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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.10)

イエス・キリストの13の問いかけ−その10


             『パンはいくつありますか?』




イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群集が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に横たえたので、イエスはこれらの人々を癒された。群集は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群集がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これ程大勢の人に十分食べさせる程のパンが、何処から手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり。」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群集に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群集に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠に一杯になった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
                                                                                            【マタイ福音書15章29〜38節】


「パン」を持っていますか?
 イエス・キリストが問いかけられた、「パンは幾つあるか」(34節)という御言葉は、より詳しく直訳しますと、「あなた(方)は、パンを幾つ手元に持っていますか?」という質問で、決してパンの「数」のみを問うものではなく、果して弟子たちが「パン」を持っているか否か?を実際に問う言葉です。実は聖霊様も、「あなたはパンを、実際に持っていますか?」という、非常に単純な霊的「問いかけ」を、私たちに対しても投げかけていることを、あなたはご存知でしょうか?つまり聖霊様は、私たちがいつも霊的に、ある備えをしていなければならないことを、このストーリーから教え示しています。


 今日の日本ばかりでなく、世界的規模で社会や経済、そして自然環境の動向を見る限り、何となく神の定めた「終わりの時」が、刻一刻とそのスピードを早めた感じを否めません。テレビのニュース番組において、毎日映し出される情報を視聴していても、「何故このような事が、次々と起こるのだろうか?」などと、「時の流れ」を予測できない事象が次々と現れ、万物が「ある方向」に向かって、突き進んでいるように思えてなりません!このような不安定な「世」にあって、人々は必ず次のように噂するでしょう。「もう何も当て(頼り)にならない!」と。今日の日本は、安心して暮らせるという「安全神話」が、過去のものとして語られる程に、予測できない出来事(事件)が、現実として起こり始めている訳ですが、私たちは如何なる時にあっても、正しく見極める(判断する)「霊の眼」、そして正しい知恵をもって情報を取り入れる、「霊の耳」を持ち併せたいものです。


 このストーリーに見られる、イエス・キリストが生きた時代は、前述したような予測できない事件、例えば重代犯罪や世界規模の自然災害などが、次々と起きていた訳ではありませんが、今日の医学でも治療不可能な、「不治の病」に苦しんでいる人々が、数多く存在したことは事実です。そして、イエス・キリストの御元に押し寄せる群衆の、恐らく八割以上を占めている人々は、家族の中に「不治の病」に苦しむ者を持った、そんな人々ではなかったかと推測できます。何らかの「病い」を患っている者、又「悪霊」に取り憑かれた者、日々「不治」という状況に追い込まれている者が、必ず各家族の中に一人は存在したことでしょう。それ故に、メシヤを待望していた当時のイスラエルの人々は、家族全員で「問題のある者」を引き連れて、イエス・キリストの御元にやって来たのです。ですから、このストーリーに見られる群集は、決して「病人」のみの数ではなく、様々な種類の人々を含めて、「家族」単位がメインとなる集合体でした。


 そしてイエス・キリストはこの時、ご自分の元にやって来る人々の全員を癒されたのです。しかもイエス・キリストの為された、この時の「しるし」と「業」は、何と三日三晩に渡って続いた、文字通り大イベントだったのです。殆どの家族が、まさか三日も続くとは予想しませんでしたから、弁当(食糧)も「一食」程度のものしか持参していなかったでしょう。最初の一日目は、全ての群集に「勢い(体力)」があり、それは二日目まで何とか持ち応えていました。しかし、三日目になると殆どの人々が、空腹により疲労困ぱいしているのが、誰の眼にも明らかになりました。当然イエス・キリストも、群集の様子を全てご存知でしたから、非常に哀れみの念を覚えられ、父なる神に祈り求める中で確信していました。「父なる神は、必ず天上の良きものをもって、彼らの飢え渇きに応え満たして下さる。天のお父様は、そのようなお方だ!」と。それ故イエス・キリストは、弟子たちに「パンは幾つあるか」と、意味のある言葉をもって問いかけられたのです。


「命のパン」の備え
 イエス・キリストが問いかけられる前に、弟子たちの殆どが「この人里離れた所で、これ程大勢の人に十分食べさせる程のパンが、何処から手に入るでしょうか。」(38節)と、否定的な応答をしています。もし私たちがこの時と同じ状況、例えば将来起こるであろう霊的大収穫が、今まさに始まるという状況に置かれるとしたら、神を求めて群がって来る大群衆に対して、私たちは果して即座に用意できる程の、「命のパン(神の御言葉)」を持っているでしょうか?聖霊様も問われるでしょう。「あなたは命のパンを、幾つ(どれ程)用意していますか?」と。


 まさか将来あなたの元に、この時と同様の男性だけで四千人、つまり老若男女合計しても、恐らく七千人以上の人々が押し寄せて来るとは、到底考えられないかも知れませんが、イエス・キリストの御元には、常に千単位に昇る人々が集まって来た訳です。その時に私たちは、この時の弟子たちの如くに「イェス様、どうして一気にリバイバルを起こされるのですか?少しずつでしたら、何とか対処できるものを・・・・。彼ら全員に与えるパンは、何処に在るというのですか?」などと、不平を漏らすことでしょう。憶えて戴きたいことは、彼らは数ヶ月前にも同様の奇跡(しるし)を、直接経験していた(14章参照)にも関わらず、否定的な応答をしたことです。


 その時にイエス・キリストは、ため息混じりに「はー!お前たちは・・・・」とは思わず、「パンは幾つありますか?」と問われました。イエス・キリストと共に行動し、数々の奇跡を間近に見ていた弟子たちが、何故次のような信仰の言葉をもって、応答出来なかったのでしょうか?「先生、先日あなたは、素晴らしい奇跡を為されました。ですから今回も大丈夫です!ここに私たちのパンも(幾らか)あります。どうかこれを裂いて、麗しい神の国の御業を現して下さい!」と。イエス・キリストは、私たちにも同様に問いかけられます。「あなた方は、確かに自分の頭の中で計算し、物事を進めていくことが得意です。しかし、父なる神の御心通りに必ず成就することを、未だあなた方は学んでいない!」と。


 父なる神が為される「命の法則」は、立派な(有名な)カリスマ・リーダーとか、パウロのような有能な器のみを召し出して、神の国の麗しい御業を始められるなど、そのような三次元レベルのものではありません!名も無き者の純粋な飢え渇き、そして神の国が「この地」にも現されることを、へり下って願い求める人々(群れ)の中に、神の「命の法則」の御業が為されるのです。彼らは、「主よ、あなたが為されることでしたら、全てその通りになるでしょう!その為に私は、日々あなたとの交わりの中において、あなたが与えて下さる天上の良きものを、私の霊のただ中に貯えます。あなたの時に応じて、その天の恵みを人々と共に、霊的に分かち合う時が必ず来ます。ですから、どうぞ主よ、その時まで私を祝福し整えて下さい!」などと、賢い五人の乙女の如くに、へり下って祈り求める人々です。


 しかし、この時の弟子たちの殆どが、「主よ、今のこの状況では、食糧を全員に配給することは百%不可能です!彼らの食糧は、この三日日間で底を付いています。」としか答えようが無い、信仰の薄い者たちでした。私たちもこの時の弟子たちと同様に、必ず霊的に試される「時」が来ます。「この世」の三次元的判断では、予測不可能な出来事が次々と起こるなど、父なる神の「振るいの時」が来るのです!しかも「良きこと」ではなく、「悪しきこと」が次々と起こって来る時に、私たちは「何」を備えるべきでしょうか?それは「命のパン」、つまりイエス・キリストの「命の言葉」です。イエス・キリストが語られる「命の言葉」は、不可能と思える状況に対して、神の「命の法則」を必ず確立し、神の国の麗しい「創造(再生)」の御業を、信じる者の信仰に応えて現して下さいます。そしてあなたの「古い人(人格)」を打ち破り、「新しい人」へと造り変える(建て上げる)、豊かな「命のパン」でもあります。


 何故弟子たちは、イエス・キリストの「しるし」と「業」を、過去において間近に見ていたにも関わらず、この時も信じることが出来なかったのでしょうか?それは単純に言えば、「忘れてしまった」からです。つまり、私たちの信仰生活の中にも必ずあるものですが、三次元的なもの(例えば御利益、祝福)だけを、彼らは常に求めていたのです。目の前にある現状を三次元的視点で判断し、ヨシュアとカレブの信仰告白のようにではなく、他の十人の斥候たちの如くに「あーこれ程大きい問題は、今まで経験したことが無い!だから今回は無理だ、やめておこう!」などと、すぐに諦め(神の恵みを忘れ去ること)ます。


 しかし覚えて戴きたいことは、神の為されることは全て「理(真理)」に適って、「無駄」が一つも無いことです。仮に予測不可能な出来事が起こっても、私たちを一気にどん底におとしめることは為さらずに、必ずそれ以前に「事前(準備)段階」の時を、聖霊様の「啓示」を通して備えて下さいます。それ故私たちは、自分では到底太刀打ちできないことが、次々と起こり始めたとしても、例えば「もしかしたらこれは、自分を霊的に整えるべく始まった、神の取扱い(訓練)ではなかろうか?」などと思う、霊の次元から判断して下さい!


聖霊様の「カウント」
 この時、イエス・キリストは聖霊様からの啓示を受け、弟子たちに対して次のように命じられたことでしょう。「見なさい、この大勢の人々を。彼らは、その殆どが家族単位で来ている。あなた方にお願いするが、全ての家族から家長だけの人数を知りたい!すぐに家長の数を集計しておくれ。」と。すると弟子たちは、一斉に群集の中に溶け込んで、大まかなデータ(統計)を集め、イエス・キリストに次々と報告しました。報告を聞き終えると、イエス・キリストは続いて「分った。それでは今度は、彼らを例えば出身地別、或いは居住地区別でもいいから、五十家族単位毎にまとまるよう、彼らにお願いしておくれ!」などと、具体的に全群集を「小分化」するよう命じられました。


 マルコの福音書6章によれば、イエス・キリストは集まって来た大群衆を、最良の(最適な)グループ分けを為されていることが伺えます。「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。」(39節)その「組」単位とは、恐らく各地区に居住する人々のことで、その地区を熟知する年長者(長老)が、各家族の長の数を弟子に報告したのでしょう。何故イエス・キリストは、このような方法を採られたのでしょうか?それは、父なる神が全ての人々に対して、天上からの「給食」を配分する時に、混乱すること無く全ての家族に、平等に食糧が行き渡るようにする為です。神の恵みは、「全ての者が一斉に、そして同時に賜る!」こと、これが「命のパン」を戴く際の、父なる神の定めた法則です。


 この不思議な神の法則に従った結果、彼らは誰一人漏れることなく、「命のパン」にあずかりました。この出来事から、私たちに対して示される奥義は、「(三次元的判断から)数えてはならない!」ということです。「後の雨」がこの地に降り注がれる時、確実に聖霊様を通して霊的な、魂の「大収穫の時」を迎えます。だからと言って私たちは、一気に「今は○○人、来年は○○○人、・・・・」などと、安易にカウントするのではなく、「一匹の羊(一人の魂)」を大切に取り扱うことのできる、一人の「神のしもべ」として、与えられたタラント(賜物)に応じて、「命の言葉」を十分に貯える「備え」をしましょう!


 そして常に、「あなたから戴いた命の言葉を、私の隣人に分かち合う時を与えて下さい!」と祈り続けましょう。そうすれば必ず、父なる神は「命の法則」にしたがって、あなたの霊的飢え渇きに応えて下さり、「後の雨」という神の大いなるイベントが、いつ起きたとしても、聖霊様による無駄のないカウント、そして「命のパン」の恵み(給食)が、スムーズに行き渡るという「証言」が、次々と報告されることでしょう。その為には、私たちが「計算方法」や「タラント」、また「力」や「能力」を与えて下さい!などと、安易に祈り求める者ではなく、「主よ、私にもあなたの、命のパン(言葉)を分け与えて下さい!私には無いのです!また私はハングリーです。あなたとの親しい交わりによって、天上の助けを降り注いで下さいますように!」などと、へり下って乞い求める「真の花嫁」であることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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