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神のご計画(No.24)

       真実の「恵みの地」に種づく




主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。・・・・祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人の拠り所となられる。彼は水路のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いが無く、実を結ぶことをやめない。
                                                 【エレミヤ書17章5~8節】


神の「恵みの地」
 「偽り」が全く無く、「真実」の実が必ず現れ出る、主なる神が用意して下さる、「祝福」のフィールドのことを、神の「恵みの地」と言います。この「恵みの地」に、私たちが霊的に種づくのか、それとも自分勝手に「いいえ、この地はどう見ても、実を結びそうに思えませんから、私はこちら(この世)の潤った豊かな土壌を選びます!」などと、人間的なものを頼みとして、自由に選び取ることも出来ます。


 しかし主イエス・キリストが、「種まき」の喩え話で語っているように、多くの実を結ぶ者とは、神が用意する「恵みの地」のみに霊的に種づき、そして着実に神の「御言葉」に根付く者です。とかく私たちは、様々な「現実」というフィールドを見て、例えば「主よ、ここは駄目ですね!こんな所に私たちが根付いたとしても、何も良き実りはありません。」などと言って、ヨナの如くに逃げようとします。


 主なる神は、今回エレミヤに語られた「御言葉」にあるように、実に分かり易い「表現」をもって、この神の「恵みの地」に種づく者と、逆に人間的な「現実の地」に振り回される者の、霊的「相違点」を対照的に描いています。自然に生えている植物でさえ、自然の猛威にさらされながらも、花を咲かせ実を付けて、いずれ種となって地に落ちます。その中の何割かが根付いて、ようやく次の世代の植物として生きるのです。つまり長い「時」のサイクルが、必ず成長に伴う訳です。


 イエス・キリストの「喩え」の特徴は、端的に言えば自然描写が多いことにあります。例えば「畑」や「ぶどうの木」、「麦」や「多くの実」など。実は「人」も、主なる神の見えざる「御手」によって、私たちは霊的に支配され(握られ)、豊かに守られ(管理され)ています。では霊的に種づき、また植えられた私たちは、どのように生きるべきであり、又どのように神に対して、自分の生き様を示して行ったらよいのでしょうか?この点に関して、エレミヤは二種類の生き方を、分かり易く説明しています。


 主なる神の「真実の愛」の大黒柱は、求める者全てに「祝福」を与え続けることです。神の「祝福」とは、ご自身の素晴らしいもの、それは「悪しきところが全く無い、麗しく、甘美に満ちたもの」、また「何度食べても(聞いても、触れても)渇きが収まらない」程の次元(未知の領域)にあるものです。この世の提供する「食事(料理)」は、ご存じのように毎日食べ続けたら、必ず「飽き」が生じて、一旦食べなくなります。しかし神の「祝福」は、永遠の「甘美」に満ち溢れた、天上の「ご馳走」と言うべきものですから、惜しみなく与えられることで、必ず渇きが激しく増して行きます。


 ところで神の「祝福」である、「恵みの地」に種づくべきところを、イスラエル(北)とユダ(南)は、他国の「偶像の地」を慕い求めて行きました。その結果、彼らは霊的に「一家離散」状態、つまり民族自体が滅亡するかも知れない、それ程の危機的状況に追い込まれました。ところが主なる神は、北のイスラエルに対しては、ご自身の偉大なる「ご計画」を完成すべく、「離散」自体にも意味(目的)がありました。つまり彼らは、決して滅亡すること無く、実は他国で生きる(種づく)べく、霊的に「移植」された訳です。しかし、イスラエルは「今の時」、即ち1948年に新しい「ぶどうの木」として、再び祖国の地に植え直されました。


「信頼」という種
 今の「終末の時」に私たちは、しっかりと確実に、堅く握るべき「福音」を持っていなければ、サタンの「まやかし(霊的トリック)」に、いとも簡単に騙されることを、肝に銘じて下さい!今日のメッセージの第一ポイント、それは「信頼」という名の「種」が、あなたの手に託されている!という点です。この種は必ず、「信頼」という素晴らしい実を結びます。あなたがこの種を、主なる神から戴いた時に、如何なることを考えて、如何に行動していくか、それが問われています。


 恐らく「その時」に、私たちは二つの「準備」をするでしょう。第一に①「プラン(計画)」を立てることです。具体的には、この種は「信頼」を意味する訳ですから、「種を蒔く者(自分)」と「種(信仰)」との「信頼」に基づきながら、いつ種を蒔き、いつ水をかけ、いつ肥料を施すなど、具体的な「時」のスケージュール管理をし、「実り」に至るまでの成長を管理します。第二に「信頼」という、言葉の持つ正しい意味として、自分の「拠り所」を何処に置くのか、即ち信じるに価する「真実」という点から、②神が計画しているフィールド(良き地)に種蒔いた後に、常に適切な処置(見守り、防御、水撒き等)を施すことです。


 しかし、主なる神が用意して下さる「フィールド(畑)」は、私たちが「現実」だけを見ていたら、決して「良き地」には映りません。覚えて戴きたいことは、主なる神が計画している次元は、私たちを更に練り聖めるべく、もの凄い大変な状況の中にあっても、「荒野(砂漠)」の中にある、「ダイヤモンド石」の輝きとして、あえて私(あなた)を、「荒野(砂漠)」に置く(種蒔く)のです。しかしその間にも、主なる神は私たちのことを、決して放置したままには為さらず、常に見守り続け、主要な根が地下水脈に達するまで、「恵みの雨」を注いで下さいます。


「信頼」が結ぶ実
 今日のメッセージの第二ポイント、それは神に対する信頼(信仰の種)は、その結ぶ唯一の「実」として、必ず神の「祝福」を賜物として戴くことです。ところがサタンは、神のこの唯一の方法に我慢なりません。そして被造物である私たちに対して、唯一の「実(命の木の実)」ではなく、「別のもの」を追い求めるよう、様々に惑わして来るのです。神の「祝福」の源流は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ!」の御言葉にあります。つまり植物の、「種」の法則と同じです。


 「今の地(地球)」は、既に最終段階に至っています。被造物全体が、産みの「苦しみ」を味わい始めています。悪しきサタンのもたらすもの、又霊的に汚れた人間がもたらす、様々な非道と悪行によって、地球全体が苦しみ喘いでいます。しかし、被造物は「その時」を待っています。自分たちが贖われる、完成される「その時」を。「その時」には、主なる神が私たちに、前もって示している贖い、つまり一粒の麦(種)が地に落ちて初めて、百倍の実を結ぶことが成就します!これは既に、霊的贖いのモデル(雛形)として、使徒行伝時代に一度起こりました。


 ところが今の「終末の時」、未だ「その時」に至っていません。それ故に、被造物は今も尚、激しく呻き苦しんでいます。「神の最高作品であり、神に従う正しい人々よ、目覚めて祈り始め、神が選びの地として、あなた方に示して下さる、その恵みの地を拠り所としなさい!そこが如何なる場であっても、如何なる状況にあっても、主なる神はあなた方に、真実という名の素晴らしい祝福を、常に用意しておられます!」と。


 例えば、私たちが何となく、「この世」という名の「肉の次元」から、一切離れるよう導かれる時、それは聖霊様による、霊的な「剪定(枝落とし、刈込、枝打ち)」に当たります。これは自分が望んでいない、霊的取扱いになる為、はっきり申し上げて理解出来ない、ある面耐え難きものであり、必ず「この世」からの理由無き憎悪を受けます。しかし覚えて下さい!主なる神は「あなた(私)」を、神の麗しい「霊の次元」へと、霊的に移植するべく、聖霊様を通して働いておられます。


 そうです!神に対して全面的な「信頼」をする時、私たちは神が用意する、「恵みの地」にか必ず移植されます。私たちが仮に「世」から嫌われる時、それは偉大なる神の、永遠の「祝福」の次元へと、私たちが確実に導かれている!ことを物語っています。それ故に私たちは、神による「移植」後の体験に、大いに期待して参りましょう!自分の中にある「肉の計画」を放棄し、主なる神に信頼して、全てを放棄しましょう!委ねることで得られる、神の「霊の次元」が見えて来るからです。


 主なる神が、一人一人に対して与えている、様々な「導き」「守り」「恵み」などを、信仰で確実にキャッチする時、私たちは自分という存在が、霊的には一本の植物として、神が用意する「恵みの地」に移植されたからこそ、神の素晴らしい「霊の次元」の中で、安心して生きられる訳ですが、更に必要なことは、正しい「水路(水脈)」に至るまで、信仰を深く深く掘り下げる、つまり根を張り続けることです。そうです!私たちに必要な信仰姿勢は、絶えず「命の水」を慕い求めて、「神の国」と「神の義」を第一に求めることです。


 ですから神に対する「信頼」は、必ず神の「祝福」という結果(実り)を得ますが、逆に「この世」に信頼する者は、一時的に良く(成功し)ても、必ず「呪い」の実を得る(刈り取る)ことになります。しかし私たちは、創造主なる神の見えざる豊かな「祝福」、即ち地下から滾々と湧き出る、「命の水」を慕い求める民です。私たちの「信仰」は、まるで植物の大きな「根」の如くに、深く深く掘り下げることで、「真理(本当の水源)」を見出すのです。「これこそが、私が捜し求めていた命の水である!これを飲みさえすれば、嵐は超えられる!」と。神が無代価で賜る「命の水」は、「日照りの時」にも、青々とした葉を茂らせるからです。


 「今の試練」の時に、私たちが為すべきことは、「信頼」という種を、「生きる糧」にしても、「霊的な糧」にしても、自分の人生の全てを捧げて、神の「恵みの地」に種蒔き、神の「祝福」を必死に探し求めることです。「命の水」は、いつでも惜しみなく与えられています。それを得たら、私たちは更に根を深く掘り下げ、青々とした葉を生い茂らせながら、必ず「良き実」を多く実らせるのです。


 そうすれば、神による大豊作の「刈り入れ」の時に、私たちは霊的エクレシアとして、主なる神(ぶどう園主)から、直々に賞賛の言葉を賜ることになります。「おー!あなた方は何と素晴らしい収穫物を、こんなにも大量の豊作として、刈り取る恵みに預かったとは!何と褒められる、忠実な農夫であるか!私と共に、神の栄誉を受け継ごうではないか!」と。


 あなたが仮に、「大嵐」や「日照り」の如き、「試練」の中にあるのであれば、それはあなたを、更なる神の高き「霊の次元」へと、主なる神が直々に導てい下さっている!という、明確な証拠です!あなたが常に、神の「正しい道」に導かれ、聖霊様を通して信仰が引き上げられ、「命の水」を絶えず慕い求める、豊かに葉を茂らせた、聖なる「ぶどうの木」として、更に祝福されて結実して参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年7月11日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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