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Good-Shepherd(No.18)

          信仰のチェック・リスト




モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすに当たってこう命じた。「・・・・その土地がどんな所か調べて来なさい。・・・・あなた達は雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。


四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。・・・・彼らはモーセに説明して言った。「・・・・そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、・・・・アナク人の子孫さえ見かけました。・・・・」カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」
                                       【民数記13章17~20,25~30節】


「現実」の不確実性
 かつてローマ帝国の建国者、偉大なる政治家であるカエサルの言葉に、次のような有名なものがあります。「我々は、自分の欲する現実しか見えていない。」この言葉の中にある、自分の欲する「現実」というのは、例えば自分が欲しない「現実」に対しては、如何に自分が無力な存在であるか、このことを逆に物語っています。私たちは、自分に都合の良いことだけは、自然と受け入れることが出来ますが、逆にネガティブな状況になりますと、これは自分の欲していない次元になりますから、想定外ということで、大抵の場合「不可能(無理)!」としか捉えることが出来ません。


 さて、今回の記事から示される第一の奥義は、私たちの見る「現実」は、所詮「不確実なものである!」という点です。つまり「確実である!」と言えるものが殆ど無い!これを先ず覚えるべきです。また「現実」が、本当の姿では無い!ということを、逆の面で捉えることが大事になります。この「不確実性」という言葉の中にある、正しい「意味」を私たちが知ることで、「現実」の中にある不安定な「要素」から、私たちは何を捉えべきか否か?が問われることになります。


 モーセは今回、カナン征服計画を進めるに当たり、先ず12人の偵察隊を編成しました。そして敵地を偵察し終えて、帰還した後に報告する、偵察レポートを彼らに要求しました。そして実際に彼らが帰還し、モーセ及び民の前で報告したレポートの内容、これが民全体を二分することになります。12人の内、ヨシュアとカレブの二人は、カナン征服計画を後押しする、「肯定的な報告」を提示したのに対し、残りの10人の報告は、まるで「結論」を示し合わせたかの如くに、「彼らは巨人で、とてもじゃありませんが、我々は勝つことが出来ません!」と、「否定的な報告」を提示したのです。


「神の事実」の確実性
 ここで覚えて戴きたいことは、「現実」しか捉えることが出来ない、世の人々の中にあって、私たちキリスト者の場合は、「現実」以外に見えるものがある、即ち「現実」を超えて働かれる、「神の事実」を捉えることの出来る、「霊の眼」をもって前進する民である!という点です。そうです!不確実な「現実」を超えた次元の中で、「確実さ」を永遠に確立して下さる、「神の事実」のみを求める、これが私たちの信仰です。


 「神の事実」とは、目に見えざる「神の領域」に存在するもの、或いは進行している神の「計画」のことです。しかし「現実」という、目に見える「事実」に頼って生きる者は、カエサルの言葉通り、自分の欲する次元(状況)のみを見ようとするため、結局は自分に合わない(欲していない)状況に至った場合に、それを「否(もう受け入れられない、駄目だ)!」と捉える傾向にあります。


 それに対して「神の事実」を探り求める信仰者は、「見えないからこそ、神の事実の真実だけを①信じて、②前進し続けます。信じて前進すれば、たとえ目の前が見えなくとも、前進し続ければ、必ず何かが待っている、つまり神の事実が必ず、その先にある!」ということを信じ、この二つの「信仰ステップ」を必ず果たそうとします。ですから私たちが見る「現実」が、如何に不確実なものであるのか、この点を謙虚に捉え直すことが、私たちの信仰に求められています。


 このようにヨシュアとカレブ以外の、十人の偵察隊全員は、目に見える「現実」に基づいた報告しか、モーセに説明することが出来ませんでした。しかしカレブは、「神の事実」を信じることを通して、「我々は必ず勝利できます!」と、勇気ある進言を添えて、報告することが出来たのです。


信仰を測る「チェック・リスト」
 今日の記事の一番重要なポイントとなる、第二の奥義について、私たちは知る必要があります。それは「神が私たちの信仰を測る上で、必ずチェック・リストが用意される。」という点です。この「チェック・リスト」という言葉は、各業界で盛んに使用されている、言わば作業上の「点検項目」のことですが、信仰面においては、その霊的意味合いが異なります。作業において点検する場合、数・量(品数)や品質等を、視覚・聴覚・触覚等で判断し、その適否をチェックしますが、信仰の場合は、ただ「神の事実」に基づいて、一人一人が①②信じて、②前進しているか否か、それを見るためのリストです。


 ここで覚えるべき重要ポイント、それは彼らが偵察行動するに当たり、各自が分散して敵地に侵入し、地元住民を装って偵察行動に入った訳ですが、最終的に「△△の時期に〇〇地点で落ち合おう!」と計画したことです。と言うことは、各自がチェック・リスト通りに偵察し、独自の判断・分析から、ある程度の「仮レポート」を、頭に整理していたはずです。にも関わらず10人が揃いも揃って、カナン征服に対して「反対説」を唱えた訳です。


 彼らが「否定的レポート」を、提示しているところを見ますと、彼らの判断の中には最初から、「良きこと(神の事実)」を期待していなかった!ことが伺えます。つまり「現実」を見てしまった彼らは、結局は「現実」に負けてしまった訳です。12人中の10人ですから、約八割の人々が、このような悲観(否定)的な信仰に陥る可能性があります。ではヨシュアとカレブの場合、彼らは最初から「恐れ」等が全く無かったかと言えば、やはり多少の「恐れ」はあったはずです。しかし彼らの信仰には、共通する特徴として「最終的に何が現実を支配し、現実を超えて遥かに優る神の次元がある!それ故、敵であろうが何であろうが、神の偉大なる働きに比べれば、それらは小さいものである!目の前の現実の大小に、決して捕らわれること無く、神の事実に基づいて分析する!」など、類い稀な信仰がありました。


 では、モーセが命じたチェック・リストの、具体的な七つの項目(リスト)を見てみましょう。①その土地の住民が強いか否か?②その土地の人数が多いか否か?③人が住む土地は、暮らしていく上で良き地か否か?④その土地の町の治安状況は、安定しているか否か?➄その土地の住民は、天幕中心の移動式住居生活なのか、それとも城壁に守られた、固定式住居生活なのか?⑥その土地(畑地)は超えているか否か?⑦その土地は木々が生い茂っているか否か?つまりオアシスや井戸等が豊富にあるか否か?という、非常に偵察し易い項目です。


 不思議なことに、モーセは偵察項目として、例えば「敵地の住民の男女比、平均年齢、身長、或いは兵士の数、武器の種類等の戦力」を調査するよう、具体的に命じませんでした。モーセが命じたことは、カナンの地を単純に(疑わずに)見て、「乳と蜜の流れるフィールドであり、その土地の産物を得ることで、神が本当に良し!とされる土地であるか否か!」を、信仰的に確認することでした。そうです!モーセは「カナンの住民(人)を見るのではなく、カナンの地にある神の事実を確認するように!」と、彼らに命じたのです。


 モーセが命じた、二つの信仰の「測り」から分かることは、主なる神は敵の住む土地柄や産物等を、彼らがどう見るのか?というテストであった訳ですが、彼らは「敵」という、人の事実(現実)を見て、極端に恐れている!ということです。しかしヨシュアとカレブの場合は、10人の報告を聞いて動揺する民を、先ずは落ち着かせ静めた後、次のように報告しました。「皆さん、落ち着いて下さい!私たちもカナンの地で、このような素晴らしい産物を取得できました。結論から申し上げます。必ず勝利できます!このような産物があること、これは神が約束を果たされている証拠です。だから前進しましょう!必ず敵に打ち勝つことが出来ます!」と。


神の「祝福(産物)」の熟す時期
 そうです!ヨシュアとカレブは、決して「現実」を恐れていません!元々二人は、敵地の「人」を見ていません。むしろ土地の産物の「素晴らしさ」を見ることで、神の約束が間違いなきもの、つまり「神の事実」を確認したのです。私たちの殆どが、10人の報告通りの、三次元敵「事実」しか見ようとしません。それは、神の麗しい「事実」とは懸け離れたものであり、悪魔サタンの「反逆」の意思が、ヘドロの如くに満ち溢れ、呪われた大地、そして霊的に汚され、罪の奴隷として縛られた人々(巨人)です。


 ところがヨシュアとカレブの如くに、聖霊様を通して与えられる、天からの「啓示」のみを求め、神の「命の言葉」に堅く絶ち続ける、真の花嫁(キリスト者)を、神は「信仰の秤」をもって、今も熱心に捜し求めておられます。何とも言い難き時代の中にあって、例えば否定的に「この日本は、もう駄目かも知れない!」と嘆く、そのような「現実」が毎日続いている訳ですが、私たちには希望があります!神の見えざる「事実」のみが、私たちの「現実」を支配し、その現実を如何様にも造り変え、そして神の偉大なる「御業」が現れ出る時に、収穫の産物が既に熟し終え、先に用意されている故、私たちはそれを取得することによって、多くの魂(人々)を霊的に刈り取る!そのような霊的大収穫(リバイバル)の時が、いずれ来るのです。


 主イエス・キリストの「来臨」の前に、私たちキリスト者には、この重要な「働き(務め)」がある!ことを、是非信じ続けて下さい!私たちは只、単純な信仰を働かせて、見えないからこそ、神の「言葉」の真実(確実性)があることを信じて、日々前進して参りましょう。イエス・キリストは共に居ます「インマヌエル」なる方として、あなたと共に前進し、先を行かれます。どうぞ、あなたが「有用な器」として、霊的に日々磨かれながら、神の偉大なる「救い」を完成する、霊的な「収穫人」としての働きに、更に強く召し出して参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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