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命と心の健やかなる成長のために!
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あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.21)

                     ラハブの館




私はあなた達に誠意を示したのですから、あなた達も、私の一族に誠意を示す、と今、主の前で私に誓って下さい。そして、確かな証拠を下さい。・・・・私たちの命を死から救って下さい。 」二人は彼女に答えた。「あなた達の為に、我々の命をかけよう。・・・・あなたに誠意と真実を示そう。 」ラハブは二人を窓から網で吊り降ろした。・・・・二人は彼女に言った。「・・・・我々がここに攻め込む時、我々を吊り降ろした窓にこの真っ赤な紐を結び付けておきなさい。またあなたの・・・・一族を一人残らず家に集めておきなさい。・・・・あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
                                                【ヨシュア記2章12~19節】


ヨシュアは・・・・二人の斥候に、「・・・・あなた達が誓った通り、その女と彼女に連なる者全てをそこから連れ出せ」と命じた。斥候の若者達は行って・・・・彼女に連なる全てを連れ出し・・・・イスラエルの宿営のそばに避難させた。
                                               【ヨシュア記6章22~23節】


「生死」の分かれ目
 今回の記事は、前回の記事の時系列から遡ること、イスラエル民族の「カナン征服」に至る、事前の「諜報活動」に関する内容です。ところで気象庁や自治体の発する、「緊急避難警報(シグナル)」という、非常時の避難対応放送がありますが、このシグナルには災害事象に応じて、レベル1からレベル5と言った具合に、避難レベルに様々な対策があります。この場合、避難情報の正確性(的中率)が、仮に当たらなくても、各自で真っ先に非難行動を取ることが、非常に重要となります。


 緊急地震速報や災害警報などの緊急シグナルは、的中率の良し悪しに関係なく、先ずは非難することが肝心です。つまり災害(トラブル)は、「逃げる」ことで初めて、生命の「救助(救い)」が成り立つ訳ですから、災害や事故などのサイン(兆し)となる情報や通告を、信じて受け留めることが大切となります。そして信じて受け留めたら、直ちに避難行動に移ることが、生死の分かれ目となります。


 今回のラハブの信仰表明は、二人の斥候に対して語ったものであり、自分たち一族の「救い」を懇願するに当たり、如何なる行動に移り、そして互いに誠意を示すのか?これが非常に重要となります。ラハブにとって彼らは、明らかに「敵側」の人間です。その彼らを、何故ラハブは信じて、誠意を示すことが出来たのでしょうか?それには、やはり「誠意」と「真実性」が、彼らの立ち振る舞いから、言葉使いに至るまで見えたからです。


「ラハブの館」の重要性
 今回の記事における第一の重要ポイントは、「信仰の館」が用意される時、それは主なる神が与える、揺ぎ無き「救いの砦」となる!という点です。ところで「館」とは、一つの「家屋(屋敷)」のことです。しかし「信仰の館」の場合、これは物理的な屋敷ではなく、神から戴く「信仰」をもって建て上げる、霊的な「避難所(救いの住処)」を意味します。真実の神は、私たちに対して信仰を働かせて、神の「救い」を直ちに受け留め、そこに住み続けるよう促しています。


 それに対して「人の館」は、人が生活を営む上で暮らす、大小様々な家(ハウス)のことです。ラハブが実際に住んでいた館は、遠方からエリコを訪問する、様々な外国人に対して、彼らをもてなし宿泊させる等、遊郭の如き特殊施設でした。「人の館」には幾つかの特徴があり、様々なイメージが付きます。当然人が住む家ですから、自分たちの家族を含めて、先祖代々暮らしてきた、言わば「生活の砦」です。その生活の砦である「人の館」には、三つの特徴があります。


 第一に①家族が、代々に渡って残すべきものです。一つの財産として捉えるのであれば、やはり血縁者に「遺産」として残すなど、血縁的縛りがあります。第二に②人の住まいですから、一種の「ねぐら(寝る為のスペース)」です。第三に③ラハブにとって、商いをする上での「拠点」とも言えます。つまり世的には、商売敵と「利益(儲け)」を競い合うなど、「館」と言えども戦場となる空間です。


 このように「人の館」の場合、物理的にも精神的にも様々な「縛り」があり、決して「救いの砦」の如きイメージではありません。むしろ常に「防御(守り)」に徹しなければならず、非常に窮屈感があります。しかし住み続けざるを得ない!ということで、先々において「不安」や「恐れ」などが付きまといます。


 それに対して主なる神が与える「信仰の館」は、神を信じる民が永遠に住み続けることの出来る、神の「安息」が満ち溢れた場所です。そしてそこは、世的な商売の空間ではなく、神の豊かな「命の水」が無尽蔵に溢れ流れ、もはや「飲み食い」に一切困ることの無い、霊的なフィールドとなります。人間的に戦わずとも、神の「安息」が常に保証される、「救いの砦」となるからです。


 実は「人の館」であったラハブの館が、今回のエリコ城塞都市を攻撃する、イスラエルの側にとって、非常に重要な「キー・プレイス」となります。即ち「カナン征服」の初戦における、勝敗の鍵を握る場所(建物の立地)でした。勝敗の「第一の鍵」は、イスラエル側の二人の斥候を、敵(エリコ勢力)からかくまった場所、それがラハブの館でした。二人の斥候にとって、彼女の館を訪れたこと自体が、神の見えざる御手による、不思議な「守り」と「導き」でした。つまり神の「救い」を現わす第一の「出発点」、それがラハブの館でした。


 二人の斥候は、かくまった側のラハブ一族に対して、自分の生死を懸ける程の、「誠意」と「真実」を示しました。実は「ラハブの館」の立地は、今回の記事(二人の斥候をかくまい、最終的には敵の捜索から逃したこと)から分かる事ですが、恐らく城壁に面して建てられていたことです。エリコの中心街から離れた、人間的には「マイナスの立地」に見える、そんな場所に建てられていましたが、今回の神の「救い」の手順から見る限り、驚くべき「良き立地」にあることから、実に神の不思議な「ご計画」を、ラハブの館に見出すことが出来ます。


 更に驚くべきことは、これは勝敗の「第二の鍵」となりますが、イスラエルの民が最後に「鬨の声」を上げた、まさに「その時」に、神の偉大なる御業が起こります。それが巨大地震なのか、他の突発的崩壊現象なのか定かではありませんが、とにかく城壁の殆どが倒壊する中で、城壁に面していたにも関わらず、ラハブの館だけは倒壊を免れている!という、確率的にもあり得ない「神の事実」があったことです。これは二人を吊り降ろした窓が、倒壊せずに「真っ赤な紐」を、その後も掲示し続けていた!ことから証明されます。


 ラハブの「信仰」が、いつの時点で生じてきたのか定かでありませんが、二人の斥候の言葉(救いの手順)を①信じて、②その通りに実行したから、「人の館」に過ぎなかったラハブの館が、神の「救い」を掲示する、重要な「信仰の館」になりました。「真っ赤な紐」を、窓にくくり付けてさえいれば、いつ如何なる時に何が起こったとしても、神の「守り(救い)」がある!という、彼女の純粋な「信仰」を、私たちも同様に受け取るべきです。


ラハブ・ゲート
 今回の記事における第二の重要ポイントは、「ラハブ・ゲート」という、彼女が実際に勇気をもって、大胆に開いた「信仰の扉」、即ち霊的サイン(真っ赤な紐)の意味を、私たちは今の時代にあっても、信仰をもって受け留め、私たちの「信仰のゲート」にも、同様の霊的サインを示す必要がある!という点です。①二人の斥候が捜索の手を逃れるべく、ラハブの館の「窓」から難を脱したこと、同時に②この「窓」の外側に、後々の「救い」を完成させるべく、ラハブが真っ赤な紐を、サイン(目印)として結び付けたこと、この二つの重要な信仰行動は、ラハブの館が物理的には、「人の館」であったにも関わらず、二人を城外に吊り降ろすことで、彼らの「命」を救う、つまり「救いの砦」になりました。それと同時に今度は、自分たち一族の「命」が贖われるべく、「真っ赤な紐」を窓に吊るすことを通して、「信仰の砦」とも言うべき、霊的な「救いの館」となりました。


 ですから「ラハブ・ゲート」、即ち「信仰の扉」は開けると同時に、真実の神の「救い」が開かれ、そこに「真っ赤な紐」を結び付けることで、今度は外側から開かれる時に、ラハブ一族の「贖い」を保証する、明確な「救い」のゲートになります。ここで覚えて戴きたいことは、この「窓」というものが、聖書には多く記述されている、非常に重要な「サイン」を示すことです。例えばノアの箱舟にも、神が最終的に箱舟の「窓」を閉じました。ノアの「箱舟」の窓は、神の「救い」を天から呼び込むゲートです。


 「窓」自体は小さなゲートであっても、そこには神の「救い」が、豊かに用意されています。そして前述したように、「人の館」に過ぎなかったラハブの館が、イスラエルが攻め込んで来た時に、「真っ赤な紐」を吊るしたことにより、一族の完全なる「贖い」を保証することになります。このことは霊的に、イエス・キリストの十字架の「血潮」を、信仰の印として掲示することを通して、神に従う人々の「救い」の場となる、即ちエクレシアの雛形でもあります。ましてやラハブは、その後イエス・キリストの家系に連なる、その重要な霊的一員になることからも、主なる神はラハブの「信仰」及び「館」を、如何様にも造り変えて、「信仰の砦」として、事前に用意していたことが分かります。


 さて「今の時代」にあって、私たちキリスト者(エクレシア)は、如何様に生きているでしょうか?現実としては、様々な物理的な家(館)に住んでいます。つまり「ねぐら」として住んでいる訳です。しかし私たち自身が「神の館」として、また「信仰の砦」として、イエス・キリストが造り変えて下さる時に、そこに私たちは「救い」のサインとして、十字架の「血潮」を高く掲げる必要があります。


 そうすれば如何様にも、神の偉大なる「救いの門」を開く、即ち主なる神の素晴らしい「救い」のご計画を、私たちは大胆に発信出来るよう、更に造り変えられて行くのです。そうです!多くの人々に、イエス・キリストの「救い」を、力強く宣べ伝えることの出来る、豊かな「信仰の館」として、私たちは造り変えられるのです。私たちが生きた「信仰の砦」として、益々用いられて参りましょう!多くの人々に「真っ赤な紐」、つまりイエス・キリストの「十字架」を掲示することで、神の「贖い」を届ける役割が、私たちには課せられているのです。


 主イエス・キリストの豊かな「救い」のご計画が、あたなの「霊」の只中に、豊かに現れ出ますように!助け主なる聖霊様を通して、あなた自身がキリストの「救い」を現わす、霊的な初穂として、更に熟練した聖徒として召し出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


※報告!
今回で「Good-Shepherd」シリーズは、当面投稿を終了させて戴きます。次月(第一日曜日)からは、新シリーズとして「終末のエクレシア」を投稿する予定です。


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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