、聖霊様の「御声」を純粋に求めることです。「主よ、お語り下さい!私は何を為すべきでしょうか?そして更に私が、イエス・キリストの御元へと逃げ込むことが出来るよう、聖霊様の働きを感謝し祝福します!私が私であるためには、イエス・キリストが私を完全に支配することです。それ故、私の愛する花婿イエス・キリストよ、あなたの霊的問いかけを、全て私に投げかけて下さい!私があなたを迫害している部分がありましたら、どうか聖霊様、それら全てを完全に聖めて下さい!」と。


 これから益々、主イエス・キリストの様々な「問いかけ」が、あなたの「霊」に投げかけられることでしょう。その過程において、あなたが決してイエス・キリストを、霊的に「迫害する者」にならないよう、十分にあなたの「霊」を見張り続けて下さい!あなたが「霊」の中心に、「肉なるもの」が欲することを確立し、「霊なるもの」が欲していることを片隅に追いやり、自分自身で歩んでいく部分があるか否かを。私たちが本当に、「神の器」に造り変えられたいのであれば、神の「御心」のみを純粋に満たすことの出来る、「聖霊の器」へと仕立てられることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


(注)ウォッチマン・ニー著『アブラハム、イサク、ヤコブの神』(日本福音書房)148貢より


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