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バルナバ・ボイス(No.9)

イエス・キリストの13の問いかけ−その9


     『あなたの信仰は何処にありますか?』




ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、溺れそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪(なぎ)になった。イエスは、「あなた方の信仰は何処にあるのか」と言われた。
                                                                                                 【ルカ福音書8章22〜25節】


信仰は何処に?
 ご存知のように今の日本は、このストーリーに記述されているように、嵐の中で翻弄される一艘の舟「日本丸」のようです。嵐(突然の出来事)によって引き起こされた荒波の中で、目的地(解決の糸口)を目指して進み行くのですが、正しい進路(軌道)に中々乗れない状況が続き、もはや左右に舵を取ることが出来ず、「沈没」という危機の時が目前に迫っている・・・・、そんな状況に日本は置かれていると思います。


 例えば日本の財政は、いつか近い内に「破綻」してしまうのではないか?という不安(恐れ)、そしてアメリカからの強行的な外圧(政治、経済等)、また国内においてはいつ起こるか分らない巨大地震など、非常に日本国民全体が危機感を抱くなど、安心して「日本丸」の乗船生活を満喫出来る状況にありません。


 そのような中で、私たちキリスト者と言えども、この時の弟子たちと同様に、危機迫る状況の中で「一体どうすればよいのか?」などと議論したり、右往左往と走り回っているのではないでしょうか!私たちはイエス・キリストが、何処におられるのか知っているにも関わらず、決してイエス・キリストの御元に行こうとせず、「肉の力」を頼みとして、一つ一つの問題(荒波)を解決し、何とか乗り切って行こうとしていないでしょうか?しかし、聖霊様はこの時の弟子たちと同様に、私たちに対しても「あなた方の信仰は何処にあるのか」という、非常に厳しい「問いかけ」を発しているのです!


 ところで私たちの信仰は、一体何処にあるのでしょうか?ご存知のように、「本来の人」であるアダム(エバ)は、父なる神により「命の息」を体内に吹き込まれ、「生きる者」となった時に初めて、神を求めて止まない飢え渇きが、霊的特性として備わりました。それ故全ての人々の「霊」の中には、今でも残っている「信心深さ」があり、「何か」に頼って生きていこうとする、「信仰」の現れの一つです。たとえ無神論者であっても、自己の「信念」を神の如くに頼みとして生きるなど、彼らも一つの「信仰」を抱いて生きているのです。


 では私たちはこの「信仰」を、一体何処に正しく据えるべきでしょうか?実はこのことが、今に生きる私たちキリスト者に対して、緊急に問われている課題ですが、私たちはこのストーリーに見られる、全ての弟子たちの持つ「信仰心」と、何ら変わり無き者であることを覚えながら、聖霊様が導いて下さる本来の「信仰」へと、霊的に軌道修正されて参りましょう!


「何」を願い出たか?
 弟子たちの全員が、乗船する以前にイエス・キリストを通して、様々な「奇跡」と「しるし(業)」を直接見るなど、「神の国」の現れを体験していました。現に今回の出来事の直前において、弟子のリーダー格であるペテロは、自分の義母が不治の熱病から完全に癒され解放されるという、素晴らしい出来事を見たにも関わらず、「往きは良い良い、帰りは・・・・」という、突然の荒波の状況(危機)の中に置かれた時、自分の「信仰」がもろくも沈没したのです。


 恐らく乗船した時点での、ガリラヤ湖の天候は凪の状態にあり、ちょうど船出するには良い湖風が吹く中、彼らの乗った舟は目的地を目指して、順調に突き進んだことでしょう。ところが暫くすると、急に黒雲が上空に立ち込め、台風並みの突風が吹き始めたのです。すると、気持ちよさそうに眠っていた弟子たちの殆どが、蜂の巣を突いたかの如くに慌てふためき、身も心も落ち着かなくなりました。


 一向に収まらない暴風の嵐の中で、いよいよ舟が引っくり返されるのではないか?という状況に至っても、弟子たちは舟の「中央」に誰がいらっしゃるのか、全く気付かなかったのです。大波の中で揺れ動く状況の中にあっても、平気で眠り続けるイエス・キリストの様子も、読み手の私たちは実に不思議な感じを覚えますが、もしかしたらイエス・キリストは、深い眠りの中にあっても父なる神の臨在を、「夢」の中で感じ取っていたのかも知れません。そして聖霊様と言えば、当然イエス・キリストの「時の流れ」をご存知でしたから、逆にこのような状況の中で、弟子たちを霊的に試されたことが伺えます。


 遂にある弟子が、イエス・キリストの元に駆け込み、師をたたき起こし「救助」を願い出ました。すると、イエス・キリストは眠りから目覚め、普通は意識がもうろうとするのですが、たちどころに状況を汲み取り(既に知っていた)、彼らが「何」に怯えながら、自分に願い出たのかを察知したのです。彼らの願いは、「死」という恐怖からの脱出でした。イエス・キリストに対して、例えば「イエス様!あなたでしたら必ず、このような状況にあっても、たちどころに静めて下さる方ですね。どうぞ、あなたの命の言葉をもって、栄光の御業を現して下さい!」などと告白する者は誰一人無く、「主よ、もう私たちは死にそうです!どうにかして下さい!」などと、非常に弱き人間的な頼み事としか、願い出られなかったのです。


 イエス・キリストは、彼らの「恐れ」に満ちた顔付きを見て、彼らに何も言わずに船首に立つや否や、①雲と②風と③湖水に対して、各々命じられました。神の「創造の法則」によれば、父なる神が「命の言葉」をもって、万物をこの地に産み出した以上、万物は自然現象を含めて、父なる神の「意志(御心)」に従うように創造されています。それ故イエス・キリストの「信仰」を、私たちの「霊」の基礎として据える時、私たちも父なる神と同様に、大胆に天上から注がれる「信仰」により、「命の言葉」を発する時に、私たちの唇が天国の鍵となって、神の「御心」をオープンすることが出来る程の、御国の権威が授けられること、このことを常に覚えておいて下さい!


信仰の土台イエス・キリスト
 イエス・キリストは、、①雲と②風と③湖水の各々に対して、「お前たちは、元の正常な状態に戻りなさい!」と命じられました。「凪になる(calm)」とは、「静けさ」を意味する言葉で、それは文字通り静かな雰囲気、穏やかで平安な状態、健やかな状態のことです。


 私たちがイエス・キリストの「信仰」を戴き、イエス・キリストを「信仰」の堅固な土台とする限り、私たちは如何なる状態に置かれたとしても、決して揺り動かされることがありません。しかし、イエス・キリストの「問いかけ」に見られるように、「あなたの信仰は、一体何処にある(何を土台としている)のですか?」と語られていること、つまり私たちの「信仰」が、堅固なる岩(イエス・キリスト)だけを、「信仰」の土台として据え続けるのではなく、ある時は「お金」「地位」「名誉」など、三次元的なものを基礎として据えているため、本来のポジションであるイエス・キリストの「信仰」から離れて、「何処」にあるのかも分らなくなっているのです。しかし、イエス・キリストがペテロに命じられたように(マタイ福音書16章18節参照)、私たちは「イエス・キリストの信仰の岩の上に、神の宮(教会)を建てる!」ことが肝心です。


 イエス・キリストは、「嵐」に対して直接命じられることで、弟子たちに霊的模範を示されました。「あなた方も、元の正しいポジション(イエス・キリスト)に立ち返りなさい!そうすれば、神の御心を現す器として、正常な良き船出が用意されます!」と。イエス・キリストが命じられた瞬間に、①風は強風から無風状態に、②雲は暗黒の状態から全て身を引き、③湖水の大波は凪(calm)へと変容したのです。


 その後に初めて、イエス・キリストは弟子たちに対して「あなた方の信仰は何処にあるのか」と尋ねられました。つまりイエス・キリストは、「私がいつも、あなた方と共に居るではないか!あなた方は、私の何を見ていたのか?私の何を求めていたのか?」と、逆に問いかけているのですが、イエス・キリストの「問い」に答えられる者は、弟子の中には誰もいませんでした。


 恥ずかしながら私たちの信仰生活の中にも、この時の弟子たちと同様の「不信仰」が生じます。私たちは最初、「イエス・キリスト」を信仰の土台として据えながら前進して行くのですが、それと同時に「肉の力」も生じて来ますので、いつしか「イエス・キリスト」を片隅に置くなど、「自己中心丸」に乗船していることに気付きません。それでも、イエス・キリストは私たちの「霊」の戸口に立ちながら、「どうか私を、中に入れてもらえないだろうか?」とノックして下さり、「私は、いつもあなたと親しき交わりを持ち、あなたに対して凪の人生を与えたいのだよ!」と、聖霊様を通して語って下さいます。


 私たちは果して、信仰の基礎(土台)を「何処」に据えているのでしょうか?聖霊様は、常に問いかけておられます。「あなたは何処に向かおうとしていますか?何を目的として生きていますか?」と。私たちの人生は、いつも「凪」の状態が続くとは限りません。これからの日本は、イエス・キリストの預言にもあるように、様々な「巨大地震」が各地で起こり、世が乱れるなどの「争乱」が生じて来るでしょう。しかし恐れてはなりません!イエス・キリストは、常に私たちと共に居て下さいます。インマヌエルの神は、私たちを見放すことも「孤児」とすることもなく、必ず私たちの「霊」の只中に居て下さり、私たちの人生を「凪」の状態に変えて下さるべく、常に働いていて下さることを覚えて下さい!


 如何なることが起ころうとも、私たちは「私の霊の只中に、イエス・キリストが生きて下さっています。イエス・キリストは、私が荒波の人生の中にある時にも、必ず凪の人生へと変えて下さり、如何なる時にも挫けることが無きよう、私を守り導いて下さり、また危機の時には必ず贖い出して下さる方です!」と、大胆に証言できる人生を用意して下さることを、あなたは信じますか?


全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
                                                                                                        【ヘブル書12章1〜2節】


 私たちは如何なる「危険」と、「死」に至るほどの「恐れ」の中に追いやられても、イエス・キリストが十字架の「血潮」をもって、私たちの全てを覆い(守って)尽くして下さることにより、父なる神が私たちの人生に対して、「平安」と「豊かな人生」を確立して下さることを、私たちは上からの「信仰」として受け留めて下さい!


 そして、イエス・キリストが何にも優るものとして、私たちの「霊」の只中に住んで下さっていること、「助け主」聖霊様も共に働いて下さることを、イエス・キリストの「信仰」を通して信じて下さい!「信仰」を創造し、そして完成して下さる方(イエス・キリスト)に、私たちの「霊の眼」をしっかりと固定しながら、イエス・キリストを見上げて下さい!そうすれば必ず、イエス・キリストの「信仰」を現す器へと、あなたの人生が変革されて行くでしょう!


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