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バルナバ・ボイス(No.12)

イエス・キリストの13の問いかけ−その12


         『あなたは私を愛していますか?』



 「愛」という言葉に関して日本人は、非常に曖昧な概念しか考えることが出来ません。つまり日本人の多くが、どのように表現したらよいのか分らない程、民族的に「愛」の表現を明確に持ち併せていません。今回は、イエス・キリストが私たちに対して語られる「愛」と、逆に私たちがイエス・キリストに対して、如何なる「愛」を表明していったらよいのか?この点について詳しく、聖書から学んで参りましょう。


食事が終わると、イエスはシモン・ペテロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペテロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペテロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペテロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか。」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人のに帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペテロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペテロに、「私に従いなさい」と言われた。
                                                                                             【ヨハネ福音書21章15〜19節】


揺れ動く葦のようなペテロの性格
 ペテロの性格は、ご存知のように先ず「頑固」であり、そして「おっちょこちょい」など、キャラクターとして非常に興味深い性格の人物です。また他の11人の弟子たちと比較して、「リーダー格(兄貴分)」としての性格も持ち併せています。しかも彼は、常に師(イエス・キリスト)に対して、「我こそは、先生に忠実に仕える一番弟子(出世頭)である!」という、一つの自意識(プライド)を持って歩んでいました。


 実は十字架上で処刑される数日前に、イエス・キリストは弟子たち全員に対して、「私は近々、十字架上にて処刑される!何故なら、それは父なる神の御心(ご計画)であり、全ての人々の罪を贖うべく、犠牲の子羊として屠られなければならないから・・・・」と語りました。するとこの時、ペテロは「主よ、あなたが行かれる所には、私は何処までも付き従って参ります!」と大胆に告白しました。まさか先生が、本当に死ぬとは思ってもみなかったからです。それに対してイエス・キリストは、「ペテロよ、そんなに軽はずみな事を言ってはならない!人間は、風に揺れ動く葦のように、気持ちが左右に移ろい易い存在だ。あなたは確かに今、私に対して何処までも付き従って来ると言ったが、実際にあなたは、私の死の直前になって、私のことを知らない!と、皆の前で三度告白することになる。」という、預言めいた返答をされました。


 ・・・・そして実際に彼は、イエス・キリストが逮捕されてから数時間も経たない内に、イエス・キリストの反対派の人々から、様々な質問を投げかけられ素性を聞かれた際に、三度イエス・キリストを否定することになったのです。その瞬間に鶏が鳴き、彼は自分がイエス・キリストの預言通りに、「知らない(イエス・キリストとは関係ありません)!」と、三度公けで言ったことに気付き、自分が単なる「口先だけの愚か者(葦のように弱き者)で、最低の弟子である!」ことを思い知ったのです。


 その後、ペテロは物凄く気が塞ぎ込み、悲しみと失意の日々を過ごす訳ですが、他の弟子たちの殆どが同様の状況に追い込まれ、逃亡生活の中にありました。このストーリーは、イエス・キリストが復活されてから、最初マグダラのマリアに再会された、その後の出来事です。マリアは逃亡(隠遁)生活にある弟子たちに、師との再会の体験を次々と報告する過程で、恐らくリーダー格のペテロにも、より詳しく「事実」を語ったことでしょう。「私は確かに、復活のイエス様にお会いしたわ!そして私に語って下さったの。以前よりも私のことを愛し、片時も忘れることなく守り導いて下さることを!」と。ところがペテロは、自分の犯した「罪」の重さの記憶が、片時も彼の脳裏から離れていなかったので、「マリアよ、あなたの言うことは、とてもじゃないが信じられないよ!どうか偽り事を言ってくれるな!」と、全くマリアの言葉に関心を払うことなく、益々塞ぎ込んだのです。


 しかし、それから暫く何日かが経って、マリアの証言と同様の体験、つまり復活のイエスと再会した弟子が何人か現れて、彼の元を何度も訪ねます。「実は、俺も先生にお会いしたんだ!」という、彼らの興奮の入り混じった報告を聞く中で、少しずつペテロは弟子たちと「交わり」を再開します。・・・・そして今回のストーリーにつながる、イエス・キリストが直接彼の元を訪問し、再び語りかけて下さることになります。ペテロは「その時」、イエス・キリストが確かに自分の目の前に現れ、復活されたご自身を明確に示しているにも関わらず、依然として師との間に距離感を置いています。何故なら、一番弟子と自覚していた自分が、真っ先に「イエス・キリストを否定した、最低の弟子である!」と思っていたからです。「どうかイエス様、こんな愚かな私に、語りかけないでくれ!」と。ところがイエス・キリストは、以前のように彼に対して、「愛するペテロよ、私の元に来なさい!」と、優しく何度も促されたのです。


三度問いかけるイエス・キリスト
 イエス・キリストがペテロに対して、「あなたは私を愛していますか?」と問いかけられた時、彼はうつむいたまま「先生、あなたはご存知でしょう!一々申し上げなくても、私があなたのことを愛していることを。」と答えました。


 イエス・キリストが最初問いかけられた、「愛する」という言葉は、ギリシャ語で「アガペーオー」という動詞です。このギリシャ語の「愛する」は、母親が我が子に抱く「愛」に、非常に似通った概念です。母親は父親と違って、「妊娠」から「出産」に至るまで、自分の「命」を犠牲にしてまで、産まれ出る「赤子」の為に必死に生きようとします。勿論出産する時は、「死」を覚悟して分娩する訳ですが、実際に産み終えた後の「喜び」は、それまでの「産みの苦しみ」を忘れる程、「この子を産んで良かった!」という充足感(体験)の中にありますから、我が子に注ぐ「愛」は、まさしく自己犠牲的なものになります。ですから母親の「愛」は、「この子が生きる為であるなら、私は何を捧げても(犠牲にしても)構わない!」という、アガペーの愛の現れです。


 それに対して、人間の持つ一般的な「愛」は、ギリシャ語で「フィレオー」と言い、それは「友愛(人として親しく愛し合う)」のことです。この「友愛」は、当然アガペーの愛に比べて格の下がるもの、つまり自分の利益、或いは不利益如何によっては、それを行使するか否かという、非常にうつろい易いレベルのものです。ですから、私たちの持っている「友愛」は、風に揺れ動く葦のように「ある時は愛するが、こうなった時は逆に知らんぷりを装う」類のものです。しかし母親の持つアガペーの愛は、常に無償のものであり、如何なる犠牲を被っても、「我が子」を救い出すという、非常に強固な信念に基づくものです。


 実はこのアガペーの愛は、私たち全ての人類の「罪」を贖うべく、ご自分の「命」を惜しまずに、十字架上に捧げ尽くされた、イエス・キリストの有り様(生き方)に見られます。覚えて戴きたいことは、イエス・キリストにとって「私たち」は、十二弟子と違って親しい間柄には無い、「全くの他人」です。しかしイエス・キリストは、ご自分とは何の関わりも無い「私たち」の為に、喜んで「命」を捧げられました。父なる神の、御子イエス・キリストに対する命令は、「全ての者が、誰一人として滅びること無く、御子の贖いの御業を信じることによって、永遠の命を得る!」ことでした。


 イエス・キリストも、ある喩話の中で語っています。私たちの中途半端な「愛」の論理では、「100匹の羊の中で、たとえ1匹が迷子になり死んだとしても、残りの99匹が救出されれば、それで良いのではないか!」などの判断をします。ところが父なる神の「愛」の論理は、「その失われた1匹の子羊を救い出すべく、如何なる犠牲を惜しまずに、真の羊飼い(イエス・キリスト)を遣わす」ことです。そうです!父なる神にとって、一人一人が価値ある尊い「命(存在)」として贖い出すこと、そして一人一人に対して与えている、「最高の人生」を全うして欲しく、あなたの元にも真の牧者(イエス・キリスト)を、常に遣わして下さっているのです!


 私たちは普通、自分のことを裏切ったり、自分に何らかの被害を与えた人に対しては、「二度と関わらない!」という生き方を選択します。しかし、イエス・キリストにとって「ペテロ(私たち)」の存在は、たとえ過去或いは将来において、如何なる「罪」を犯し、人間的に見て「失敗者(負組み)」というレッテルを貼られた者であっても、ご自分の「愛(アガペー)」を注ぎ、その者と再び愛の「交わり」築きたい!と強く望んでおられるのです。


 ですからイエス・キリストが、最初ペテロに問いかけられた質問は、詳しく訳しますと「私はアガペーの愛で今も尚、あなたのことを愛していますが、あなたもアガペーの愛で、私のことを愛してくれるか?」という内容になります。「無条件」でイエス・キリストを愛するか?と問われた時、ペテロは「うーん、困ったなー!答える資格が自分には全く無い!」と黙り込んだまま、そして恐らくこの時の彼の心境は、「先生が革命でも起こし、この国を再興してくれれば、如何なる犠牲をも顧みずに、愛し続けることが出来た!しかし事実は、私は三度先生のことを否定した!そんないい加減な愛しか、今の自分は持ち併せていない!」などと、益々気落ちしたはずです。


 そのような彼の心境をご存知のまま、続いてイエス・キリストは、「分った!それでもあなたは私のことを、アガペーの愛で愛してくれるか?」と、二度目にも問いかけられました。それに対してペテロは、困惑しながら「イエス様、お分かりでしょう。私が自己中心かも知れないけど、あなたのことを愛しているのは・・・・」と仕方なく返答しました。それでもイエス・キリストは、彼に対して再び「分っているよ、ペテロ。それでも私の羊の世話をしなさい。」と命じられながら、ペテロが「愛する」ということに関して、未だ正しく理解出来ずに、心の奥深くで傷ついている、つまり彼自身が「失われた子羊」であることを承知した上で、三度目には次のように問い直されました。「分った!あなたの自己中心の愛で構わないから、あなたのその愛で尚も、私のことを愛し続けてくれるか?」と。


 その時ペテロは、遂に悟りました。「私は、何と自分が愚か者であったことか!このままでは駄目だ!私は今のまま先生を、自己中心的に愛し始めたとしても、再び風に揺れ動く葦のように、失敗を繰り返すだけだ!」と。つまり、彼は過去のイエス・キリストに対する、「裏切り」の記憶を全て消し忘れたい!と、それまでは何度も欲していたのですが、イエス・キリストの三度にわたる問いかけを耳にした時、もはや「肉の力(自己中心)」では、立ち続けることが出来ないことを悟ったのです。


 イエス・キリストが、彼の苦悩の全てをご存知の上で、「いいのだ、ペテロよ!あなたが如何なる者であっても、私はあなたのことを、アガペーの愛で愛している。だからあなたも、私のことを愛しますか?」と、三度彼に問いかけられた目的は、再びご自分とペテロ(私たち)の関係を、父なる神の「アガペーの愛」という、正しいポジション(交わり)に取り戻すこと、つまり霊的な「愛」の再確認だったことです。


 ですから、イエス・キリストのペテロに対する三度の問いかけは、裁判官が被告人(犯罪者)に対して、「今の答弁は真実ですか?」と問い質す類の、「裁き言葉」ではありません。仮にペテロが、「いいえ!私は裏切り者でした。それ故、再びあなたのことを愛する資格が、今の私にはありません!」と、正直に返答したとしても、「では、これにて閉廷(さようなら)!」と突っぱねるなどの、薄っぺらな人間的な「愛」ではなく、彼が如何なる者であったとしても、続けてペテロのことを愛して下さり、その「アガペーの愛」を常に、「憶えていて欲しい!」と、イエス・キリストは要求されているのです。


「アガペーの愛」を常に憶える
 私たちに与えられている父なる神の「愛」は、ある面で私たちが天国に入場出来る、「通行許可証(ライセンス)」のようなものです。ところが、私たちはこの霊的ライセンスを、頭(三次元的知識)では悟っていますが、私たちの自己中心的な「歩み」の故に、この霊的ライセンスのことを、殆どと言ってよい程、実は「忘れている」ことに気付いていません。しかし愛する私たちの主イエス・キリストは、ペテロ同様に失敗だらけの私たちのことを、「何にも代え難い器として、無条件に受け入れて下さり、妬むほどに愛し続けて下さっている!」ことを、私たちは常に憶えておくべきです。


 ペテロは、イエス・キリストから三度問いかけられた時、明確に悟りました。「私の愛する先生は、こんな愚かな私のことを、決して忘れることなく憶え、そして愛して下さっておられる。もう一度、イエス様の愛を戴こう!」と。私たちはこの時のペテロ同様に、イエス・キリストご自身から「私はあなたのことをいつも心に憶え、そして永遠に愛しているよ!だからあなたも、私のことをいつも心に憶え、愛しておくれ!」と問いかけられていることに、聖霊様を通して霊的に気付くことが出来れば、どんなに励まされることでしょうか!そしてイエス・キリストと、常に「愛」を再確認し合う麗しい関係にあれば、私たちは自己中心的に、無理な生き方をする必要もありません!


 実はイエス・キリストはこの後、ペテロに対して次のような預言的言葉を語りました。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人のに帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」(18節)実際にペテロは、敵国ローマの地において逮捕され、最終的に「死刑」を宣告された際に、「私は、愛する先生(イエス・キリスト)と、同じ姿で十字架上に行くのは、どうしても先生に申し訳ない!だから私はせめて、この頭を下にして(逆さ十字架刑)、先生に私の愛を証明したい!」と、処刑官吏に対して自らの処刑方法を嘆願しました。


 憶えて戴きたいことは、イエス・キリストはあなたに対して、「私は、いつもあなたのことを心に憶え、無条件に愛し守り導いている。だからあなたも、私の愛を憶えていて欲しい!」と、しきりに訴え続けておられることです。「憶える」ということは、私たちが「私の愛はあなたの愛と比べて、いい加減なものですが、私もあなたのことを愛します!どうぞ導いて下さい!」と、イエス・キリストに単純に応答することです。「その時」に、少しずつイエス・キリストの「愛」の力の現れが、あなたの「愛」の応答として、「神の国」から麗しく流れ出ることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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