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Good-Shepherd(No.17)

              二つの「偽物の鍵」




イスラエルがシティムに滞在していた時、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし・・・・その食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。・・・・ピネハスは・・・・この二人、即ちイスラエル人(ジムリ)とその女(コズビ)を共に突き刺した。・・・・それによって、イスラエルを襲った災害は収まったが、この災害で死んだ者は二万四千人であった。・・・・主はモーセに仰せになった。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、お前たちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こし、またこの事件の為に災害が襲った日に殺された彼らの同族の女・・・・コズビの事件を引き起こしたからである。」
                                               【民数記25章1~18節】


忌まわしき二つの「事件」
 今回の記事に記された、イスラエルの恐るべき背信行為は、彼らが犯した数々の「罪」の中においても、非常に悪に染まったものであり、忌まわしい事件です。主なる神にとって、今回の二つの「事件」は、汚らわしい反逆行為であり、ご自身の「憤り」を通り越して、直ちに「裁き」を降したき、とんでもない事件です。


 今回の事件から示される、重要な奥義の第一ポイント、それは主なる神が、彼らを「祝福の領域」へと、わざわざ導いているにも関わらず、彼ら(私たち)が神の「ゲート」を開ける際に、天より与えられる「信仰」の賜物(鍵)ではなく、「肉なる判断(偽物の鍵)」という、自分の「罪」から生じる意思をもって開ける時に、果たして何が起きるのか?という点です。実は今回の「ペオル事件」と、「コズビ事件」の中に、その結果を見ることが出来ます。


 そうです!「正しい道」ではなく、悪しき「罪の次元」が、その先に待って(待ち構えて)いることを、私たちはこの事件から知る必要があります。私たちが、神から与えられる「信仰」という「本物の鍵」をもって開けない場合、直ちに悪魔サタンが動くなど、巧みに私たちの「肉なる意思」に働きかけて、特に私たちの「欲望」の意識に潜り込みます。そしてこの「欲望」の意識の中に、「偽物の鍵」が提示された場合には、私たちは必ずこの鍵をもって、神のゲートを開けて、肉の力で前進しようとしますが、その先に待っている道は、決して「正しい真理」に至るものではなく、悪しき「罪の次元」に支配されるものです。


 この悪しき「罪の次元」は、サタンが巧妙に私たちの歩む先々に、「罠」の如くに仕掛けた霊的トリックです。それは、まるで本物のように見えるもの、つまり「真実」に見えてしまうものです。そのような偽りの「真実」を、サタンは私たちの行く先々に、巧みに用意し「罠」を仕掛けているのです。このことを、私たちは常に覚えておかなければ、私たちはいとも簡単に、悪魔サタンの投げかける、「偽物の鍵」を拾ってしまい、最終的に「罠」に掛かるのです。


バアルという名の霊的「罠」
 今回の記事に記された、「ペオルのバアルを慕った」(3節)の文言にある、「バアル」という名称は、実は旧約聖書の中に多く記述されていますが、この「バアル」の名の持つ霊的意味を、私たちは正しく知る必要があります。実はイスラエルの民が、最終的に目指そうとしている「カナンの地」には、様々な土着の神々(偶像神)が存在しました。その中で有名な神々の名称を紹介しますが、先ずヘブライ語においてもよく使用される「エル(主なる神)」、これはカナンの神々の中で、第一神である①「エール(大地の神)」です。第二に②ダゴンの神で、これは第三の神「バアル」の父親的存在です。第三が今回の③バアルで、恵みの雨をもたらす豊穣の神です。第四に④アシェラ(アシラート)の神で、神々の女王的存在に当たり、エールが「大地の神」であるのに対し、アシェラは「海の神」です。


 これらの神々の名称の中で、特に「バアル」という言葉は、霊的には警告用語(red-signal)として、聖書の中に多く記述されています。何故イスラエルの民は、この「バアル」を、その時々において、霊的に慕うようになったのでしょうか?いくら異邦人の娘たちが、同族の娘たちよりも魅力的だからと言って、果たして「バアル神」を、簡単に拝むようになるのでしょうか?実はここに、悪魔サタンが仕掛ける霊的「罠」が、巧妙に隠されているのです!


 サタンの「意思」の中には、常に自己中心的な罪の「思考」が、巧妙に組み込まれていること、この重要ポイントを先ず知っておくべきです。「自己」中心的とは、「神」を中心(中核)として(優先的に)考えることではなく、「自己」の欲望から生まれる、勝手気ままな「願い」、また肉なる「判断」や「意思」の働きです。これらは全て、サタンの持つ「意思」の性質(特徴)です。このサタンの「意思」が、偶像神の中に巧みに組み込まれています。


 サタンが私たちに仕掛ける霊的「罠」の特徴は、世的な「マジック(トリック)」の如くに「あるものを、あたかも本物のように見せる!」という点です。それはごく普通のもの(現象)を、まるで神から与えられたものの如くに、素晴らしく見せようと働きかけます。例えばイエス・キリストが、荒れ野においてサタンから誘惑された時、先ず「あなたが神の子ならば~」と問いかけながら、イエス・キリストを「神の言葉」をもって、巧妙に仕掛けた「罠」へと誘い込みました。


 この時サタンは、空腹で衰弱し切ったイエス・キリストに対して、故意に挑発的言葉をもって、「言葉」のトリック(餌)を投じました。「あなたが本物の神の御子であるなら、無から有を創造することは、そんなに難しいことではないですよね!さー、石ころに命じなさい!パンになれ!と。石ころのままでは、何の役にも立ちませんが、パンになれば、あなたばかりでなく、多くの人々の飢えを満たすことの出来る、神の素晴らしい奇跡につながるでしょうから。」と。ここにサタンの仕掛ける、霊的な「罠」があります。


 私たちが霊的に「正しい道」に行こうとする際に、悪魔サタンは巧みに、世的なトリックという「惑わし」をもって、エバを誘惑した時と同様の、神の「御心」から離れる方向に導こうとします。実にサタンは巧妙に、目に見える「現実の偶像」ではなく、私たちの目に見えざる「次元」にある、霊的な「バアル」を、私たちの肉なる「意思」に投じることがある!それが今回の二つの「事件」の教訓(red-signal)です。つまり見えざるバアルとは、異邦人の娘たちがイスラエルに投げかけた、甘い言葉の「囁き(誘いかけ)」です。


二つの疑問
 先ず第一に、何故彼らは、いとも簡単に騙されたのでしょうか?目に見えざる偶像の働きがある時、私たちは簡単に騙されることを、先ず知っておくべきです。またその仕掛けるパターンが、実に巧妙であるが故に、殆どの人が騙されるのです。サタンは、私たちの「霊」を常に探りながら、その隙間(弱点)を知ろうと試みています。一人一人に、必ず「弱点」があることを、サタンは熟知しているからです。「弱み」イコール、それは本人の望んでいる肉の意思、つまり「欲望」です。それは各自の持つ「願い」、生きる上での「意思」や「希望」、そして生きて行く上での「生き甲斐」や「拠り所」のことです。


 例えば「信仰」の中に、それらが働く時には「強み」にもなりますが、サタンによる巧妙な罠が、私たちの「霊」の中に仕掛けられますと、それが「誘惑」の領域へと、次第に引きずり込まれて行く、そのきっかけとなります。実は、私たちが生きている時代も、今回の事件と同様に、いずれ台頭する「反キリスト」の出現の時に、殆どのキリスト者たちが騙されて行く構図が、今回のカナン(モアブ、ミディアン)と、イスラエルの、悪しき「結び付き(汚れた関係)」にあります!


 第二に、何故イスラエルは、「カナン」の汚れに気付くこと無く、簡単に汚染されたのでしょうか?それは、イスラエルの霊的油断にあります。この霊的油断が、「堕落」と「貪り」を呼び込み、そのような「汚れ」を隠したサタンが、異邦人の娘たちを用いて遣わしたのです。彼女たちの「色じかけ」とも言うべき、言葉巧みな「甘い言葉」の誘いかけと、食事を共にし合うことで、あたかも民族交流の如きイベントが催されます。人は「戦争」よりも、「平和」を望んでいます。


 しかし異邦人との文化交流、また様々な「交わり」の中に、サタンの「汚れ」が少しずつ入りますと、それは純粋な「真水」の中に、一滴の「不純液」を落とすのと同様に、もはや「真水(純水)」ではなくなります。イスラエルの若者の元に、派遣されて来た異邦人の娘たちは、イスラエルを貶める敵(異邦人)の「策略」であり、サタンの仕掛ける霊的「罠」です。将来「反キリスト」が、真っ先に「罠」を仕掛けるのは、この世の人々ではなく、私たちキリスト者です。ある面それは、聖霊様から見る限り、「本物(真の花嫁)」か「偽物(愚かな山羊)」かを見分ける、「選り分け」の時ともなります。


 勿論私たちは、「666」が反キリスト(偽救世主)であることを、正しく見定める「霊の眼」を持つことも重要ですが、サタンが「この世」において、様々に働きかけるものの中に、それが「本物(真実)の神である、主イエス・キリストの「命の言葉」なのか、それとも羊の毛皮を被った野獣(悪霊)の、甘い(耳触りの良い)「誘いかけ」であるのかを、明確に判別できる「霊の耳」を持つことが重要になります。「その時」には、殆どのキリスト者が騙されます。分からないからです。目に見えざる「神の事実」を見ようともせず、「世」における自己の「栄光」のみを、必死に追い求めて成功して行く時に、いつの間にか自分が「自分」を崇める、つまり自分が偶像(バアル)になっているからです!


 あなたを「バアル」に仕立てること、これがサタンの「狙い(戦略)」です。バアルの「意思(汚れ)」を、今回のイスラエルの若者たちと同様に、あなたが霊的に受け継いで、その悪しき「汚れ」に汚染されることで、あなた自身が「バアルの神々」になること、これは非常に怖ろしいことです。何故なら、「反キリスト」の台頭の時に、彼を本物の「救世主」と、簡単に信じてしまい、遂には彼の「兵隊」として、従順に働くようになるからです。


「偽物の鍵」に触れるな!
 さて、今回の記事の奥義である、二つ目の重要ポイントですが、それは二つの「偽物の鍵」についてです。私たちの「信仰」の歩む、その先には必ず、この二つの「偽物の鍵」が落ちています。故に、私たちは「警戒心」をもって、霊的に「油断」しないことです。この「偽物の鍵」とは、①ペオル・キーと、②コズビ・キーです。私たちは自分の歩みに、それを見つけたら(聖霊様から示されたら)、決して拾うことをせず、ことごとく廃棄処分して下さい!


 「ことごとく・・・・」と命じられている場合、それは「いつでも落ちているもので、毎回の如くに誘いかけを与える汚れたもの!」を意味しています。私たちの「信仰」の歩みの先には、常に美しい「宝石」の如くに、それは毎回落ちているからです。「ペオルのバアルを慕った」(3節)の「慕う」という動詞は、英語で「worship」と言い、文字通りそれは神々を拝むことです。奥深い霊的意味としては、「軛(くびき)を共にする」ことです。それは「運命を共にすること」で、彼らの世界に一度立ち入ったら、二度と出られなくなる程の、汚れた状態にまで結び付きが深くなります。


 ですからペオルのバールを「慕う」とは、彼らの偶像と一体化する、つまり一つになって、自分の「霊」の只中に、バール神を据えることになり、最終的に自分が「バール化」することです。これは、サタンが目論む「自己栄光」の姿です。即ち「自分が最高の存在である!」と。「創造主より、自分の方が最高である!」と錯覚した(うぬぼれた)サタンは、遂に神に反逆した訳です。ですから、私たちが二つの「偽物の鍵」を拾い、それを使い(慕い)始める時に、必ずサタンの世界に組み込まれて行くのです!


あなた方は、信仰の無い人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。・・・・神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです。『・・・・だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのを止めよ。そうすれば、私はあなた方を受け入れ、父となり、あなた方は私の息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。
                                          【Ⅱコリント書6章14~18節】


 パウロのこの言葉には、私たちが如何なる「偶像」に対しても、霊的にどう対処して行動すべきか?その具体的な基本行動が、分かり易く提示されています。私たちの「信仰」の歩みには、どうしても「偽物の鍵」がちらつく訳ですが、それは決して「宝石(本物)」ではありません!それは私たちの「霊」を蝕む、汚れた「ばい菌」の如きものです。故に①(近付いて)見ない!②触れない!③持ち込まない(廃棄しなさい)!、この霊的三原則を習慣化して下さい。何故なら、神の「聖さ」とサタンの「汚れ」は、相反する次元にあるもので、決して混じり合うことが無いからです。


 しかしサタンの場合は、柔和な装いをもって「いいえ違います!一緒になることは可能です。共に一つとなって、この地上に平和を造り上げて行きましょう!」と、全ての「争い」を収めながら、華々しく国際政治にデビューさせ、本物の「救世主」の如くに登場するのが、「反キリスト(666)」です。この時に、「偽物の鍵」を大事に持つキリスト者は、簡単に騙されることになります。


 しかし私たちが、霊的な「汚れ」の一切に対して、触れることを止めて、尚廃棄処分する者には、主なる神自らが「父」となって、あなた方を守り支え、そして何よりも「神の息子」、そして「神の娘」という、素晴らしい霊的身分の者として、「神の家族」に組み込んで下さいます。それ故聖霊様は、私たちキリスト者に対して、常に厳しく警告します。「神以外の如何なるものを、慕ってはならない!」と。


 続いて聖霊様は、厳しい警告の言葉をもって、私たちに問い質します。「あなたはキリストを自分の頭(かしら)、即ち真の花婿(主人)として、常に従っていますか?」と。「頭」とは、グループの「長(トップ)」の如き存在でもあり、将来のトップ(リーダー)として、期待される人物のことです。実は今回の「コズビ事件」の時に、ピネハスによって処刑された、二人の若き男女カップルは、ジムリがシメオン族のプリンスで、コスビがミディアン人のプリンセスでした。いずれも将来の「頭」と、有望視される地位にありました。


 このように、キリストを「頭」とするとことは、私たちの「信仰」にとって、無くてはならない重要な「掟」です。私たちキリスト者にとって、「頭」とは霊的に「永遠の夫(伴侶)」を意味しています。つまりイエス・キリストを、①私(あなた)の「真の花婿」として慕い求め、②忠実にキリストの「生き様」に従うことであり、③キリストと「人生」を共にすることです。即ち良い意味での、軛を共にすることです。ですから、私たちが結ばれるべき「真実の伴侶」、それは唯一の神の御子、イエス・キリストだけです!これ以外にあってはなりません。


 私たちの信仰生活には、常に次のような誘惑(偽物の鍵)が、ふと見えて来ませんか?「自分を高めようとする鍵」、そして「キリストでは無いものを頭とする鍵!」、「世的なモノの中に、世的な栄光を求めようとする鍵」など。しかし覚えて下さい!それらは全て、神から見て「汚れ」です。あたかもそれが、「本物」の如くに見せる悪魔サタンの、霊的「罠」に騙されない為には、「弱い自分」を素直に認めて、聖霊様を通して神の「赦し」と、真実の「恵み」を戴きながら、天のみを見上げて前進して参りましょう!


 そうすれば必ず、天から信仰という「本物の鍵」が、求める者に等しく与えられ、あなたはキリストを「頭」とする真の花嫁として、益々練り聖められて行くことでしょう。真実の神は私たちを「神の息子」、そして「神の娘」として、イエス・キリストの御元へと、常に導いて下さる方です。あなたの信仰の「歩み」に、イエス・キリストの「恵み」と、聖霊様との「親しい交わり」が、真実の神の「愛」をもって、豊かに創造されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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